研究員の採集ノート
正式に殺人事件として捜査が始まってから三日目。県警の捜査本部では、相沢宏樹に関する資料が少しずつ集まり始めていた。交友関係、勤務記録、メール、研究資料。どれも几帳面に整理され、相沢の誠実な人柄が伝わってくる。しかし、殺害される理由だけは、依然として見えてこなかった。昆陽は資料を机に置き、大きく息をつく。
「まじめすぎるくらい、まじめな人や。借金もなし、トラブルもなし、人望もある。それやのに殺された」
独り言のように呟いた。その向かいでは、池尻が静かに資料へ目を通している。
「池尻」
「はい」
「何か気になることあるか」
池尻は少し考えてから答えた。
「…まだありません。でも読めていない資料が、まだある気がします」
昆陽は苦笑した。
「お前はいつも、それやな」
「はい。事件も、本も、全部読んでから考えたいので」
その日の午後、二人は再び昆虫館を訪れていた。相沢の研究室は、事件当日のまま保存されている。本棚には昆虫図鑑や専門書が並び、机の上には顕微鏡や標本箱が整然と置かれていた。館長が一冊の古びたノートを持ってくる。
「これです。机の一番下の引き出しから見つかりました。仕事用の記録だと思います」
昆陽が受け取り、池尻へ渡す。
「見てみよう」
池尻は両手でノートを受け取った。表紙は茶色の布張り。角は丸く擦れ、何度も開閉された跡がある。背表紙には小さく手書きで、『採集記録』と書かれていた。池尻はその文字を見つめ、そっと表紙を開いた。
一ページ目。日付、天候、気温、採集場所、昆虫の種類、個体数、観察内容。細かな文字が、定規で引いたように整然と並んでいる。池尻は静かにページをめくっていく。
「すごいですね」
「何がや」
昆陽が覗き込む。
「三十年近く続いています」
「そんなにか」
「はい」
最初の記録は、新人研究員だった頃の日付だった。それから現在まで、一日一日が丁寧に積み重ねられている。雨の日、晴れの日、風の強い日、蝶が多かった日、甲虫が少なかった日。そのすべてが、淡々と記されていた。
「相沢さんは…」
池尻が穏やかに言う。
「昆虫を採るだけじゃなくて、自然そのものを記録していたんですね」
ページをめくる音だけが研究室に響く。昆陽は少し不思議そうに池尻を見ていた。
「そんなにしっかり読むんか」
「はい」
「事件に関係ありそうなんか?」
池尻は首を横に振る。
「まだ分かりません。でも本を読むときも、最初は何気ない文章が、最後には意味を持つことがあります。このノートも、最後まで読まないと分からない気がします」
昆陽は椅子へ腰掛ける。
「それなら、最後まで付き合うわ」
二人は一時間以上かけてノートを読み進めた。内容は驚くほど変わらない。採集場所、天候、昆虫の数、短い所感。その繰り返しだった。しかし、それがかえって相沢らしかった。誇張も感情もない。事実だけを積み重ねる。研究者らしい文章だった。やがて、事件の一週間前の日付へたどり着く。そこから少しだけ記述が変わり始める。昆虫の記録は短くなり、代わりに公園内を歩いた経路が細かく書かれていた。
「……」
池尻はページをじっと見つめる。
「昆陽さん」
「ん?」
「この頃から、池の北側へ毎日行っています」
「昆虫がおる場所なんか?」
「いるとは思います。でも、記録の量が不自然です。同じ場所を、何日も続けて観察しています」
昆陽は腕を組む。
「同じ場所ばっかりか、気になるな」
さらにページをめくる。事件前日、記録はいつもどおりだった。晴れ、気温三十一度。午後三時十分、池北側。短い観察記録、そして事件当日のページ。池尻の手が止まった。
「……?」
何も書かれていない。いや紙の中央に、小さく一つだけ。『○』丸印だけが書かれていた。文字はない、日時もない、昆虫の名前もない。ただ、一つの丸。それだけだった。昆陽が立ち上がる。
「何や、これ」
池尻はしばらく黙ったまま、その丸印を見つめていた。鉛筆で丁寧に書かれている。急いだ様子もない。乱れもない。
「……不思議です」
池尻は静かに呟く。
「相沢さんは三十年間、必ず文字を書いていました。一日も欠かさず。それが丸印だけ…理由があるはずです」
昆陽はノートを覗き込み、首をかしげた。
「何の印や?」
その問いに答えられる者は、まだ誰もいなかった。静かな研究室で、採集ノートの最後のページだけが、まるで読者へ問いを投げかけるように開かれていた。




