読まれていた図鑑
昆虫館の資料室は、変わらず静かな空気に包まれていた。鑑識員たちはそれぞれの持ち場で作業を続けている。シャッター音、薬品の匂い、無線から流れる短い報告。その中で池尻だけは、まるで図書館にいるかのような静けさで、一冊の昆虫図鑑を見つめていた。昆陽が近づいてくる。
「司法解剖の速報や。死因は、後頭部への強い打撲、転倒でも起こり得る。ただ……」
一度言葉を切る。
「倒れ方と傷の位置が、少し不自然らしい」
池尻は静かに頷いた。
「まだ事故とも事件とも言えませんね」
「せや、でも俺は事件やと思う。根拠はない。せやけど、この部屋がそう言うとる」
昆陽は現場全体を見回した。池尻も同じように視線を巡らせる。本棚、机、標本箱、顕微鏡、窓、どこにも争った跡はない。だが、違和感は確かに存在していた。池尻は白手袋をはめ直し、昆虫図鑑を机の上へ置いた。
「少しだけ、見てもいいですか」
鑑識主任が頷く。
「写真撮影も終わっています」
「ありがとうございます」
池尻はゆっくり表紙をなでた。硬いクロス装、角は少し擦れている。長年使われてきた本特有の風合いだった。ページを一枚ずつめくっていく。蝶、蛾、トンボ、セミ。どのページにも細かな折れや指の跡が残っている。
「ずいぶん読まれていますね…」
思わず漏らす。昆陽が首を傾げた。
「そんなこと分かるんか」
「はい」
池尻は柔らかく答える。
「新品の本は、ページが均等に開きます。でも、何度も読まれた本は、よく開かれるページだけ少し癖がつくんです。この図鑑もそうですね」
ページを閉じる。
「長く使われていたことは、事実だと思います」
「なるほどな」
昆陽は感心したように図鑑を眺めた。池尻は再び、遺体の横で開かれていたページを開いた。そこには一匹の蝶。美しい青紫色の羽を広げた写真。説明文、分布、幼虫が食べる植物、羽化する時期。特に変わった内容はない。それでも池尻は、そのページから目を離さなかった。
「……」
「何かあるか」
昆陽が尋ねる。池尻は少し考えてから答えた。
「まだ分かりません。でも、一つだけ事実があります」
「何や」
「このページは…」
池尻はページの下を指差した。
「ほかのページより、少しだけ紙が柔らかいんです」
昆陽は眉をひそめる。
「柔らかい?」
「はい。何度も開くと、紙の繊維が少しずつ変わります。だから、ここは繰り返し読まれていた可能性があります。」
「被害者がか」
「その可能性はあります」
池尻は断定しない、事実だけを口にする。そのとき、鑑識員が声を掛けた。
「昆陽さん、指紋の一次確認です」
「どうや」
「図鑑からは被害者の指紋が多数。ほかに数名分ありますが、職員のものと思われます」
「第三者は?」
「まだ照合中です」
昆陽は腕を組んだ。
「決め手にはならんな」
「はい」
池尻も頷く。
「図書館の本でも、たくさんの人が触れますから。図鑑も同じですね。」
池尻は本を閉じた。そして、その厚みを見つめる。
「昆陽さん」
「ん?」
「少し、不思議なんです」
「何がや」
「この図鑑は…」
静かな声だった。
「とても大切に読まれていた本です。角も傷んでいます。ページにも癖があります。でも…」
池尻は表紙をそっと撫でた。
「落ちた跡がありません」
昆陽は一瞬黙った。
「…そうやな」
図鑑ほどの重さなら、床へ落ちれば角が傷ついていてもおかしくない。しかし表紙にも角にも、新しい打痕が見当たらない。
「つまり落ちのではなくて、置かれた可能性もあります」
池尻は穏やかに続けた。
「もちろん断定はできません。でも自然に落ちた本というより、誰かが丁寧に置いたように見えます」
昆陽は遺体と図鑑を交互に見る。
「もしそうやったら、事故やない。」
「事件になりますね」
池尻は静かに答えた。
「……はい」
館長が資料室へ入ってきた。館長の顔色が変わる。
「どうかされましたか」
昆陽が尋ねる。
「あの図鑑は…」
館長は少し驚いた表情で続けた。
「相沢さんが、一番大切にしていた本なんです。展示用ではなく、自分で買った私物です」
池尻はその言葉を聞いて、小さく目を伏せた。
「そうだったんですね」
「毎日のように読んではりました。新しい図鑑もありましたが『この図鑑が一番読みやすい』と言って…」
館長は寂しそうに笑った。池尻は静かにページを閉じる。
「…だからなんですね」
「何や」
昆陽が聞く。
「この本は…」
池尻はゆっくりと言葉を選ぶ。
「展示されていた本ではありません。飾られていた本でもありません。使われていた本です。読まれていた本なんです」
その一言に、部屋が静まり返る。昆陽は図鑑を見つめながら呟いた。
「本が読まれとった本か。それが事件とどう繋がる」
池尻は小さく首を横に振る。
「まだ分かりません。でも本は、読む理由があって開かれます。偶然開くことはありません。誰かが調べたかったのか、誰かに見せたかったのか。あるいは…」
少しだけ間を置く。
「最後に、何かを伝えたかったのかもしれません」
昆陽は深く息を吐いた。
「俺は現場を見る。お前は本を見る。やっぱり、それでええな」
池尻は穏やかに微笑む。
「はい。本も、現場も、急いで結論を出さない方が、よく読めると思います」
昆陽は笑いながら資料室を出ようとした、そのときだった。一人の鑑識員が駆け込んでくる。
「昆陽警部補!図鑑のページから、微量の植物片が検出されました!」
「植物?」
「はい。この資料室にはない種類です」
昆陽の表情が引き締まる。
「どこの植物か調べろ」
「了解!」
池尻は閉じられた図鑑へ、もう一度視線を向けた。その一冊は、ただ床に落ちていたわけではない。誰かに繰り返し読まれ、最後の瞬間まで開かれていた。そして、そのページにはまだ誰も読めていない意味が残されている。池尻は静かに呟いた。
「本は…開かれているページだけを読んでは……いけないのかもしれません」
日差しが資料室の窓から差し込み、閉じられた昆虫図鑑の表紙を静かに照らしていた。その本はまだ、誰にも最後まで読まれてはいなかった。




