昆虫教室の先生
翌朝。昆虫館には、開館前ならではの静かな空気が流れていた。展示室の照明が順に灯り、標本箱の中の蝶たちが、まだ眠っているような柔らかな光を受ける。展示室の標本箱を見渡すと、蝶たちは美しく並んでいた。けれど、一冊の本から大切なページだけが抜け落ちているように、オオムラサキのいた場所だけが静かな空白になっていた。池尻と昆陽は、館長の案内で資料室へ入った。
「今日は、三年前に退職した職員についてお話を伺いたいと思います」
池尻が穏やかに切り出すと、館長は一瞬だけ視線を落とし、それから、少し間を置いてうなずいた。
「…佐伯先生のことですね」
その名前が、ようやく口にされた。佐伯美咲、昆虫館の学芸員であり、子ども向け昆虫教室の担当者。二十年近く勤め、多くの子どもたちから「昆虫の先生」と親しまれていた人物だった。資料室には、歴代のイベント記録が整然と並べられていた。昆虫観察会、夏休み工作教室、夜の昆虫探検、親子採集会。ページをめくるたび、写真の中の子どもたちが笑っている。その中心には、いつも佐伯の姿があった。帽子をかぶり、しゃがみ込んで子どもと目線を合わせる。虫かごをのぞき込み、何かを見つけた子どもと一緒に笑う。その笑顔は、展示室のオオムラサキのように、静かで、やわらかく、それでいて強く印象に残るものだった。昆陽が思わず口を開いた。
「ええ先生やったんやな」
館長は懐かしそうに微笑んだ。
「昆虫の名前を教えるだけではなく、『よく見てごらん』が口癖でした。答えを先に言わない人だったんです」
池尻はその言葉に静かにうなずいた。
「…読書と似ていますね」
昆陽が横目で見る。
「また本か」
「はい。本も、最後まで読まないと答えは分かりません。先生も、子どもたちに『自分で見つける楽しさ』を教えていたのかもしれません」
そのあと、館内の職員たちにも聞き込みを行った。佐伯の人柄について尋ねると、返ってくる言葉はどれも似ていた。
「本当に優しい方でした」
「子どもの名前を全部覚えていたんです」
「昆虫が苦手な子にも、無理をさせませんでした」
「怒っているところなんて、見たことがありません」
だが、退職理由を尋ねた瞬間、空気がわずかに変わる。ある職員は、少し声を落として言った。
「体調を崩されたんじゃないかと…」
別の職員は、首をかしげながら答える。
「いえ、たしかご家族の介護だったはずです」
受付係は、記憶を探るように視線を泳がせた。
「引っ越しされたんじゃなかったですかね。遠くへ…」
ボランティアの男性は、言いにくそうに口を開いた。最後に若い学芸員が、少しだけ声をひそめた。
「館長と、何かあったって聞いたことはあります。…でも、誰も詳しくは知りません」
どの証言も、それらしく聞こえる。けれど、ひとつとして重ならない。体調不良、介護、引っ越し、館長との不和。どれも断片としては成立しているのに、つなぎ合わせようとすると、かえって継ぎ目が目立つ。まるで、同じ出来事を見ていたはずの人たちが、別々の理由を後から当てはめているようだった。昆陽は廊下へ出ると、小さく息を吐いた。
「誰も本当の理由を知らんのやな」
池尻も静かにうなずく。少しだけ言葉を選ぶ。
「知らないというより…話していないのかもしれません」
「どういうことや」
「同じ出来事でも、人は自分が理解した形で記憶します。だから証言がばらばらになる。でも…」
池尻はわずかに目を伏せた。
「本当に大切な理由だけは、誰も口にしていない気がします。」
昆陽はその言葉を聞き、資料室の扉の向こうを振り返った。誰もが何かを隠している。あるいは、隠しているつもりがなくても、肝心な部分だけを避けている。そんな気配が、静かに残った。
午後。二人は再び資料室に戻り、昆虫教室の教材や配布プリントを調べていた。色鮮やかなイラスト、子どもにも分かりやすい説明文。「春の虫を探そう」「夜の昆虫観察」「チョウの一生」池尻は一枚一枚、丁寧に目を通していく。昆陽は苦笑した。
「よう全部読むなあ」
「読む順番にも意味がありますから」
池尻はそう言って、まず年度ごとにプリントを並べ直した。次に、同じテーマのものを横に揃える。最後に、ページ数と構成を見比べる。すると、ある違いがはっきり見えてきた。
「……昆陽さん」
「ん?」
「少し気になることがあります」
池尻は机いっぱいにプリントを並べ始めた。
「見てください」
昆陽も身を乗り出した。
「毎年…オオムラサキだけ、一枚多いんです」
「一枚?」
「はい」
他の昆虫は、どれも一ページで終わっている。モンシロチョウも、カブトムシも、ゲンゴロウも。だが、オオムラサキだけは必ず二ページ構成だった。池尻は、そこにまず一つ目の意味を見つけた。
「一枚目は、生態の説明です。二枚目は、『観察のしかた』になっています。つまり、ただ知識を教えるだけではなく、実際にどう見ればいいかまで教えている」
昆陽がうなずく。
「たしかに、他の虫より丁寧やな」
池尻はさらにプリントをめくった。
「しかも、二枚目の内容が毎年少しずつ違います。観察する時間帯、翅の色の見え方、光の当たり方で印象が変わること。子どもが見落としやすい部分まで、毎年言い換えているんです」
そこで池尻は、二つ目の気づきにたどり着く。
「つまり佐伯先生は、オオムラサキを“好きな虫”として扱っていたのではなく…“何度も見直してほしい虫”として教えていたんです」
