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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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消えた標本


午後の柔らかな日差しが、昆虫館の展示室へ静かに差し込んでいた。鑑識作業はひと段落し、館内には時折、刑事たちの話し声だけが響いている。池尻は、館長から借り受けた古い展示写真を手に、現在の展示室をゆっくり歩いていた。その隣を昆陽が歩く。


「昔の写真と今を比べるんやな」

「はい」


池尻は穏やかに答えた。


「本を読むときもそうなんです。版が違えば、どこが書き換えられたのかを見比べます。今回も、それと同じです」


昆陽は苦笑する。


「事件でも本でも、お前は読み比べるんやな」

「癖みたいなものです」


池尻は少し照れたように笑った。二人は写真と同じ位置に立った。展示ケース、標本棚、案内板、天井から吊るされた解説パネル。ほとんど何も変わっていない。池尻は静かに言う。


「展示室自体は、そのままですね。棚の配置も、照明も、壁面も」


写真を少し持ち上げる。


「違うのは、一か所だけです」


昆陽も視線を追う。写真では中央に置かれていた木製の標本箱。現在、その場所には別の蝶の標本が展示されている。空いた場所へ新しい展示を置いただけ。しかし、写真と見比べれば違いは明らかだった。昆陽が低く呟く。


「やっぱり、オオムラサキの標本箱だけが無い」


池尻はゆっくり頷いた。


「はい。展示替えでは説明できません。ほかの標本は同じ箱のまま残っています。この標本箱、オオムラサキだけが消えています」


二人は資料保管室へ向かった。館長が大きな台帳を机へ運ぶ。


「これが標本管理簿です」


分厚い冊子には、開館以来収蔵された標本が一つずつ記録されていた。採集日、採集場所、寄贈者、展示開始日、貸出履歴、修復履歴、廃棄記録。すべて細かく残されている。池尻はページをめくる。一冊の本を読むように、焦らず、一行ずつ目を追っていく。やがて、指が止まった。


「ありました『管理番号B-027。名称オオムラサキ標本箱』」


採集は三十年以上前。市内の里山で採集された個体を、初代館長が保存したものだった。


「貸出履歴は」


昆陽が尋ねる。池尻は横へ目を移す。


「ありません」

「修復は」

「ありません」

「廃棄」


再び静かに首を横へ振る。


「ありません」


昆陽が顔をしかめる。


「そんなことあるか?」

「普通はありません」


館長も困惑した表情を浮かべた。


「標本は移動するだけでも記録します。展示替えも、修復も、廃棄も。全部残します」

「つまり…」


昆陽が腕を組む。


「この標本箱だけ、途中から記録が止まっとる」

「はい」


池尻は台帳を閉じた。


「正確には、存在だけが残っています」

「残っとる?」

「管理番号はある。写真もある。展示カタログにも載っています。でも…」


池尻は静かに続ける。


「途中から、その後の記録だけがありません」


昆陽は小さく息を吐いた。


「存在しとった証拠は山ほどある。それやのに、最後だけ無い」


池尻は再び管理簿を開いた。ページの端を指でそっとなぞる。


「本でも…」


穏やかな声が響く。


「途中のページだけが失われることがあります。でも目次やページ番号が残っていれば、そこに何かがあったことは分かります」


昆陽は頷いた。


「今回も同じか」

「はい」

「この標本箱は、誰かが消そうとしました。でも、完全には消せなかった」


しばらく沈黙が流れた。窓の外では、鳥の囀りが聞こえる。どこか穏やかな午後だった。池尻は昆虫図鑑をそっと開く。オオムラサキのページ。昨日から何度も見てきた見開き。美しい蝶の写真を静かに見つめる。


「昆陽さん」

「ん?」

「昨日から考えていました」

「何をや。」


池尻はゆっくりと言葉を選ぶ。


「図鑑は読まれていました。何度も。被害者は、このページを開いていた。でも…」


一度、ページを閉じる。池尻は静かな声で言った。


「本当に読んでほしかったのは、この昆虫じゃなくて『消えた標本』なんだと思います」


昆陽は図鑑を見つめた。


「つまり図鑑は、標本へ導くための栞みたいなもんか」


池尻は微笑む。


「そんな気がします。本も、図鑑も、必要なページを開くことで、次のページへ読者を導きますから」


そのとき、一人の刑事が資料室へ入ってきた。


「昆陽警部補、被害者の行動確認です。亡くなる前日、公園内を歩いていたそうです」

「公園?」

「はい」

「昆虫館の裏手。池の周辺を、一時間ほど」


昆陽は顔を上げた。


「何しに行っとったか分かるか」

「まだです。監視カメラも少なくて」


刑事は首を横に振った。昆陽は窓の外を見る。昆虫館の向こうには、大きな池。木立、遊歩道、売店、朝市が開かれる広場、保育園へ続く散歩道、市民病院へ向かう歩道。人々が何気なく行き交う、平和な公園が広がっていた。だが、その平和な景色の中に、まだ誰にも読まれていない一頁があるのかもしれない。昆陽は静かに池尻を見て呟いた。


「…事件は、昆虫館の中だけやないかもしれへんな」

 

そして刑事たちへ向き直る。


「捜査範囲を広げる。昆虫館だけやない、公園全体を洗うぞ」

「了解!」


捜査員たちが一斉に動き始める。池尻は静かに昆虫図鑑を閉じた。本は一冊読み終えたように見えても、次のページへ続いていることがある。この事件もまた、昆虫館という一冊の本を飛び出し、公園全体という新しい章を開こうとしていた。


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