飛んでいる蝶
青い蝶は、まだ飛んでいる。
池尻はその一文をメモに書き写し、しばらく指先で紙の端を押さえた。大学図書館の閲覧室は静かだった。窓から差す夏の光が、机の上を淡く照らしている。ページの白さは、まるで翅の裏側のように薄く、光を受けるたびにかすかに揺れて見えた。池尻の前には国語学の本が開かれていたが、目はほとんど文字を追っていなかった。視線は、紙の上に置かれた短い言葉へ吸い寄せられている。
青い蝶は、まだ飛んでいる。
たった一行なのに、読むたびに意味が変わる。昆虫の記録のようでもあり、誰かへの伝言のようでもある。けれど、どちらにしても、その言葉には妙な生々しさがあった。標本箱の中で静止したはずの蝶が、言葉の中だけで翅を震わせ続けているような、不思議な落ち着かなさがある。池尻は「飛んでいる」に丸を付けた。
「どうして現在形なんだろう」
独り言が、閲覧室の静けさに溶ける。相沢が昆虫のことを書いたのなら、「飛んでいた」でもよかったはずだ。けれど、そうは書かなかった。過去の記録として閉じるのではなく、今も続いているものとして残したかったのだろうか。池尻は本を閉じ、窓の外を見た。夏の空は高く、雲はゆっくり流れている。見上げれば、蝶が飛んでいるかどうかなど分からない。だが、見えないからこそ、そこに何かが続いている気がする。
「『飛ぶ』は、人にも使いますね」
希望が飛ぶ。噂が飛ぶ。知らせが飛ぶ。逃げることを「飛ぶ」と言うこともある。比喩なら、いくらでもある。けれど、比喩であるからこそ、言葉はときに現実よりも不気味になる。何を指しているのか分からないまま、読む者の頭の中でだけ意味が増えていくからだ。池尻は小さく息を吐いた。
「相沢さん。あなたは止まったものではなく、まだ動いているものを書いたんですね」
標本にされた蝶は美しい。だが、そこにあるのは終わった時間だ。けれど、この一文は違う。終わっていない、捕まっていない。誰かの手から抜け出し、今もどこかで飛び続けているものを示している。池尻はそのことに、なぜか胸の奥が静かにざわつくのを感じた。
その頃、昆陽は市内の住宅街にいた。インターホンを押すと、ほどなく玄関が開く。
「はい」
現れたのは、五十代半ばの女性だった。落ち着いた雰囲気の、昆虫館の元職員…佐伯美咲。
「警察です」
昆陽は手帳を見せた。
「少しお話を伺えますか」
「どうぞ」
居間には本棚と観葉植物が並んでいた。昆虫図鑑、植物図鑑、児童文学、絵本。今も本に囲まれて暮らしていることが分かる。窓辺には小さな鉢植えがいくつも置かれ、葉の影が壁に揺れていた。静かな部屋だったが、そこには何かを育て、見守ってきた人の気配があった。
「相沢さんとは長いお付き合いだったそうですね」
「ええ。二十年以上、一緒に働きました」
「事件の前も?」
「はい。最後まで、いつも通りに見えました」
「何か悩んでいる様子は」
佐伯は少し考えてから答えた。
「ありました。でも、話してはくれませんでした」
「誰かを気にしているようには?」
「…それは分かりません。」
昆陽はメモを取りながら、佐伯の表情を見ていた。答えは淡々としている。だが、言葉にしない部分がある。長く本を閉じたままにしていた人のように、開けば何かがこぼれそうで、けれどまだ開ききれない。しばらく話したあと、昆陽は封筒から一枚の写真を取り出した。事件前夜の画像。帽子の人物。そして、胸元の青い蝶のブローチ。
「このブローチ、見覚えはありますか」
佐伯は写真を受け取り、しばらく見つめた。
「手作りらしいんです。昔、公園で作っていた人がいると聞きました」
佐伯は静かに息を吐いた。
「ええ。いました。子どもたちに配るために、青い蝶のアクセサリーを作っていました。…私です」
昆陽が目を細める。
「やっぱり」
「でも、これは私の作品ではありません」
「違うんですか」
「形が少し違います。羽の線も、色の入れ方も」
佐伯は写真を見つめたまま言った。
「誰かが真似して作ったものです」
その言葉には、懐かしさよりも、確かめるような慎重さがあった。自分が作った蝶は、子どもたちの胸元へ渡り、笑顔と一緒に公園のあちこちへ飛んでいったはずだ。けれど、目の前の蝶は違う。似ているのに、どこかで止まってしまったような、不自然な静けさがある。昆陽は少し間を置いてから言った。
「もう一つ、聞きたいことがあります」
「何でしょう」
「青い蝶は、まだ飛んでいる」
その瞬間、佐伯の表情が変わった。指先が止まり、視線が揺れる。ほんの一秒だった。だが、それまで穏やかだった空気が、静かに別の温度を帯びた。まるで、閉じていた標本箱の蓋が、音もなく少しだけ開いたようだった。昆陽は見逃さなかった。
「…どうしました」
佐伯はカップを見つめたまま、息を整える。声がわずかに震える。
「その言葉、ご存じなんですか」
昆陽は静かに返した。
「知っとるんですか」
佐伯はゆっくり顔を上げた。驚きの奥に、長くしまっていた記憶がのぞいている。青い蝶という言葉は、ただの合図ではない。誰かが封じた記憶であり、誰かが今も手放せずにいる約束でもあるのだろう。そして、静かに尋ねた。
「その言葉を……」
一拍置いて、続ける。
「誰から聞いたんですか」
昆陽は答えなかった。その問いは、言葉そのものよりも、佐伯の中に残っている何かを確かめるようだった。青い蝶は、もうただの飾りではない。誰かの胸元に留まったまま飛び続ける記憶であり、失われたはずなのに消えない約束なのだ。
同じころ、大学図書館で池尻は、ノートにもう一度その一文を書き写していた。
青い蝶は、まだ飛んでいる。
昆虫の話ではない。誰かが今も追っているもの。あるいは、守り続けている約束。池尻はペンを置き、静かにページを閉じた。閉じたはずの紙面の奥で、その言葉だけが、まだ翅を震わせているように思えた。