昆陽が目を細める。
「何度も見直す…」
「はい。一度見ただけでは分からない。角度を変えると、色も印象も変わる。だから毎年、少しずつ違う言葉で説明していた」
池尻はプリントの束をそっと重ねた。
「まるで、一冊の本を何度も書き直すように。読み手に合わせて、伝え方を変えていたんです」
昆陽はしばらく黙っていた。
「…オオムラサキに、何か特別な意味があったんやな」
池尻は静かにうなずく。その特別さは、単なる好みではない。毎年同じ虫を、同じように、しかし少しずつ違う言葉で教え続ける理由。それは、ただの教材ではなく、誰かに向けて繰り返し投げかけられたメッセージのようにも見えた。展示ケースには数多くの蝶が並んでいた。しかし、池尻の目はその美しさではなく、一つだけ欠けた場所へ向いていた。
「読んでいると、不思議なんです。本は書かれている文章より、抜け落ちたページの方が気になることがあります。この展示も同じですね。オオムラサキがないこと自体が、一つの文章になっています」
そのとき、館長が古いアルバムを持ってきた。
「これは開館十五周年の記念写真です」
厚い表紙を開くと、館員たち、ボランティア、地域の子どもたちが並んだ集合写真が現れた。池尻はゆっくりページをめくる。その手が、ある一枚で止まった。
「……ありました」
昆陽も隣からのぞき込む。写真の中央には、佐伯が立っていた。子どもたちに囲まれ、穏やかに笑っている。そして、その少し後ろ。白衣姿の男性が、ひとつの標本箱を抱えて立っていた。
「相沢さん…」
被害者・相沢研究員だった。二人は自然な距離で並び、同じ標本箱を見つめている。その標本箱は、昆虫館の展示室にあるものと同じ形式だった。木枠に収められた透明な蓋。中には、深い青を帯びたオオムラサキが、翅を閉じたまま静かに固定されている。ガラス越しでも、その翅は生きているように見える。光を受けるたびに、黒にも紫にも変わるその色は、見る角度によって印象を変え、まるで何かを隠しているようでもあった。池尻は写真をさらに近づける。池尻は、ここで気づいたことを一つずつ整理するように言葉にした。
「昆陽さん」
「どうした」
「この標本箱…まず、佐伯先生は毎年オオムラサキを特別に扱っていました。教材でも、観察のしかたを繰り返し教えていた。つまり、先生にとってオオムラサキは、ただの標本ではなく、何度も見返すべき大事な対象だったんです」
昆陽がうなずく。
「そうやな。それに、この写真では相沢さんが、その標本箱を抱えとる」
「はい。しかも、二人は同じ箱を見ています」
池尻は写真の中央を指で示した。
「ここで大事なのは、二人が“同じものを見ている”ことです。佐伯先生は教える側、相沢さんは研究する側。立場は違っても、同じ標本箱を共有していた」
昆陽が写真を見つめる。
「つまり、ただの記念写真やない。二人の関係を示す写真やな」
「はい」
池尻は静かに続けた。
「そして、事件前夜の写真に映っていた青い蝶のブローチ。それがオオムラサキを模していた。ここで初めて、三つの点がつながります。オオムラサキの教材、オオムラサキの標本箱…そして、青い蝶のブローチ。どれも同じ虫を中心にしている」
昆陽は息をのんだ。
「佐伯先生と相沢さんは、オオムラサキを通じて何かを共有しとったんか」
「そう考えるのが自然です」
池尻は写真を見つめたまま、さらに一歩踏み込む。
「佐伯先生が毎年オオムラサキを特別扱いしていたのは、好きだったからだけではない。相沢さんがその標本箱を抱えていたのも、単なる展示のためではない。二人の間には、オオムラサキに結びつく何かがあった。だからこそ、事件前夜のブローチも、ただの装飾品ではなく、その関係を示す印だった可能性があります」
昆陽はゆっくりと頷いた。
「なるほどな。オオムラサキを見れば、二人のつながりが見えてくるわけか」
「はい。まず教材で“何を大事にしていたか”が分かる。次に標本箱で“何を共有していたか”が分かる。そのうえで、ブローチが“誰に結びつくか”を示している」
池尻はそこでようやく顔を上げた。その言葉に、昆陽は小さく笑った。
「順番に見ると、意味がつながります」
「ほんま、お前は読むのが上手いな」
池尻は少しだけ照れたように目を伏せる。
「……本も、標本も、写真も。順番を間違えると、見えるものが変わりますから」
館長が持ってきた古いアルバムを見返す。開館十五周年の記念写真。写真に映る標本箱のラベルには、はっきりと書かれていた。『オオムラサキ』…事件から姿を消した標本箱が、確かにそこに存在していた。そして、その箱を挟むように立つ佐伯と相沢。二人の笑顔は穏やかだった。だが、その一枚の写真は、ただの記念写真ではなかった。オオムラサキの標本箱が、二人の間に置かれている。それは、単なる展示物ではなく、何かを共有していた証のように見える。佐伯が毎年オオムラサキを特別に扱っていた理由、相沢がその標本箱を抱えていた理由そして、事件前夜の写真に映っていた青い蝶のブローチ。それらが一本の線でつながり始めていた。
池尻の指が、写真の端で止まる。笑顔の奥に、見てはいけないものがある気がした。オオムラサキの標本箱、佐伯の横顔、相沢の視線。その三つが重なった瞬間、ただの記念写真が、事件の伏線そのものに変わる。次の瞬間、誰かが資料室の扉を開ける音がした。




