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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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3/30

読まれていた図鑑


昆虫館の資料室は、変わらず静かな空気に包まれていた。鑑識員たちはそれぞれの持ち場で作業を続けている。シャッター音、薬品の匂い、無線から流れる短い報告。その中で池尻だけは、まるで図書館にいるかのような静けさで、一冊の昆虫図鑑を見つめていた。昆陽が近づいてくる。


「司法解剖の速報や。死因は、後頭部への強い打撲、転倒でも起こり得る。ただ……」


一度言葉を切る。


「倒れ方と傷の位置が、少し不自然らしい」


池尻は静かに頷いた。


「まだ事故とも事件とも言えませんね」

「せや、でも俺は事件やと思う。根拠はない。せやけど、この部屋がそう言うとる」


昆陽は現場全体を見回した。池尻も同じように視線を巡らせる。本棚、机、標本箱、顕微鏡、窓、どこにも争った跡はない。だが、違和感は確かに存在していた。池尻は白手袋をはめ直し、昆虫図鑑を机の上へ置いた。


「少しだけ、見てもいいですか」


鑑識主任が頷く。


「写真撮影も終わっています」

「ありがとうございます」


池尻はゆっくり表紙をなでた。硬いクロス装、角は少し擦れている。長年使われてきた本特有の風合いだった。ページを一枚ずつめくっていく。蝶、蛾、トンボ、セミ。どのページにも細かな折れや指の跡が残っている。


「ずいぶん読まれていますね…」


思わず漏らす。昆陽が首を傾げた。


「そんなこと分かるんか」

「はい」


池尻は柔らかく答える。


「新品の本は、ページが均等に開きます。でも、何度も読まれた本は、よく開かれるページだけ少し癖がつくんです。この図鑑もそうですね」


ページを閉じる。


「長く使われていたことは、事実だと思います」

「なるほどな」


昆陽は感心したように図鑑を眺めた。池尻は再び、遺体の横で開かれていたページを開いた。そこには一匹の蝶。美しい青紫色の羽を広げた写真。説明文、分布、幼虫が食べる植物、羽化する時期。特に変わった内容はない。それでも池尻は、そのページから目を離さなかった。


「……」

「何かあるか」


昆陽が尋ねる。池尻は少し考えてから答えた。


「まだ分かりません。でも、一つだけ事実があります」

「何や」

「このページは…」


池尻はページの下を指差した。


「ほかのページより、少しだけ紙が柔らかいんです」


昆陽は眉をひそめる。


「柔らかい?」

「はい。何度も開くと、紙の繊維が少しずつ変わります。だから、ここは繰り返し読まれていた可能性があります。」

「被害者がか」

「その可能性はあります」


池尻は断定しない、事実だけを口にする。そのとき、鑑識員が声を掛けた。


「昆陽さん、指紋の一次確認です」

「どうや」

「図鑑からは被害者の指紋が多数。ほかに数名分ありますが、職員のものと思われます」

「第三者は?」

「まだ照合中です」


昆陽は腕を組んだ。


「決め手にはならんな」

「はい」


池尻も頷く。


「図書館の本でも、たくさんの人が触れますから。図鑑も同じですね。」


池尻は本を閉じた。そして、その厚みを見つめる。


「昆陽さん」

「ん?」

「少し、不思議なんです」

「何がや」

「この図鑑は…」


静かな声だった。


「とても大切に読まれていた本です。角も傷んでいます。ページにも癖があります。でも…」


池尻は表紙をそっと撫でた。


「落ちた跡がありません」


昆陽は一瞬黙った。


「…そうやな」


図鑑ほどの重さなら、床へ落ちれば角が傷ついていてもおかしくない。しかし表紙にも角にも、新しい打痕が見当たらない。


「つまり落ちのではなくて、置かれた可能性もあります」


池尻は穏やかに続けた。


「もちろん断定はできません。でも自然に落ちた本というより、誰かが丁寧に置いたように見えます」


昆陽は遺体と図鑑を交互に見る。


「もしそうやったら、事故やない。」

「事件になりますね」


池尻は静かに答えた。


「……はい」


館長が資料室へ入ってきた。館長の顔色が変わる。


「どうかされましたか」


昆陽が尋ねる。


「あの図鑑は…」


館長は少し驚いた表情で続けた。


「相沢さんが、一番大切にしていた本なんです。展示用ではなく、自分で買った私物です」


池尻はその言葉を聞いて、小さく目を伏せた。


「そうだったんですね」


「毎日のように読んではりました。新しい図鑑もありましたが『この図鑑が一番読みやすい』と言って…」


館長は寂しそうに笑った。池尻は静かにページを閉じる。


「…だからなんですね」

「何や」

 昆陽が聞く。


「この本は…」


池尻はゆっくりと言葉を選ぶ。


「展示されていた本ではありません。飾られていた本でもありません。使われていた本です。読まれていた本なんです」


その一言に、部屋が静まり返る。昆陽は図鑑を見つめながら呟いた。


「本が読まれとった本か。それが事件とどう繋がる」


池尻は小さく首を横に振る。


「まだ分かりません。でも本は、読む理由があって開かれます。偶然開くことはありません。誰かが調べたかったのか、誰かに見せたかったのか。あるいは…」


少しだけ間を置く。


「最後に、何かを伝えたかったのかもしれません」


昆陽は深く息を吐いた。


「俺は現場を見る。お前は本を見る。やっぱり、それでええな」


池尻は穏やかに微笑む。


「はい。本も、現場も、急いで結論を出さない方が、よく読めると思います」


昆陽は笑いながら資料室を出ようとした、そのときだった。一人の鑑識員が駆け込んでくる。


「昆陽警部補!図鑑のページから、微量の植物片が検出されました!」

「植物?」

「はい。この資料室にはない種類です」


昆陽の表情が引き締まる。


「どこの植物か調べろ」

「了解!」


池尻は閉じられた図鑑へ、もう一度視線を向けた。その一冊は、ただ床に落ちていたわけではない。誰かに繰り返し読まれ、最後の瞬間まで開かれていた。そして、そのページにはまだ誰も読めていない意味が残されている。池尻は静かに呟いた。


「本は…開かれているページだけを読んでは……いけないのかもしれません」


日差しが資料室の窓から差し込み、閉じられた昆虫図鑑の表紙を静かに照らしていた。その本はまだ、誰にも最後まで読まれてはいなかった。


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