写真が見ていたもの
佐伯から預かった『オオムラサキ観察アルバム』は、思っていた以上に重かった。重さは紙の枚数だけではない。二十年以上という歳月が、一枚一枚の写真の間に静かに積み重なっているようだった。
翌日。池尻は大学の講義を終えると、市立図書館の閲覧室へ向かった。窓際の席に腰を下ろし、白い手袋をはめる。古いアルバムを傷めないよう、ゆっくりと表紙を開いた。最初のページには、公園へ放たれたオオムラサキ。次のページには、幼虫を見つめる子どもたち。羽化したばかりの蝶、樹液に集まる昆虫、夏の日差し、木漏れ日、笑顔。どの写真からも、相沢と佐伯が自然を大切にしてきた時間が伝わってくる。池尻は一枚ずつ、焦らずページをめくっていった。読むように、物語を追うように。
夕方、昆陽が図書館へやって来た。
「どうや。何か分かったか」
池尻は答える前に、アルバムを一冊閉じた。
「少しだけ…でも、不思議なことがあります」
「何や」
池尻は数ページを開き直した。
「この写真です」
昆陽が覗き込む。写っているのは雑木林だった。蝶はいない、人もいない。ただ一本の遊歩道と、その先に見える池。
「風景写真やな」
「はい。でも、一枚だけじゃありません」
池尻は次々とページをめくる。三年前、五年前、八年前、十二年前。どの年にも、同じような写真が挟まれている。池、木々、遊歩道。そして一本のクヌギ。
「全部……同じ場所や」
昆陽が呟く。
「はい。しかも…」
池尻はアルバムの余白に書かれた日付へ指を置く。
「撮影時刻まで、ほとんど同じなんです」
昆陽は腕を組んだ。
「偶然やないか」
池尻は静かに首を振る。
「二十年以上続いています。偶然ではありません」
彼はページを閉じ、しばらく考え込んだ。そして穏やかな声で言う。
「僕は最初、このアルバムは蝶の記録だと思っていました。でも違います。相沢さんは、蝶だけを撮っていたんじゃない」
昆陽が顔を上げる。池尻は窓の外へ視線を向けた。
「なら何なんや」
「この場所へ現れる誰かを、毎年記録していたんです。」
静かな言葉だった。しかし、その一言でアルバムの意味が大きく変わった。
その日の夜、二人は捜査本部でアルバムの写真を机いっぱいに並べた。年代順、撮影場所順、時刻順。池尻は何も言わず、黙々と並べ替えていく。昆陽はその様子を見ながら苦笑した。
「本読むんと同じやな」
「順番が大事なんです」
池尻は微笑む。
「写真も、一枚だけでは意味が分かりません。でも順番に読むと、撮った人が何を見ていたのかが見えてきます」
昆陽は静かに頷いた。写真の日付を一覧にすると、ある規則が浮かび上がった。昆陽は市役所から取り寄せた公園の利用記録を照らし合わせる。一枚、また一枚。さらに一枚。
「……おかしい」
「どうしました」
「全部や」
昆陽は資料を池尻へ差し出した。
「この写真が撮られた日…全部、公園で同じ催しが開かれとる」
池尻は記録を見る。春の植樹祭、夏休み昆虫教室、秋の収穫祭。そして、毎年欠かさず記録されていた催しが一つあった。
「朝市…」
「はい」
池尻も静かに頷く。
「月に一度、公園で開かれていた朝市です」
昆陽は写真を見直した。
「相沢さんは朝市の日だけ、同じ場所を撮っとったんか」
「そういうことになります」
池尻はアルバムを閉じた。
「蝶は毎年同じ時間に飛ぶとは限りません。でも人は約束があると、毎年同じ場所へ来ます」
昆陽はゆっくり息を吐く。
「つまり相沢さんは、昆虫を待っとったんやない」
「ええ」
池尻は静かに言った。
「ある人物を待っていたんです」
その人物が現れる日、その人物が通る場所、その人物が見える位置。すべてが、このアルバムの中に残されていた。
翌朝、昆陽は朝市実行委員会へ向かった。保存されていた古い名簿を一冊ずつ確認する。十年前、十五年前、二十年前。紙は黄ばみ、文字も薄れていた。しかし名前だけは、はっきりと残っている。池尻も隣で静かにページを追った。
「あ…」
小さく声を漏らす。
「どうした」
「この名前です」
昆陽が身を乗り出した。そこには、保護活動協力者として。相沢健一、そして佐伯美咲。二人の名前が並んでいた。
「ここまでは当然やな」
昆陽はページをめくる。次の年、また同じ名前。さらに翌年、また同じ。しかしその少し下に、二人は同時に手を止めた。
「……」
同じ名前があった。翌年にも、その翌年にも。何度も、何度も。同じ人物の名前だけが、公園の朝市関係者名簿に記され続けていた。昆陽はゆっくりと息をのむ。
「……何でや。何で、全部この名前なんや」
池尻は静かに名簿を閉じた。その表情は穏やかなままだった。
「相沢さんは、この人を観察していたのかもしれません。」
捜査は、ついに一人の人物へと収束し始めていた。




