レジが空いた一分間
翌朝。夏の日差しが公園の木々を照らし始める頃、池尻は昆陽とともに公園内の売店を訪れていた。売店は池へ続く園路の角に建つ、小さな木造の建物だった。朝市が開かれる日には多くの人で賑わい、休日には親子連れや散歩を楽しむ人々が立ち寄る場所である。だが、この日は黄色い規制線が入口を囲み、静まり返っていた。
「事件当夜、この売店は午後6時には閉店しとる」
昆陽が資料を見ながら言う。
「被害者の死亡推定時刻は、それより3時間以上あとや」
池尻は静かにうなずいた。
「営業は終わっていました」
「ああ、それやのに…」
昆陽は売店の奥を見つめる。
「午後9時13分、レジだけが一回開いとる。」
二人は店内へ入った。売店は昔ながらの造りだった。飲み物の冷蔵庫、菓子の棚、昆虫図鑑や植物図鑑が並ぶ小さな書棚、子ども向けの虫取り網や観察ケース。どれも整然と並び、荒らされた形跡はない。昆陽はレジへ近づいた。
「科捜研の確認では、壊された形跡もない。正規の操作で開けられとる」
池尻もレジを見つめる。年季の入った電子レジ。液晶は小さいが、開閉履歴を内部に記録する機能が備わっている。
「閉店作業のあとに開いたんですね」
「そうや、しかも…」
昆陽は資料を差し出した。
「開いとった時間は一分ちょうど」
「一分…」
「開けっぱなしにはなっとらん」
池尻は静かに考え込んだ。…一分。長すぎず、短すぎない時間。
「何かを探すには十分ですね」
売店の店長にも話を聞くことになった。六十代半ばの男性は、落ち着かない様子で店内を見回している。
「売上金は確認しましたが、一円も減ってません。両替用の小銭も、そのままでした」
昆陽が尋ねる。
「レジに貴重品は」
「ありません」
「鍵も」
「予備は事務所です」
店長は困ったように首を振る。
「盗むもんなんて、ほんまに何もないんですよ」
池尻はレジの中を静かに見つめた。紙幣、硬貨、レシート、伝票。どれも普通の売店と変わらない。しかし…。
「昆陽さん」
「ん?」
「犯人は、お金を見ていません」
昆陽が眉を上げる。
「何で分かる」
「もしお金が目的なら、一分しか開けない理由がありません。もっと急いで取って逃げるはずです。」
「なるほど」
「逆に一分で十分だったということは…」
池尻は静かに言った。
「探していた物の場所を、最初から知っていた可能性があります」
「つまり誰かが、レジの中に何か隠しとったわけか」
「そう考える方が自然です。売上金ではなく、別のものです」
池尻は書棚へ目を向けた。そこには昆虫図鑑が数冊並んでいる。
「本も…読む人は、栞を挟みます」
昆陽が苦笑した。
「また本か」
「はい、大事なページを忘れないために。でも人によっては本の間ではなく、身近な場所へ大切なものをしまうことがあります」
池尻はレジへ視線を戻す。
「毎日必ず開ける場所。誰にも不自然に思われない場所。それが、このレジだったのかもしれません」
科捜研の鑑識員が細かな鑑定を進めていた。指紋、繊維、微細な埃。そしてレジ本体の構造。一人の鑑識員が声を上げた。
「昆陽警部補、少しよろしいですか」
二人が近づく。
「レジを持ち上げてもいいですか」
店長の許可を得て、慎重に持ち上げる。長年動かされていなかったらしく、机との境には薄く埃が積もっていた。池尻はしゃがみ込み、その隙間を見つめる。
「……何かあります」
細いライトを差し込む。黒ずんだ紙の端が、わずかに見えた。
「ピンセット」
鑑識員が慎重につまみ出す。細長く巻かれた紙。かなり古く黄ばんでいる。
「レシートロールですね」
店長が驚く。
「そんな所へ落ちてたんですか」
昆陽は紙を受け取った。
「交換した時に転がったんやろか」
池尻は首を横に振る。
「違うと思います」
「え?」
「埃の積もり方を見ると、最近落ちたものではありません。かなり前から、ずっとここにあった。」
鑑識員が慎重に紙を広げる。感熱紙は時間の経過で色褪せている。だが、印字はかすかに残っていた。
「まだ読めそうです」
昆陽が身を乗り出す。
「事件の日のやつか、確認します」
印字された日時を照合する。一枚、また一枚。ゆっくりと紙が送られていく。そして鑑識員の手が止まった。
「ありました」
池尻も昆陽も息をのむ。そこには、事件当夜の日付と時刻が、はっきりと印字されていた。閉店後、午後九時十三分。レジが開いた、あの一分間の記録だった。静まり返った売店に、誰も言葉を発しない。紙に残された小さな文字が、事件当夜の沈黙を静かに語り始めようとしていた。




