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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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15/30

ガラスに映る視線


昆虫館資料室。昼下がりの光が細い窓から差し込み、埃の粒を金色に浮かび上がらせていた。古い木製の机の上には、開館十五周年の記念アルバムが静かに開かれている。ページをめくるたび、乾いた紙の擦れる音が小さく響き、部屋の静けさをいっそう際立たせていた。遠くの展示室からは、空調の低い唸りだけがかすかに届く。時間が止まったような空気の中で、言葉にされない緊張だけが、ゆっくりと沈んでいた。

 

池尻は一枚の集合写真を見つめ続けている。子どもたちの笑顔。夏の熱気をそのまま閉じ込めたような、少し眩しい表情。昆虫教室を担当していた佐伯、やわらかな笑みを浮かべ、子どもたちの肩にそっと手を添えている。そして、その後ろで標本箱を抱える相沢研究員。写真は何気ない記念撮影に見える。だが、池尻の視線は人物ではなく、その標本箱へ向いていた。ガラス越しに反射した光が、そこだけ妙に白く浮いて見える。写真の中で、標本箱の表面だけがわずかに光を返し、周囲の温かな空気から切り離されているようだった。池尻は、しばらく黙っていた。ページの端に指を置いたまま、視線だけを動かす。何かを確かめるように、何度も、ゆっくりと。


「昆陽さん」

「ん?」

「この写真で一番大事なのは、人じゃないかもしれません」

「どういうことや」


昆陽が顔を上げ、眉をわずかに寄せる。池尻は、標本箱を指差した。


「見てください。この標本箱です」


館長も写真を見つめながら、静かに言った。


「…懐かしいですね」


その声には、遠い季節を思い出すような、かすかな揺れがあった。資料室の蛍光灯がわずかに瞬き、白い光が机の上を冷たく照らす。誰もすぐには言葉を継がない。沈黙のあいだに、紙の匂いだけが濃くなる。


「当時は入口正面に展示されていました。夏休みになると、子どもたちが真っ先にそこへ走っていったんです」


昆陽が確認する。


「オオムラサキですか」

「ええ」


館長はうなずいた。


「照明を落とした展示室で、あの青紫だけがふっと浮かぶんです。子どもたちはみんな、ガラスに顔を近づけて見ていました」


少し寂しそうに笑う。


「今はもう、ありませんが」


その一言が、資料室に静かに落ちた。時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。壁際の古い扇風機が、回っているのか止まっているのか分からないほど弱い風を送っていた。捜査で判明した事実。オオムラサキの標本箱だけが、記録を残さず姿を消している。貸出記録も、廃棄記録も、移設記録もない。まるで最初から存在しなかったかのように。しかし、この写真は違った。三年前よりさらに昔…確かにその場所に、オオムラサキの標本箱は展示されていた。池尻が穏やかに言う。


「これで分かりました。標本箱は消えたんじゃありません。消されたんです」


昆陽は写真から目を離さず、低く息を吐いた。


「事故やない。誰かの意思でやな」

「はい」


池尻は写真をさらに近づけた。相沢が抱える標本箱。木枠。透明なガラス。羽を広げたオオムラサキ。写真の粒子は粗いのに、その蝶だけは妙に鮮やかだった。青とも紫ともつかない色が、紙の上でかすかに滲んでいる。印刷の網点のざらつきの向こうで、翅の輪郭だけが不自然なほどくっきりして見える。池尻の目が、そこで止まる。ほんのわずかに、呼吸が浅くなる。


「……あれ?」


昆陽が顔を上げる。


「どうした」


池尻は、写真の一点を指先で示した。


「ガラスです」

「ガラス?」

「何か映っています」


肉眼では判別できないほど小さい。だが、標本箱のガラス面に、薄い影のようなものが確かに映り込んでいた。写真の中で、そこだけ空気がわずかに歪んでいるようにも見える。光の筋が斜めに走り、その反射の奥に、誰かの輪郭が沈んでいる。館長も目を細めた。


「言われてみれば…」


池尻は写真を持つ指先に、わずかに力を込める。ガラスの反射は、ただの光ではない。そこに立っていた誰かの存在を、かすかに残している。昆陽はすぐ携帯を取り出した。


「科捜研へ持って行こう」



午後、科学捜査研究所。白い蛍光灯の下で、写真は高解像度スキャナーにかけられた。機械が低く唸り、モニターには細かなノイズを含んだ画像が映し出される。担当研究員が慎重に処理を進めていくたび、画面の中の輪郭が少しずつ変わっていった。機械音は乾いているのに、部屋の空気は妙に湿って感じられる。モニターの青白い光が、三人の顔に冷たい影を落としていた。


「反射除去。、コントラスト補正、ガラス面のみ抽出」

 

淡い電子音が鳴るたび、部屋の空気が張りつめていく。モニターの中で、ぼやけた光の層が一枚ずつ剥がされていくようだった。処理の進行に合わせて、画面の端に残っていたノイズが細かく震え、まるで何かがそこから逃げようとしているようにも見える。昆陽が腕を組んだ。


