消えたレシート
科学捜査研究所。売店のレジの下から見つかった古いレシートロールは、慎重に保存処理が施され、解析室へ運び込まれていた。感熱紙は年月を経て黄ばみ、ところどころ文字が薄れている。それでも、印字された記録は完全には失われていなかった。池尻と昆陽は、解析用モニターの前で結果を待っていた。担当研究員が画像を切り替える。
「通常の販売履歴は復元できました」
画面には時刻と商品名が整然と並んでいる。缶ジュース、アイスクリーム、虫取り網、観察ケース。どれも閉店前までの、ごく普通の売店の販売記録だった。昆陽が腕を組む。
「問題は閉店後や」
「はい」
研究員は次の画面を表示した。
「午後9時13分。営業時間外に一件だけ、新しい印字があります。」
モニターに拡大されたレシート、日付、時刻。その下に続くはずの品名欄は、妙に空白が広がっていた。
「……品名がありません」
池尻が静かに言った。通常なら商品名が印字される場所には、何も書かれていない。代わりに、そこへ押し込まれるように、四桁の数字だけが残っていた。
『0001』
それはレシートの一行としては、あまりにも不自然だった。商品名もない、金額もない、説明もない。ただ、ゼロが三つ並び、その先頭に、意味ありげに「1」だけが置かれている。まるで何かの始まりを示す番号のようでいて、何が始まったのかは一切分からない。昆陽が眉をひそめる。
「なんや、この数字」
研究員が説明する。
「このレジには手入力機能があります。通常の商品を選ばず、任意の金額やコードだけを入力した場合、このような記録が残ることがあります」
「つまり誰かが意図的に操作したんか」
「その可能性が高いですね」
池尻はモニターを見つめたまま、小さくつぶやいた。
「これは、読まれるための行ではありません。扉を開けるためだけに置かれた、鍵穴のようなものです」
「なんでや?」
昆陽が振り向く。
「本にもあります。内容ではなく、栞を挟むためだけに開かれるページが…この『0001』も、それに似ています。何かを記録するためではなく、レジを開けること自体が目的だったのかもしれません」
池尻の声は静かだったが、その数字を見つめる目は、どこか冷えていた。『0001』ただの入力ミスなら、ここまで不気味には見えない。だが、商品名のないレシートに、意味を持たないはずの数字だけが残っていると、それは途端に別の顔を見せる。誰かが何かを隠すために残した印。あるいは、誰かにだけ分かればよかった合図。そのどちらにも見えてしまうことが、かえって不穏だった。
午後、二人は売店の店員たちへ改めて聞き込みを行った。アルバイトの大学生、長年勤務する女性店員、朝市の日だけ手伝う男性。誰に尋ねても答えは同じだった。
「0001なんて見たことありません」
「手入力は使わないです」
「全部、商品ボタンですから」
昆陽は確認する。
「閉店後にレジを開けることは?」
「ありません」
「鍵は?」
「店長だけが持っています」
証言に矛盾はない。だが、誰一人として「0001」に心当たりはなかった。売店を出たあと、昆陽がため息をつく。
「分からんな。数字だけ残しても意味ないやろ」
池尻はゆっくり歩きながら答えた。
「数字そのものに意味があるとは限りません」
「どういうことや」
「本を読むとき、ページ番号は目印にすぎません。でも目印があるから、必要な頁へ戻れる。この数字も同じです。意味を持つのは数字ではなく、その先にある場所かもしれません」
昆陽は苦笑する。
「また本の話やな」
「癖なんです」
池尻も少しだけ笑った。
「でも今回、その癖が役に立つ気がします」
0001…ただの番号に見えて、実際には何かを開くための鍵だったのかもしれない。あるいは、誰かが「ここに来た」とだけ残した、極端に簡素な痕跡だったのかもしれない。意味が分からないからこそ、逆に目を離せない。その数字は、レシートの端に小さく印字されているだけなのに、まるで紙の上にぽっかり空いた穴のように、周囲の空気まで吸い込んでいた。
夕方、池尻の携帯電話が鳴った。
「もしもし。」
『池尻くんか? 俺や、稲野』
「お疲れさまです」
『営業先で、ちょっと気になる話を聞いてん』
「何でしょう」
『公園の近くの保育園なんやけど、先生が事件の日のこと覚えとってな』
池尻は立ち止まる。
『その日は翌日の行事の準備で、遅うまで園に残っとったらしい。そしたら夜、公園の方を見たらな…』
一呼吸置いて稲野が続けた。
『売店だけ、一回だけ灯りが点いたらしい』
「売店だけ…」
『ほんの一分くらいやった言うてた。すぐ消えたらしいわ』
池尻は昆陽と顔を見合わせた。…一分。レジが開いていた時間と一致する。
『先生は誰かおると思たけど、外までは見に行かへんかったらしいわ』
「ありがとうございます。とても大事な証言です」
『また何か聞いたら連絡するわ』
電話が切れた。公園へ戻った二人は、売店の前へ立った。夕暮れの木々が長い影を落としている。池尻は売店の窓を見つめた。
「昆陽さん」
「なんや」
「灯りが点けば、遠くからでも分かります」
「人がいる、とな」
「ええ」
池尻は静かな声で続ける。
「買い物のためではなく、誰かへ合図を送ることができます」
昆陽が短く言う。
「合図か…」
「待ち合わせです。事件の夜、売店は営業していません。それでも灯りが点いた。誰かが『ここにいる』と知らせるためだったのかもしれません」
池尻は売店のガラス越しに、公園を見渡した。
「売店は買い物の場所ではなく、待ち合わせの目印だった」
その推理に、昆陽も静かにうなずいた。
「……あり得るな」
そのとき昆陽の携帯電話が震えた。
「俺や」
電話の相手は捜査本部だった。
「分かった、すぐ確認する」
短く応じて電話を切る。そして池尻を見る。
「防犯カメラや」
「何か映っていましたか」
「ああ。事件当夜、売店の前を歩く相沢研究員の姿が映っとる」
池尻は静かに息をのんだ。
「何時ですか」
「レジが開く少し前や」
相沢は一人で歩いていたのか。それとも、誰かとの待ち合わせ場所へ向かっていたのか。夕暮れの売店は何も語らない。だが、あの一行だけが異様に浮いたレシートは、確かに何かの入口だった。0001…意味を持たないはずの数字が今はもう、ただの記録には見えない。それは事件の中心へ続く、最初の扉の番号のようにも思えた。そしてその扉は、まだ開ききっていない。だがその一分間の灯りは、事件の真相へ続く新たな一頁を、確かに照らし始めていた。




