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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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地図の丸印


相沢研究員の採集ノートに残されていた、たった一つの丸印。それは、ただの書き損じには見えなかった。文字も説明もない。けれど、最後のページの中央に、鉛筆で丁寧に書かれたその丸は、妙に意図を感じさせた。捜査本部でも、その意味をめぐって意見は分かれていた。


「採集できた印ちゃうか」

「いや、観察終了の印かもしれへん」

「書きかけかも」


刑事たちの推測はばらばらだった。昆陽は腕を組みながら聞いていたが、やがて首を横に振った。


「どれも決め手がないな」


その隣で池尻は、採集ノートを静かに開いていた。最後のページ。そこにある丸印は、やはりただの記号には見えない。池尻はしばらく見つめてから、小さく口を開いた。


「……少し、気になることがあります」


昆陽が顔を向ける。


「何や」

「この丸印です」

「ああ」

「文字として考えると意味が分かりません。でも…」


少し間を置く。


「記号だと考えると、見え方が変わる気がします」


その日の午後。二人は昆虫館の資料閲覧室へ移動した。館長が公園の古い図面や現在の案内図を机いっぱいに広げてくれる。


「開館当時から大きな変更はありません。池と遊歩道も、そのままです」

「ありがとうございます」


池尻は頭を下げた。そして採集ノートを隣へ置く。事件の一週間前から続く記録。そこには毎日『池北側』とだけ書かれている。池尻はその文字を何度も見返した。そして、ふと丸印のページへ視線を戻す。最後のページにある、たった一つの丸。それは、ただの終わりの印ではなく、どこかを指し示しているようにも見えた。


「昆陽さん」

「ん?」

「相沢さんは、昆虫の種類より場所を大切にしていた人です」

「そうやな。採集場所も毎回細かく書いとる」

「だから…」


池尻はノートの最後のページを開く。


「最後の丸印も、場所を示している可能性があります」


 昆陽は地図へ身を乗り出した。


「地図記号か」

「はい」


二人は採集記録を年代順に並べ始めた。池尻はページをめくりながら、場所だけを紙へ書き出していく。南入口、雑木林、芝生広場、池東側、池北側、遊歩道。その流れを地図へ書き込んでいくと、一つの傾向が見えてきた。池尻の指が、地図の一点で止まる。


「……ここですね」


池の北側。遊歩道から少し外れた、小さな林。一般の来園者はあまり入らない場所だった。そして、採集ノートの最後の数日間にだけ、繰り返し記されていた場所でもある。池尻は静かに言う。


「丸印。ここを示しているように思います」

「昆虫の印やなく、場所そのものか」

「はい。断定はできません。でも、相沢さんが最後まで通っていた場所と一致します」


昆陽は地図を見つめたまま頷いた。


「行ってみよう。」


三十分後。二人は池の北側へ到着していた。昼下がりの公園は穏やかだった。池では親子が鴨を眺めている。保育園児たちが先生と散歩をしている。少し離れた広場では、朝市で使われるテントが畳まれたまま置かれていた。どこにでもある、平和な風景。しかし池尻は、その景色ではなく地面を見て歩いていた。


「相沢さんなら、どこを歩くだろう」


独り言のように呟く。遊歩道を外れ、林へ入る。木漏れ日が足元を照らす。昆陽が周囲を見回す。


「ほんまに何かあるんか」

「分かりません。でも…読む順番としては、ここです」


池尻は微笑んだ。


「また本の話か」

「すみません」

「いや、もう慣れた」


昆陽は苦笑した。さらに奥へ進む。池尻は、地図の丸印と採集ノートを何度も見比べながら歩いていた。丸印が示す場所。最後に記された池北側。その二つが、少しずつ重なっていく。そして突然、池尻の足が止まった。


「……昆陽さん」

「どうした」


木の根元を指差す。落ち葉の間から、小さな金属製の器具が半分だけ顔を出していた。丸い容器、細い支柱、古びた留め具。それは、まるでノートの丸印がそのまま地面に落ちてきたような位置にあった。昆陽がしゃがみ込む。


「何や、これ」


館長も後から駆けつけ、驚いたように声を上げた。


「採集用トラップです。昆虫を観察するための器具です」


透明な容器と、小さな支柱。古びてはいるが、壊れてはいない。


「昔のものですね」


館長は懐かしそうに言う。


「相沢さんも若い頃、よく使っていました」


池尻は器具をじっと見つめた。そして、ノートの丸印と器具の丸い形を、もう一度見比べる。


「置かれてから、かなり時間は経っています。でも……」


白手袋をした指で、容器の縁をそっとなぞる。


「少しだけ違和感があります」


昆陽が近づく。


何や、違和感って」


池尻は器具の一部を指差した。


「ここだけ土埃がありません」


確かに、全体は薄く汚れている。しかし、蓋の縁だけはわずかに色が違っていた。そこだけ、最近触れられたように見える。丸印のように、はっきりとした輪郭を残したまま。


「最近、触れられた跡です」


館長も目を丸くする。


「本当ですね…」

「雨で落ちたんちゃうか」


昆陽が言う。池尻は静かに首を横へ振った。


「もし雨なら、全体が同じようにきれいになります。ここだけ、指で持ったように汚れが落ちています」


昆陽の表情が変わる。池尻は器具の丸い容器を見つめたまま、静かに続けた。


「つまりこのトラップは、昔ここに置かれたまま放置されていたものではなくて…最近、誰かが触れた可能性があります」


その言葉で、丸印とトラップの関係がはっきりと結びついた。ノートに残された丸印は、ただの記号ではない。この場所にある、丸い器具を示していたのかもしれない。昆陽は無線機を手に取る。


「鑑識を呼ぶ。この周辺、一帯を調べるぞ」


池尻は古びた採集用トラップを見つめたまま、小さく呟いた。


「相沢さんは…ここで昆虫だけを見ていたわけでは、なかったのかもしれません」


その言葉は、夏風に乗って静かに木々の間へ消えていった。


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