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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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18/30

売店の窓


翌日の午後九時、事件当夜と同じ時刻。池尻と昆陽は、公園の売店に立っていた。営業を終えた店内は照明を落とし、必要最小限の灯りだけが点いている。科捜研の協力を得て、事件当夜とほぼ同じ環境が再現されていた。窓の外には静かな公園が広がる。風が木々を揺らし、池の水面が月明かりを細かく砕いていた。池尻は売店の中央へ立つと、ゆっくり周囲を見渡した。


「……思っていたより、よく見えますね」


昆陽も窓際へ歩み寄る。


「ほんまやな。昼間より見通しがええ」


店内の照明がガラスに反射することもなく、外の様子は驚くほど鮮明だった。池の北側、管理番号H-7のクヌギ、採集用トラップが見つかった場所、防犯カメラの死角。それらが一本の視線で結ばれている。


「昆陽さん」

「ん」

「ここは売店というより……」


 一度、言葉を選ぶように間を置く。


「観察席ですね。」


二人は窓際に並んだ。池尻は静かに窓枠へ手を添える。


「本を読むとき…物語は登場人物だけじゃなくて、誰が、どこから見ているかも大切なんです」


昆陽は小さく笑う。


「また読書の話か」

「はい。同じ出来事でも立つ場所が違えば、見える景色も変わります」


池尻は窓の外を見つめた。


「相沢さんは昆虫館でも、池でもなく、この場所から公園全体を読んでいたのかもしれません」


昆陽も視線をたどる。売店からは園路も見える、池へ向かう人影も見える、クヌギの木の根元も見える。そして、そのさらに奥まで。


「確かに。ここやったら、公園全体が見渡せる」

「はい。だから売店の灯りが一度だけ点いた。誰かを迎えるためやなく…ここで待つ人に、自分の居場所を知らせるためだったのかもしれません」


昆陽は腕を組んだ。


「相沢さんは、ここで何を見とったんやろな」


 池尻は静かに答える。


「昆虫ではありません」

「え?」

「採集ノート、H-7、観察トラップ、写真に映った人物、全部が池の北側へ向いています」


池尻は一呼吸置いた。


「昆虫を観察していたなら、もっと季節ごとの記録があります。でも、最後の一週間だけが削除されていました」

「そうやな」

「消されたのは昆虫の記録ではなく…誰かの行動だったのかもしれません」


池尻は穏やかな声で結論を口にした。昆陽は静かに息を吐いた。


「つまり相沢さんは、人を観察しとった」

「そう考える方が自然です」


二人は売店を出て、公園をゆっくり歩いた。夜風が少し涼しい。売店を振り返ると、小さな建物は公園の中心にぽつんと建っている。目立たない。だからこそ、誰も気に留めない。


「昆陽さん」

「この場所なら、見られていることにも気づきにくいですね」

「……そうやな」


昆陽は立ち止まる。


「犯人は、誰にも見られとらん思うとった。でも、相沢さんだけは違った」

「はい。だから殺された可能性があります」


その言葉に、二人の間へ静かな沈黙が落ちた。



翌朝、捜査本部。昆陽は捜査員たちへ新しい方針を伝えていた。


「売店を中心に洗い直す。事件の日、売店におった人物がおるはずや。レジを開けた人間も、灯りを点けた人間も、全部そこへつながる」


刑事たちが一斉に動き始める。売店周辺の防犯カメラ。目撃証言、携帯電話の位置情報、改めて徹底的な洗い直しが始まった。


一方、科捜研では、例のレシートロールをさらに詳しく調べていた。担当研究員が芯の部分を手に取り、しばらく無言で見つめる。


「…おかしい」


その声は、いつもより低かった。ロール紙の芯は、ただの厚紙ではなかった。わずかに重い。指先で軽く押すと、内側に空洞があるのが分かる。


「中に何か入っています」

 

研究員は周囲を見回し、慎重に接着部分へカッターの刃を入れた。紙が、かすかな音を立ててほどける。誰も息をしていないような静けさの中で、円筒の内側から、小さく折り畳まれた紙片が姿を現した。それは、長い年月を閉じ込めていた芯の奥から、ようやく外へ出てきたように見えた。


「……あった」


研究員の声が、かすかに震える。


「昆陽警部補を」


数十分後、池尻と昆陽は解析室へ駆けつけていた。研究員が紙片をピンセットで広げる。黄ばんだ紙は、触れれば崩れてしまいそうなほど脆い。だが、そこに書かれた文字だけは、驚くほどはっきり残っていた。万年筆で書かれた、短い一文。それだけだった。研究員が読み上げようとして、いったん口を閉じる。室内の空気が、ひどく張り詰める。池尻は紙片を見つめたまま、まばたきもしない。昆陽も、無意識に息を止めていた。やがて研究員が、静かに声を落とす。


「……『青い蝶は、まだ飛んでいる』」


その一文が、解析室の空気を切り裂いた。誰もすぐには言葉を返せない。昆陽が低くつぶやく。


「青い蝶…オオムラサキか」


池尻は紙片をじっと見つめた。その文字には、誰かを脅すような鋭さはない。むしろ、遠くへ向けてそっと投げられた言葉のようだった。誰かに知らせるための。誰かに残すための。あるいは、誰かを待つための。池尻はようやく顔を上げ、一拍置いてから穏やかな声で言った。


「昆陽さん」

「ん」

「これは、犯人からの言葉じゃありません」


昆陽が視線を向ける。池尻は紙片から目を離さないまま続けた。


「相沢さんが、誰かへ残した伝言なのかもしれません」


その場にいる誰もが、紙片を見つめた。誰に向けて書かれたのか。なぜレシートロールの芯へ隠したのか。そして、「青い蝶」とは誰を、あるいは何を指しているのか。小さな紙片は、新たな謎だけを残して、静かに机の上に置かれていた。その一文は、まだ誰にも読み解かれていない。だが確かに、次の一頁の始まりを告げていた。


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