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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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20/30

オオムラサキの約束


翌日の午後。昆陽は池尻を伴い、再び佐伯美咲の自宅を訪れていた。昨日の聞き取りの途中、「青い蝶」という言葉を口にした瞬間、佐伯は顔色を変え、言葉を続けられなくなった。無理に話を聞くべきではない。そう判断した昆陽は、その日は早々に聞き取りを切り上げ、改めて時間をいただくことにしたのだった。今日は、もう一人の協力者も一緒だった。玄関が開き、佐伯が静かに頭を下げる。


「昨日は失礼しました」

「いえ」

 

昆陽は穏やかに笑った。


「こちらこそ急に昔の話を聞いてしまって、すんませんでした」


そして隣へ視線を向ける。


「紹介します。池尻です」


池尻は一歩前へ出て、丁寧に一礼した。


「初めまして。池尻と申します」

「初めまして」


佐伯も柔らかく会釈する。


「昆陽さんから、お話は伺っています。本がお好きな学生さんなんですよね」


池尻は少し照れたように微笑んだ。


「読むことしか取り柄がありませんけど。今日は、お話を聞かせていただけたらと思っています」


佐伯は小さく頷き、二人を居間へ案内した。麦茶を一口飲み、佐伯は静かに話し始めた。


「事件の三年前…私は、自分から昆虫館を辞めました。」

 

昆陽が静かに切り出す。


「退職理由は『家庭の事情』でしたね」

「はい」


佐伯は苦笑した。


「半分だけ本当です。家庭が理由ではありません。本当のことは…誰にも言えませんでした」


池尻が静かに尋ねる。


「何があったんですか」


佐伯はしばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐く。


「私は……怖くなったんです。相沢さんとは二十年以上、一緒に仕事をしてきました。昆虫館ができる前から、公園でオオムラサキの保護活動を続けていました」


壁には、一枚の写真が飾られている。夏の雑木林、子どもたち、虫取り網ではなく、双眼鏡を持って笑う相沢研究員。


「相沢さんは、捕まえる人じゃありませんでした。生きている姿を見ることを、誰より大切にしていました」


池尻は静かに頷く。


「採集ノートにも、その考え方が表れていました。『採集』より『観察』という言葉が多かったです」


佐伯は少し嬉しそうに笑う。


「そこまで読んでくださったんですね」

「はい」

「あのノートは、相沢さんそのものだと思いました。子どもたちとも約束がありました」


佐伯は懐かしそうに目を細める。


「オオムラサキを見つけても追いかけない、驚かせない、飛び立つまで静かに待つ。そして…」


優しい声になった。


「蝶が飛び立ったら『青い蝶は、今日も元気に飛んでるね』そう言って笑い合うんです。それが私たちの合言葉でした」


昆陽は腕を組む。


「ほな、『青い蝶』いうんは…子どもらとの約束やったんですね」

「ええ。だから昨日、その言葉を聞いた瞬間…昔のことを全部思い出してしまって」


佐伯は申し訳なさそうに頭を下げた。


「すみませんでした。気分が悪くなってしまって」

「気にせんでください」


 昆陽は穏やかに首を振る。


「今日はゆっくり話してください」


しばらく沈黙が続いた。佐伯は意を決したように口を開く。


「でも三年前から、相沢さんは変わりました。蝶を見なくなったんです。双眼鏡を持って、公園の同じ場所ばかり見ていました」


池尻が静かに尋ねる。


「池の北側ですか」

「……はい。H-7のクヌギです」


昆陽と池尻は視線を交わした。やはり、あの木だった。


「それだけではありません」


佐伯は続ける。


「採集ノートとは別に、小さな黒い手帳を持つようになったんです。何かを見るたびに、時間を書いて、短い言葉を書き込んでいました」

「その手帳について聞いたことは」


池尻が尋ねる。


「何度もあります」


佐伯は寂しそうに笑う。


「でも『まだ話せない。もう少し確かめたいことがある』そう言うだけでした。何を見ているのか、何を書いているのか、最後まで教えてくれませんでした」


佐伯は窓から外を見ながら、昔を思い出す。寂しそうに笑いながら続きを語る。

     

「秘密が増えるたびに、私の知らない相沢さんになっていく気がしたんです。怖かった。何か危険なことに関わっているんじゃないか。そんな気がして…だから私は、昆虫館を辞めました」


昆陽が静かに尋ねる。


「辞めてからは、一度も会わんかったんですか」


佐伯は首を横に振る。


「いいえ、保護活動だけは続けました。地域の保護会には参加していましたから。月に一度、公園で相沢さんとも会っていました。昆虫館は辞めても、オオムラサキだけは見捨てられませんでした」


一度言葉を切る。


「……相沢さんのことも」


静かな沈黙が流れる。


「私は、相沢さんが好きでした」


その声は、とても穏やかだった。


「だからこそ何を抱えているのか教えてもらえないことが、一番つらかったんです。助けたいのに、どう助ければいいのか分からない。昆虫館を辞めたあとも、他の職員とは気まずくなってしまって…事件が起きても、相談できる相手はいませんでした」

 

悲しさと後悔と、様々な感情が入り混じった複雑な表情を浮かべる佐伯を、ただ池尻は静かに見つめた。


「事件の少し前、最後に会ったときです。相沢さんは昆虫じゃなく、ある人物を見ていました。誰ですか、と聞いても『まだ証拠じゃない。だから見届ける』…それだけでした」


池尻は静かに呟く。


「相沢さんは昆虫を観察していたんじゃない。真実を観察していたんですね」


佐伯はゆっくり頷いた。


「今なら……私もそう思います」


佐伯は立ち上がり、本棚の一番奥から布に包まれた一冊を取り出した。革張りの表紙は年月を重ね、角は擦り切れている。


「これは、私と相沢さんで作り続けた観察アルバムです。昆虫館へ勤めていた頃も、辞めたあとも…二十年以上、公園で撮った写真を貼り続けました」


池尻は両手で受け取った。表紙には、小さな文字で記されている。


『オオムラサキ観察アルバム』


佐伯は穏やかに微笑んだ。


「昆陽さんから聞いています。池尻さんは、本を最後まで読んでくださる方だと。このアルバムも……最後まで読んでください」


池尻は深く一礼した。


「ありがとうございます。必ず、最後まで読みます」

 

その一冊には、蝶だけではない。二十年以上積み重ねられた時間と、言葉にできなかった想い、そして相沢研究員が命を懸けて見届けようとした真実が、静かに綴られているようだった。


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