「見えるか…」


池尻は黙って画面を見つめる。処理が進むにつれ、写真の奥に潜んでいた何かが、ゆっくりと姿を現していく気配があった。蛍光灯の白さとモニターの青白さが重なり、研究所全体が冷えた水槽のように静まり返っている。やがて研究員が小さく声を上げた。


「出ました」


モニターに一人の人物が現れる。鮮明ではない。顔も判別できない。だが、人影であることは間違いなかった。写真撮影の列には加わっていない。少し離れた場所で立ち止まり、一方向だけを見つめている。その姿は、まるで写真の外側から何かを監視しているようにも見えた。背後の白い壁に溶けるように立ちながら、視線だけが異様に強い。


「向いている方向はで」


研究員が地図を重ね合わせる。画面の上に薄い線が引かれ、人物の視線の先が示される。さらに位置を補正する。


「…公園北側、池の方向です」


昆陽が息をのむ。


「池……」


そこは採集ノートの丸印、採集用トラップ、管理番号H-7のクヌギ。。そして、防犯カメラの死角。すべてが集中している場所だった。


研究所を出るころには、夕暮れが近づいていた。空はまだ明るいのに、地面にはもう長い影が伸びている。風は少し湿り気を帯び、遠くで鳴く蝉の声が、夏の終わりを告げるように途切れ途切れに響いていた。アスファルトの熱がまだ残っていて、足元からじわりと上がってくる。だが、空気の端には、ほんのわずかに秋の冷たさが混じり始めていた。


二人は昆虫館へ戻る途中、公園の池のほとりへ立ち寄った。水面は夕方の光を受けて鈍く光り、風が吹くたび細かな波紋が広がる。岸辺の葦が擦れ合う音が、かすかな囁きのように耳に残った。どこかで水鳥が一度だけ鳴き、すぐに静けさが戻る。池の表面には空の色が映っているはずなのに、木々の影が濃く落ちていて、底の見えない黒い鏡のようにも見えた。池尻は静かに池を見つめる。水面には夕日が細く砕け、風に揺れるたび、金属片のような光がちらちらと走る。そのたびに、見えない何かが水の下で動いたような錯覚を覚える。


「昆陽さん」

「ん」


池尻は、すぐには続けなかった。池の向こうで風が木立を揺らし、葉擦れの音がざわざわと広がる。水面に落ちる枝の影が、ゆっくりと形を変えていく。


「相沢さんは…」


そこで、また一度止まる。


「昆虫を研究していた人です。でも、事件の少し前から採集ノートも、トラップも、写真も…全部、この池へ向いています」


昆陽は黙って聞いている。池の向こうで風が木立を揺らし、葉擦れの音がざわざわと広がった。水面に落ちる枝の影が、ゆっくりと形を変えていく。


「昆虫を追っていたなら、もっと森や花壇にも記録が残るはずです。」

「そうやな」

「でも残っていたのは、池ばかりでした。」


池尻はゆっくりと言葉を続ける。


「相沢さんは昆虫ではなく、この人物を追い続けていたのかもしれません」


昆陽は静かに池を見つめた。水面に映る夕日が、風に砕かれて細かく揺れている。波紋が広がるたび、光は歪み、何かの輪郭を隠してしまう。


「つまり相沢さんは、誰かをずっと観察しとった」

「はい。研究対象ではなく、人を」


その瞬間、風が一度だけ強く吹き抜けた。木々がざわりと鳴り、池の水面が大きく揺れる。夕日の光が砕け、無数の細い光片となって散った。まるで水の底から何かが一瞬だけ浮かび上がり、すぐに沈んだようだった。そのとき、昆陽の携帯電話が鳴った。


「俺や」


短く応じる。相手は捜査本部の刑事だった。受話口から漏れる声は聞こえないが、昆陽の表情が少しずつ変わっていくのが分かる。


「…ほんまか」


一度だけ目を細める。


「分かった」


電話を切ると、池尻へ向き直った。


「新しい情報や」

「何でしょう」

「事件当夜。公園の売店のレジが、一回だけ開けられとる」


池尻は首をかしげた。


「営業時間外ですよね」

「ああ。金は減っとらんから、盗難目的やない。でも、レジだけ開いとる」


池尻は静かに考え込む。池の水音が、沈黙のあいだを埋めるように小さく響いていた。遠くで鳴く蝉の声も、いつの間にか止んでいる。


「……誰かがレジの中身ではなく、開けること自体に意味があったのかもしれません」


昆陽は小さくうなずいた。


「次は売店やな」


池の向こうには、小さな木造の売店が夕日に照らされていた。窓ガラスは赤く染まり、閉じたシャッターの隙間からは中の暗さがのぞいている。何も語らない建物なのに、そこだけ空気が少し重く感じられた。夕暮れの光がガラスに反射し、売店の輪郭をぼんやりと縁取っている。その静けさが、かえって不穏だった。静かな売店は、ただそこに立っている。しかし、その中には…事件の新しい一頁が待っているようだった。


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