展示されなかった蝶
翌日。昆虫館は引き続き臨時休館となり、館内には警察関係者と職員だけが出入りしていた。事件の捜査は少しずつ進んでいたが、被害者である主任研究員・相沢宏樹を殺害するだけの動機は、まだ見えてこない。
その一方で、池尻の関心は、現場に落ちていた昆虫図鑑から離れてはいなかった。開かれていたページ。そこに載っていたオオムラサキ。そして、館内からだけ消えている標本。その三つが、一本の細い糸で結ばれているように思えてならなかった。館長室では、昆陽が館長と数人の学芸員から話を聞いていた。
「昔はオオムラサキを展示していたそうですね」
昆陽が切り出す。館長は頷いた。
「はい。昆虫館が開館した頃から展示していました。人気もありましたよ。子どもたちも、大人も立ち止まって見ていました」
「いつまで展示しとったんです?」
「…正確な年は覚えていませんが、五、六年ほど前まではあったと思います」
若い学芸員も頷く。
「私が配属された頃には、もうありませんでした」
「理由は聞いてへんのか?」
「『昔はあった』という話だけです」
「誰が撤去したかも?」
「分かりません」
別の職員も首を横に振った。
「引き継ぎ資料にも残っていませんでした」
昆陽は眉間にしわを寄せる。
「展示物を外した記録が残ってへん?」
「はい。普通なら展示替えの書類があるはずなんですが…」
その頃、池尻は資料閲覧室にいた。机の上には、館の歴史をまとめた資料や展示カタログ、開館以来のパンフレットが山のように積まれている。池尻は一冊ずつ、静かにページをめくっていった。二十年前のパンフレット。蝶の展示紹介。そこには確かにオオムラサキの写真が掲載されている。
「……ありました」
ページの端に小さく書かれた説明。『県内で採集された貴重な標本を展示しています』さらに十年前のパンフレット。同じ写真、同じ説明。オオムラサキは変わらず紹介されていた。しかし、五年前のパンフレットになると、そのページは別の昆虫へ差し替えられていた。説明も写真も、一切ない。まるで最初から存在しなかったかのようだった。
「池尻、どうや」
昆陽が資料室へ入ってくる。池尻は数冊のパンフレットを並べた。
「見てください」
年代順に並べられた冊子。
「ここまでは掲載されています」
「ほんまや」
「でも、この年から消えます」
昆陽はページをめくる。
「展示替えしただけちゃうんか」
「最初は僕もそう思いました」
池尻は穏やかに答える。一冊の展示カタログを開く。
「でも、展示番号が飛んでいます」
「飛んどる?」
「はい」
番号は、二十五、二十六、二十八。二十七だけが存在しない。
「普通なら欠番は作りません。展示がなくなれば、番号ごと整理することが多いです。でも、番号だけ残っている」
昆陽は静かに腕を組んだ。
「つまり、消えたんやないと」
「はい」
池尻は小さく頷く。
「記録だけが残っています」
昆陽は少し考え込んだ。
「展示は消えた。でも記録は消えてへん。…そういうことやな」
「はい」
池尻は展示カタログを閉じた。
「本を読むときも同じなんです。削除された文章より、目次やページ番号の方が、消された跡を残すことがあります。だから誰かは標本を消せても、全部の記録までは消せなかったのかもしれません」
昆陽は苦笑した。
「ほんま、お前の頭ん中は本ばっかりやな」
「はい」
池尻は少し笑う。
「読むことしか取り柄がないので」
そのとき、館長が段ボール箱を抱えて入ってきた。
「思い出したので、探してみました。古い写真が倉庫にありました。展示室の記録写真です。処分する予定だったものですが…」
昆陽が受け取る。
「見せてもらうで」
封筒の中には、色あせた写真が何十枚も入っていた。開館式、特別展示、子ども向けイベント。どれも館の歴史を写したものだった。池尻は一枚ずつ丁寧に眺める。そして、一枚の写真で指が止まった。
「…昆陽さん」
「どうした」
「これです」
写真には、開館当時と思われる展示室が写っていた。ガラスケースが整然と並び、その中央には木製の標本箱。プレートにははっきりと『オオムラサキ』と書かれている。池尻は写真をさらに近づけた。
「標本箱まで写っています」
「ええ写真やな」
昆陽も頷く。池尻は静かに言う。
「少なくとも、この標本は確かに存在していました。展示された記録もある。写真にも残っている。それなのに…」
二人は現在の展示室へ目を向けた。そこには、オオムラサキだけがいない。昆陽は写真を見つめながら、小さく呟く。
「消えたんは蝶やない。…標本箱そのものや」
その言葉に、池尻はゆっくりと頷いた。事件は、一冊の図鑑から始まった。そして今、誰かによって姿を消した「標本箱」という、新たな謎へと静かにページをめくり始めていた。
この話を考えていると、昆虫館に行きたくなります。




