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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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7/30

研究員の採集ノート


正式に殺人事件として捜査が始まってから三日目。県警の捜査本部では、相沢宏樹に関する資料が少しずつ集まり始めていた。交友関係、勤務記録、メール、研究資料。どれも几帳面に整理され、相沢の誠実な人柄が伝わってくる。しかし、殺害される理由だけは、依然として見えてこなかった。昆陽は資料を机に置き、大きく息をつく。


「まじめすぎるくらい、まじめな人や。借金もなし、トラブルもなし、人望もある。それやのに殺された」


独り言のように呟いた。その向かいでは、池尻が静かに資料へ目を通している。


「池尻」

「はい」

「何か気になることあるか」


池尻は少し考えてから答えた。


「…まだありません。でも読めていない資料が、まだある気がします」


昆陽は苦笑した。


「お前はいつも、それやな」

「はい。事件も、本も、全部読んでから考えたいので」


その日の午後、二人は再び昆虫館を訪れていた。相沢の研究室は、事件当日のまま保存されている。本棚には昆虫図鑑や専門書が並び、机の上には顕微鏡や標本箱が整然と置かれていた。館長が一冊の古びたノートを持ってくる。


「これです。机の一番下の引き出しから見つかりました。仕事用の記録だと思います」


昆陽が受け取り、池尻へ渡す。


「見てみよう」


池尻は両手でノートを受け取った。表紙は茶色の布張り。角は丸く擦れ、何度も開閉された跡がある。背表紙には小さく手書きで、『採集記録』と書かれていた。池尻はその文字を見つめ、そっと表紙を開いた。


一ページ目。日付、天候、気温、採集場所、昆虫の種類、個体数、観察内容。細かな文字が、定規で引いたように整然と並んでいる。池尻は静かにページをめくっていく。


「すごいですね」

「何がや」


昆陽が覗き込む。


「三十年近く続いています」

「そんなにか」

「はい」


最初の記録は、新人研究員だった頃の日付だった。それから現在まで、一日一日が丁寧に積み重ねられている。雨の日、晴れの日、風の強い日、蝶が多かった日、甲虫が少なかった日。そのすべてが、淡々と記されていた。


「相沢さんは…」


池尻が穏やかに言う。


「昆虫を採るだけじゃなくて、自然そのものを記録していたんですね」


ページをめくる音だけが研究室に響く。昆陽は少し不思議そうに池尻を見ていた。


「そんなにしっかり読むんか」

「はい」

「事件に関係ありそうなんか?」


池尻は首を横に振る。


「まだ分かりません。でも本を読むときも、最初は何気ない文章が、最後には意味を持つことがあります。このノートも、最後まで読まないと分からない気がします」


昆陽は椅子へ腰掛ける。


「それなら、最後まで付き合うわ」


二人は一時間以上かけてノートを読み進めた。内容は驚くほど変わらない。採集場所、天候、昆虫の数、短い所感。その繰り返しだった。しかし、それがかえって相沢らしかった。誇張も感情もない。事実だけを積み重ねる。研究者らしい文章だった。やがて、事件の一週間前の日付へたどり着く。そこから少しだけ記述が変わり始める。昆虫の記録は短くなり、代わりに公園内を歩いた経路が細かく書かれていた。


「……」


池尻はページをじっと見つめる。


「昆陽さん」

「ん?」

「この頃から、池の北側へ毎日行っています」

「昆虫がおる場所なんか?」

「いるとは思います。でも、記録の量が不自然です。同じ場所を、何日も続けて観察しています」


昆陽は腕を組む。


「同じ場所ばっかりか、気になるな」


さらにページをめくる。事件前日、記録はいつもどおりだった。晴れ、気温三十一度。午後三時十分、池北側。短い観察記録、そして事件当日のページ。池尻の手が止まった。


「……?」


何も書かれていない。いや紙の中央に、小さく一つだけ。『○』丸印だけが書かれていた。文字はない、日時もない、昆虫の名前もない。ただ、一つの丸。それだけだった。昆陽が立ち上がる。


「何や、これ」


池尻はしばらく黙ったまま、その丸印を見つめていた。鉛筆で丁寧に書かれている。急いだ様子もない。乱れもない。


「……不思議です」


池尻は静かに呟く。


「相沢さんは三十年間、必ず文字を書いていました。一日も欠かさず。それが丸印だけ…理由があるはずです」


昆陽はノートを覗き込み、首をかしげた。


「何の印や?」


その問いに答えられる者は、まだ誰もいなかった。静かな研究室で、採集ノートの最後のページだけが、まるで読者へ問いを投げかけるように開かれていた。


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