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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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図鑑が落ちていた理由


昆虫館の自動ドアをくぐると、ひんやりとした空気が池尻を包んだ。館内には、まだ開館前特有の静けさが漂っている。受付には規制線が張られ、鑑識員たちが黙々と作業を進めていた。館長らしき男性が刑事から事情を聞かれている。その傍らを通りながら、昆陽が振り返った。


「池尻、まずは現場や」

「はい」


二人は展示室の奥へ進む。通路の両側には色鮮やかな蝶や甲虫の標本が整然と並び、ガラスケースの中では外国産の巨大なカブトムシやクワガタが静かに展示されていた。どれも生き物とは思えないほど、美しく羽を広げている。池尻は足を止めた。


「きれいですね…」


思わず漏れた一言に、昆陽は苦笑する。


「事件現場で最初にそれ言う奴、お前ぐらいや」

「すみません」

「いや、ええ。そういう目ぇで見られるから、お前には来てもろうたんや」


展示室を抜けた先にある資料室。その入口には、さらに太い規制線が張られていた。白い手袋をした鑑識員が一礼する。


「昆陽警部補、どうぞ」


二人は室内へ入った。部屋はそれほど広くなかった。本棚には昆虫学や生物学の専門書が隙間なく並び、机の上には分類途中と思われる標本箱が置かれている。窓際には顕微鏡、壁には公園で確認された昆虫の分布図。そして、その中央。一人の男性が床に倒れていた。白い布が静かに掛けられている。鑑識員が布を少しだけめくった。


「被害者は昆虫館職員、相沢宏樹あいざわひろき五十二歳。発見は今朝8時10分。出勤してきた同僚が発見しました」


池尻は遺体を見つめる。争ったような跡は見当たらない。机も椅子も整っている。書類も散乱していなかった。昆陽が説明を続ける。


「現時点では外傷らしい外傷も少ない。転倒による事故死の可能性もある。せやけど…」


そこで言葉を切る。


「俺には引っ掛かる」


池尻は静かに頷いた。


「現場を見てもいいですか」

「もちろんや」


池尻は遺体から少し距離を置き、部屋全体を見渡した。本棚、机、窓、標本箱、そして床。視線が一冊の本で止まる。遺体のすぐ脇に、一冊の厚い本が落ちていた。表紙には大きく書かれている。


『日本昆虫図鑑』


それは大学で見かけたものとよく似た図鑑だった。鑑識員が言う。


「被害者の手元近くに落ちていました。開いたままの状態です」


池尻はしゃがみ込み、図鑑を眺めた。


「触れても?」

「写真撮影は終わっています。どうぞ」


白手袋を受け取り、慎重に図鑑を持ち上げる。開かれていたページを見る。蝶の図鑑だった。色鮮やかな写真、細かな解説、採集時期、生息地域。何気ない一ページに見える。


「どうや」


昆陽が尋ねる。池尻はすぐには答えなかった。ページを閉じる。表紙を見る、背表紙を見る。もう一度同じページを開く。


「……まだ、分かりません」


穏やかな声だった。


「でも、図鑑が落ちていること自体は、不自然ではありません。ここは資料室ですから」

「ああ」

「職員の方なら仕事で読んでいても、おかしくありません」


昆陽は腕を組む。


「つまり事故か」


池尻はゆっくり首を振った。


「そこまでは言えません。事故とも、事件とも…今は決められないと思います」


その答えに、昆陽は小さく笑った。


「やっぱりお前はそう言うな」

「事実だけを見るんです」

「そうや、それでええ」


そのとき、鑑識主任が近づいてきた。


「昆陽さん。一点、気になることがあります」

「何や」

「遺体の右手です」


写真を見せる。被害者の右手には、細かな紙の繊維が付着していた。


「図鑑の紙ですか」


池尻が尋ねる。


「現在照合中です。ただ…普通に読んで付く量ではありません」


昆陽の表情が少し変わる。


「引っ張ったんか」

「可能性はあります」

「ページを強く握ったようにも見えます」


池尻は静かに写真を見つめた。


「……」

「どうした」


昆陽が声を掛ける。


「少しだけ、気になりました」

「何がや」

「図鑑です。もし最後まで読んでいたなら、開いたまま落ちるでしょうか」


昆陽は首をかしげる。


「どういう意味や」

「読み終えた本って…」


池尻は図鑑をそっと閉じた。


「人は無意識に閉じることが多いんです。もちろん、開いたまま置く人もいます。でも、この図鑑はて」


池尻は開かれていたページをもう一度見た。


「何かを調べていた途中にも見えますし、誰かに見せようとしていた途中にも見えます。あるいは…」


少し考え込む。


「最後に、このページだけを見ようとしていたのかもしれません」


昆陽は深く息を吐いた。


「つまり、まだ事故とも事件とも言われへん。そういうことやな」

「はい。今のところは」


その穏やかな返事に、昆陽は満足そうに頷いた。鑑識作業は続いていた。部屋の隅では指紋採取、床では足跡の確認、標本箱や机の表面からも微細な痕跡を採取している。昆陽は資料室を一周し、静かに言った。


「池尻、俺はな…事故やったら、それでええと思っとる。誰も殺されてへん方がええ。でも…」


視線を遺体へ向ける。


「この部屋には、何やろな…静かすぎる違和感がある」


池尻も部屋を見渡した。争った跡はない、本棚も乱れていない、机も整っている。それでも…説明できない静けさが、この部屋にはあった。


「僕も……」


穏やかに言葉を選ぶ。


「まだ理由は分かりません。でも…昆陽さんが違和感を覚えたことは、大切にした方がいいと思います。理由は、あとから見つかることもありますから」


昆陽は口元だけで笑った。


「ありがとう。その一言で十分や」


そのとき、一人の若い刑事が駆け込んできた。


「昆陽警部補!司法解剖の速報です!」


昆陽は資料を受け取る。数行読んだだけで、その表情が変わった。


「…池尻、どうやら……」


静かに資料を閉じる。


「これは事故では済まされへんかもしれん」


池尻は慌てることなく、小さく頷いた。


「そうですか。では…ここからが、本当の始まりですね」


資料室の窓の外では、夏空を一匹のトンボが静かに横切っていった。


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