表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/30

昆虫館の朝

池尻くんの読書ノート、シリーズ第二弾です。


九月も半ばに差しかかる頃だった。大学はまだ夏休みの最中だったが、池尻は文学部の夏期集中講義を受けるため、空調の静かな講義室にいた。

 

今日の授業は「近代文学」

 

担当教授は黒板に一冊の小説の題名を書きながら、学生たちへ問いかける。


「物語を読むとき、一番大切なのは何でしょう」

 

教室のあちこちから手が挙がる。


「主人公の気持ちです」

「伏線です」

「テーマだと思います」

 

教授は笑みを浮かべながら頷き、ゆっくりと続けた。


「どれも正解です。ですが、その前に必要なのは、本文を正確に読むことです。思い込みで読んではいけません。書かれていることと、書かれていないことを分けて考える。それが読解の基本です」


池尻は静かにノートへ書き留める。事実と推測を分ける。その一文は、事件を追っていた頃から何度も自分へ言い聞かせてきた言葉でもあった。講義が終わると、教授は教壇の上で本を閉じた。


「皆さん…本だけではなく、人の話も最後まで聞いてください。途中で結論を決めてしまうと、大事な一文を読み落とします」


その言葉に、池尻は自然と微笑んだ。どこか懐かしい響きがあった。

     

昼休み、キャンパスには学生たちの笑い声があふれていた。中庭のベンチでは昼食を広げる学生、芝生で談笑するグループ、図書館へ急ぐ者、様々。池尻は購買で買ったサンドイッチと紙パックの紅茶を持ち、図書館へ向かっていた。


サンロード商店街の事件が終わり、生活は穏やかだった。授業を受け、本を読み、レポートを書き、休日には青葉堂読書スペースを手伝う。昆陽から電話が来ることもなく、平和な毎日が続いていた。それは望んでいた日常だった。だからこそ、ありがたいと思っていた。図書館へ入り、返却棚を眺める。ふと、一冊の本が目に留まった。


『日本の昆虫図鑑』


厚みのある図鑑だった。表紙には色鮮やかな蝶が描かれている。池尻は何となく手に取った。ページをめくる。甲虫、蝶、蛾、トンボ。昆虫の名前だけではなく、生態や分布、採集時期まで細かく載っている。


「面白いな…」

 

専門知識はない。それでも、本として読むだけで十分興味深かった。写真の配置、説明文、索引。図鑑という本は、小説とは違う読み方がある。必要な情報を探すために作られた本なのだ。


「本にも、役割があるんですね」


そう呟きながらページを閉じた、その時だった。ポケットのスマートフォンが震えた。画面を見る。表示された名前に、池尻は少し驚く。『昆陽』、電話に出る。


「もしもし」


受話器の向こうは少し騒がしかった。人の話し声、無線、慌ただしく歩く足音、聞き慣れた現場の空気だった。


「池尻」


昆陽の声はいつもより低い。


「悪い。また力貸してくれ」


池尻は立ち止まった。


「…事件ですか」

「ああ」

「場所は?」

「市立昆虫館」


昆虫館。思いがけない場所だった。池尻は記憶をたどる。子どもの頃、一度だけ遠足で訪れたことがある。大きな温室、蝶が飛び交う展示室、標本がずらりと並ぶ壁、そんな印象だけが残っていた。


「何があったんですか?」


 昆陽は静かに答える。


「職員が一人、亡くなっとる。今朝、開館準備に来た職員が見つけた。事故か事件か…まだ断定できへん」


 池尻は少し考える。


「でも、僕に電話を掛けたということは…事件の可能性があるんですね」

「……ああ」


 昆陽は短く返事をした。


「現場にな、一冊の昆虫図鑑が落ちとった」


 池尻は思わず、さっき閉じた図鑑へ目を向けた。


「昆虫図鑑…ですか」

「それだけやったら事故かもしれん。でも……」


 昆陽の声が少しだけ低くなる。


「どうも違和感がある」

「違和感?」

「説明できへん。せやけど、俺の勘が事件やと言うとる」


 池尻は少し笑った。


「昆陽さんの勘は、外れませんからね」

「勘だけじゃ捕まえられへん。だからお前を呼ぶ。お前は本を読む。俺は現場を見る。それでようやく、一つになる」


前の事件でも、そうだった。昆陽は証拠を集める刑事。池尻は本や資料を読み、事実を積み重ねる。二人の役割は違う。だからこそ、互いに足りない部分を補えた。


「大学は終わったか?」

「はい。今から向かいます」

「悪い。昆虫館の入口で待っとる」


電話は切れた。池尻は図書館の貸出カウンターへ向かい、さっき手に取った昆虫図鑑を見つめた。借りようかと一瞬考えたが、首を横に振る。


「先に見るべきは、本じゃない。現場です」


そう呟き、本を棚へ戻した。大学を出る。九月の陽射しはまだ強く、蝉の声もわずかに残っていた。駅前から市営バスへ乗り込む。目的地は、市立昆虫館。窓の外には住宅街が流れていく。やがて景色は緑へ変わった。池が広がり、木々が風に揺れている。公園の入口には、小さな売店、芝生では親子連れが遊び、ジョギングをする人が行き交う。少し先には保育園、さらに白い建物の市民病院も見える。穏やかな午後だった。


そんな平和な景色の中に、黄色い規制線だけが異質だった。昆虫館の前には数台のパトカーが停まり、鑑識員たちが忙しく出入りしている。入口で腕を組んでいた昆陽が、池尻へ気づいた。


「来たか」

「お待たせしました」


昆陽は軽く頷き、昆虫館を見上げる。


「平和そうな場所ほど、事件は静かに始まる。」


池尻も視線を上げた。ガラス張りの昆虫館は、九月の陽射しを受けて静かに輝いている。その中に、一人の命が失われていた。池尻は深く息を吸う。

 

サンロード商店街での事件が終わって、また再び本と向き合う事件が始まろうとしていた。


前作、手軽に読むには1話ごとが長かったかなと。

今回は1話ごとを少し短くしてみました。

前シリーズの1話を前編、中編、後編に分けるイメージで更新していきます。

よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