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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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青い蝶は飛び続ける


取調室で、犯人は長い沈黙の末にようやく口を開いた。

「……最初は、本当に、公園を守りたかっただけなんです」

 

その声は、もう言い訳ではなかった。 壊れてしまったものを、ひとつずつ拾い集めるような声だった。


「朝市も、昆虫館も、この公園も。ここは、みんなの居場所でした」

 

昆陽は何も言わず、ただその言葉を聞いていた。


「だから、少しぐらいなら…誰にも迷惑は掛からないと思ったんです」


朝市の運営資金、売店の売上、寄付金。長い時間をかけて、少しずつ帳簿を書き換え、小さな不正を重ねていた。誰にも気づかれない程度の、ごくわずかな金額。けれど、その「少し」は、積み重なるたびに重さを増し、やがて取り返しのつかない場所まで辿り着いてしまった。


最初にその歪みに気づいたのは、昆虫館の研究員だった相沢だった。昆虫を観察するように、公園全体を見続けるうち、人の流れにも、金の流れにも、同じように見えない規則があることに気づいたのだろう。だから相沢は三年間、記録を続けた。証拠を集めるためではない。その人物が、自分から過ちを認める日を、最後まで信じていたからだ。


「相沢さんは…」

 

池尻が静かに言った。


「最後まで、あなたを犯人とは書きませんでした」

 

犯人は目を閉じる。

「知っています。だから、苦しかった。責められる方が、ずっと楽だった」

 

その言葉が落ちたあと、取調室は深い静けさに包まれた。誰も、その沈黙を破れなかった。


事件の全貌が明らかになると、これまで散りばめられていた謎も、一つずつ意味を持ち始めた。失われたオオムラサキの標本箱。あれは、朝市の帳簿を一時的に隠すために利用され、その後、存在そのものが消された。展示記録だけが残り、標本箱だけがなくなっていた理由も、ようやく説明がついた。


朝市が開かれる日だけ撮られていた風景写真。それは蝶を追うためではなく、公園へ現れる一人の人物を見失わないための記録だった。売店の灯り、それは相沢が犯人へ送った「話がしたい」という合図。レジに残された「0001」、それは観察対象が現れたことを自分だけが分かる形で残した、最後の確認だった。そしてH-7、池の北側に立つ一本のクヌギ。毎年オオムラサキが集まり、子どもたちが目を輝かせていた場所。相沢は最後まで、その場所ならきっと本当の話ができると信じていたのだろう。青い蝶が光の中でしか見えないように、真実もまた、光の差す場所でしか見えないと知っていたのかもしれない。すべての謎が一本の線になり、事件は静かに幕を閉じた。


警察署の応接室で、佐伯は黒い手帳を閉じた。頬を伝う涙が、静かに膝へ落ちる。


「……私、ずっと勘違いしていました。相沢さんは、私を遠ざけたんじゃなかった。巻き込みたくなかっただけだったんですね」

 

池尻は穏やかに頷いた。


「そう思います。最後まで、佐伯さんに保護活動を続けてほしかったんでしょう」

 

佐伯は小さく笑った。涙を浮かべたままの、やさしい笑顔だった。


「だったら、今度は私が続けます。相沢さんが守りたかったものを」

 

その声は震えていたが、もう迷いはなかった。黒い手帳に残された記録は、誰かを裁くためのものではなく、誰かを見失わないためのものだったのだと、ようやく分かったからだ。



数日後、昆虫館の一室。館長は佐伯を静かに迎えた。


「……お帰りなさい。」

 

その一言だけだった。佐伯は深く頭を下げる。


「また、ここで働かせてください。」

 

館長は何も言わず、力強く頷いた。こうして佐伯は昆虫館へ戻り、子どもたちへ昆虫教室を開くことになった。教室では、相沢が大切にしていた観察ノートの書き方も教えられるようになった。昆虫を見るだけではない。自然を大切に思う心、人を思いやる心。それもまた、相沢が残した「観察」だった。


青い蝶は、ただ美しいだけの存在ではない。見つける人の心によって、意味を変える。誰かを隠す暗号にもなれば、誰かを思い出すための印にもなる。そして最後には、失われた思いをそっと運ぶ、ひとつの羽ばたきになる。



休日の午後、読書コーナーで池尻は静かに本を読んでいた。窓の外では、子どもたちの楽しそうな声が聞こえる。昆虫教室が終わったのだろう。一人の男の子が池尻の前までやって来た。


「お兄さん」

 

池尻は本から顔を上げる。


「どうしたの」

 

男の子は少し考えてから尋ねた。


「本って、最後まで読まないとだめ?」

 

池尻は本をそっと閉じた。少しだけ空を見上げ、やさしく微笑む。


「うん。本も、人も、最後まで読んでほしい。途中だけを見ると、怖い人に見えたり、悪い人に見えたりすることがある。でも、最後まで知ろうとすると、その人が何を考えて、何を守りたかったのかが見えてくる。」

 

男の子は小さく頷いた。


「じゃあ、最後まで読む。」

「うん。きっと、その方が本も喜ぶから。」

 

男の子は笑顔で走っていく。その様子を、少し離れた場所から佐伯が見つめていた。昆虫館の入口では、子どもたちが今日見つけた蝶の話で盛り上がっている。風が吹く。クヌギの枝が揺れ、午後の光が葉の隙間からこぼれ落ちた。その光の中を、一匹のオオムラサキがゆっくりと舞う。紫の翅は、角度によって青く透け、まるで空の欠片がそのまま羽になったようだった。佐伯はその姿を見上げ、小さく呟く。


「……相沢さん、ちゃんと飛んでいますよ」

 

池尻も空を見上げる。青い蝶は、誰かを裁くための証拠ではなかった。誰かを忘れないために残された名前であり、誰かの思いがまだここにあると知らせる、静かな合図だった。そして池尻は、そっと本を閉じる。物語にも、人にも。最後の一ページまで読んで、初めて見える景色がある。そのことを胸に刻みながら、穏やかな午後の光の中、昆虫館には子どもたちの笑い声がいつまでも響いていた。


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