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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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4/30

開かれていたページ


翌朝。警捜査一課の会議室には、事件資料が静かに並べられていた。壁のホワイトボードには、被害者の顔写真と現場写真。その中央には、昨日資料室で発見された一冊の昆虫図鑑の写真が貼られている。昆陽は腕を組み、捜査員たちを見渡した。


「科捜研の結果が出た」


室内が静まり返る。


「司法解剖の結果、被害者の死因は後頭部への強い打撃。傷の角度、皮下出血の状態から、転倒事故の可能性は低い」


一枚、資料をめくる。


「さらに、資料室の床から第三者の靴底痕が検出された。事故やない」

 

昆陽は静かに言い切る。


「正式に殺人事件として捜査を開始する。」


重い空気が会議室を包んだ。被害者は、相沢 宏樹、五十二歳。市立昆虫館の主任研究員だった。大学では昆虫学を学び、卒業後すぐに昆虫館へ勤務。三十年近く標本の管理や研究を担当し、市内では昆虫に詳しい人物として知られていた。昆陽は資料を閉じる。


「人間関係は良好、借金なし、大きなトラブルも確認されてへん」


 一人の刑事が口を開く。


「怨恨の線は薄そうですね」

「まだ決めつけるな」


 昆陽は短く返した。


「事件は、そんなに親切やない」



午前十時、池尻は再び昆虫館を訪れていた。昨日と違い、館内は臨時休館となり、人の姿はほとんどない。入口では昆陽が待っていた。


「悪いな、大学は大丈夫か?」

「今日は午後からです」


 池尻は穏やかに答えた。


「少しなら、お手伝いできます」

「助かる」


二人は資料室へ向かう。昨日と同じ部屋。ただし遺体はすでになく、残されているのは規制線と鑑識作業の痕跡だけだった。机の上には、例の昆虫図鑑が透明な保護袋へ入れられている。昆陽が袋ごと机へ置いた。


「もう一回見てくれ」

「はい」


池尻は白手袋をはめ、慎重に図鑑を開いた。昨日と同じページ。しかし今日は、ページ全体をゆっくり眺める。見開きいっぱいに広がる、美しい蝶の写真。深い青紫色の羽、白い斑点、堂々とした姿。ページ上部には、大きく名前が書かれていた。


『オオムラサキ』


池尻は何も言わず、その文字を見つめていた。


「何か気になるか」


昆陽が尋ねる。池尻は少し考えてから、静かに答えた。


「……昨日は図鑑そのものを見ていました。今日はページを見ています。違いがあります」

「違い?」

「はい」


 池尻は図鑑の説明文を指差した。


「このページは、とてもよく読まれています。角だけじゃありません。説明文にも、何度も指でなぞったような跡があります」


 昆陽が身を乗り出す。


「相沢さんがか」

「その可能性は高いと思います」


 池尻は断定を避けた。


「でも、なぜこのページだったのかは、まだ分かりません」


二人はそのまま展示室へ向かった。蝶の標本が並ぶコーナー。国内の蝶、国外の蝶。珍しい種類まで、整然と展示されている。池尻は一つずつ名前を読んでいく。


「アサギマダラ…ギフチョウ、モンキアゲハ」


歩きながら、静かに標本を眺める。ふと足が止まった。


「昆陽さん」

「ん?」

「ありません」

「何がや」

「オオムラサキです」


昆陽も展示を見渡す。確かに見当たらない。


「館長」


昆陽が近くにいた館長を呼ぶ。


「はい」

「オオムラサキは展示してへんのか」


 館長は少し驚いたような顔をした。


「ええ。現在は展示しておりません」

「現在は?昔は展示していたんですか?」


池尻は静かに聞く。館長は少し考えてから頷いた。


「かなり前にはありました。ですが、今はありません」

「理由は」

「…申し訳ありません。私が館長になる前のことで、詳しくは分からないんです」


昆陽と池尻は顔を見合わせた。展示室を一周しても、やはりオオムラサキだけが存在しない。昆虫図鑑には載っている。しかし館にはない。池尻は窓際へ歩き、庭を眺めた。木々が風に揺れている。その向こうには、大きな池。さらに売店や芝生広場。平和な公園だった。


「池尻」


 昆陽が隣へ来る。


「どう思う」


 池尻は少しだけ微笑んだ。


「まだ推測です」

「ああ」

「でも、聞いてください」


 昆陽は頷く。


「図鑑は、本です。本は、ページごとに意味があります。今回開かれていたのは…」


 図鑑を見つめる。


「オオムラサキのページでした。つまり犯人は…」


 一度言葉を止める。


「昆虫そのものを見せたかったわけではなく、このページを読んでほしかったのかもしれません」


 昆陽は腕を組んだ。


「小説にも、図鑑にも、開くページには理由があります。偶然そのページになることもあります。でも…」


 静かな声が続く。


「誰かが意図して開いたのなら、そこには、読ませたい理由があると思います」


昆陽はしばらく黙っていた。そして、小さく笑う。


「やっぱりお前は、本から考えるんやな」

「はい」


 池尻は少し照れくさそうに笑った。


「本が好きなので」


そのとき、一人の鑑識員が走ってきた。


「昆陽警部補、展示室の古い写真が見つかりました。昔の館内写真です」


写真には現在とは少し違う展示室が写っていた。池尻は写真を受け取る。蝶の展示棚。その中央、小さなプレートだけがぼんやり読めた。


『オオムラサキ』


確かに昔は展示されていた。しかし今は消えている。昆陽は写真と現在の展示室を何度も見比べた。そして誰に言うでもなく、小さく呟く。


「…なんでや。なんで、オオムラサキだけが無いんや」


その疑問だけが、静かな展示室に長く残っていた。


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