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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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21/30

写真が見ていたもの


佐伯から預かった『オオムラサキ観察アルバム』は、思っていた以上に重かった。重さは紙の枚数だけではない。二十年以上という歳月が、一枚一枚の写真の間に静かに積み重なっているようだった。

 

翌日。池尻は大学の講義を終えると、市立図書館の閲覧室へ向かった。窓際の席に腰を下ろし、白い手袋をはめる。古いアルバムを傷めないよう、ゆっくりと表紙を開いた。最初のページには、公園へ放たれたオオムラサキ。次のページには、幼虫を見つめる子どもたち。羽化したばかりの蝶、樹液に集まる昆虫、夏の日差し、木漏れ日、笑顔。どの写真からも、相沢と佐伯が自然を大切にしてきた時間が伝わってくる。池尻は一枚ずつ、焦らずページをめくっていった。読むように、物語を追うように。

 

夕方、昆陽が図書館へやって来た。


「どうや。何か分かったか」


池尻は答える前に、アルバムを一冊閉じた。


「少しだけ…でも、不思議なことがあります」

「何や」


池尻は数ページを開き直した。


「この写真です」


昆陽が覗き込む。写っているのは雑木林だった。蝶はいない、人もいない。ただ一本の遊歩道と、その先に見える池。


「風景写真やな」

「はい。でも、一枚だけじゃありません」


池尻は次々とページをめくる。三年前、五年前、八年前、十二年前。どの年にも、同じような写真が挟まれている。池、木々、遊歩道。そして一本のクヌギ。


「全部……同じ場所や」


昆陽が呟く。


「はい。しかも…」


池尻はアルバムの余白に書かれた日付へ指を置く。


「撮影時刻まで、ほとんど同じなんです」

 

昆陽は腕を組んだ。


「偶然やないか」


池尻は静かに首を振る。


「二十年以上続いています。偶然ではありません」


彼はページを閉じ、しばらく考え込んだ。そして穏やかな声で言う。


「僕は最初、このアルバムは蝶の記録だと思っていました。でも違います。相沢さんは、蝶だけを撮っていたんじゃない」

 

昆陽が顔を上げる。池尻は窓の外へ視線を向けた。


「なら何なんや」

「この場所へ現れる誰かを、毎年記録していたんです。」

 

静かな言葉だった。しかし、その一言でアルバムの意味が大きく変わった。


その日の夜、二人は捜査本部でアルバムの写真を机いっぱいに並べた。年代順、撮影場所順、時刻順。池尻は何も言わず、黙々と並べ替えていく。昆陽はその様子を見ながら苦笑した。


「本読むんと同じやな」

「順番が大事なんです」


池尻は微笑む。


「写真も、一枚だけでは意味が分かりません。でも順番に読むと、撮った人が何を見ていたのかが見えてきます」


昆陽は静かに頷いた。写真の日付を一覧にすると、ある規則が浮かび上がった。昆陽は市役所から取り寄せた公園の利用記録を照らし合わせる。一枚、また一枚。さらに一枚。


「……おかしい」

「どうしました」

「全部や」


昆陽は資料を池尻へ差し出した。


「この写真が撮られた日…全部、公園で同じ催しが開かれとる」


池尻は記録を見る。春の植樹祭、夏休み昆虫教室、秋の収穫祭。そして、毎年欠かさず記録されていた催しが一つあった。


「朝市…」

「はい」


池尻も静かに頷く。


「月に一度、公園で開かれていた朝市です」


昆陽は写真を見直した。


「相沢さんは朝市の日だけ、同じ場所を撮っとったんか」

「そういうことになります」


池尻はアルバムを閉じた。


「蝶は毎年同じ時間に飛ぶとは限りません。でも人は約束があると、毎年同じ場所へ来ます」


昆陽はゆっくり息を吐く。


「つまり相沢さんは、昆虫を待っとったんやない」

「ええ」


池尻は静かに言った。


「ある人物を待っていたんです」


その人物が現れる日、その人物が通る場所、その人物が見える位置。すべてが、このアルバムの中に残されていた。


翌朝、昆陽は朝市実行委員会へ向かった。保存されていた古い名簿を一冊ずつ確認する。十年前、十五年前、二十年前。紙は黄ばみ、文字も薄れていた。しかし名前だけは、はっきりと残っている。池尻も隣で静かにページを追った。


「あ…」


小さく声を漏らす。


「どうした」

「この名前です」


昆陽が身を乗り出した。そこには、保護活動協力者として。相沢健一、そして佐伯美咲。二人の名前が並んでいた。


「ここまでは当然やな」


昆陽はページをめくる。次の年、また同じ名前。さらに翌年、また同じ。しかしその少し下に、二人は同時に手を止めた。


「……」


同じ名前があった。翌年にも、その翌年にも。何度も、何度も。同じ人物の名前だけが、公園の朝市関係者名簿に記され続けていた。昆陽はゆっくりと息をのむ。


「……何でや。何で、全部この名前なんや」


池尻は静かに名簿を閉じた。その表情は穏やかなままだった。


「相沢さんは、この人を観察していたのかもしれません。」


捜査は、ついに一人の人物へと収束し始めていた。


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