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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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28/30

最後の約束


捜査本部の会議室には、黒い手帳の複写が机いっぱいに並べられていた。池尻は一枚ずつ順番に並べ替えていく。観察記録、採集ノート、観察アルバム、売店のレシート、防犯カメラの映像。そして、公園の地図。紙の端をそろえる指先は落ち着いていたが、その動きにはわずかな迷いがあった。何度も読み返してきたはずの記録なのに、最後の一枚を前にすると、まだ胸の奥が静かにざわつく。相沢が何を見て、何を言えずにいたのか。その答えが、ようやく形になるのだと思うと、息を吸うのも少しだけ慎重になった。昆陽は静かに椅子へ腰掛けた。


「これで、全部そろったな」


池尻は小さく頷く。


「はい。相沢さんが最後に見た一日を、ようやく最後まで読むことができます」

 

その言葉とともに、池尻は事件当夜の流れを語り始めた。


「午後6時40分、相沢さんは昆虫館を出ています」


池尻は地図の上に一枚目の写真を置く。


「向かった先は売店です」

 

昆陽が頷く。


「防犯カメラにも映っとった」

「ええ。でも、目的は買い物ではありませんでした」

 

池尻は売店の写真を指差した。


「事件当夜、レジは一度だけ開いています。売上はゼロ、品名もありません。入力されたのは『0001』だけ」

 

昆陽は静かに呟く。


「ずっと謎やった数字や」

「はい。でも黒い手帳を読むと意味が変わります」

 

池尻は観察記録の一節を開いた。


『0001 本日確認』


「これは観察対象を確認したという意味です。売店で『0001』を入力したのは…相沢さん自身が、観察対象が現れたことを記録するためでした」

 

昆陽は目を見開く。


「研究者らしい最後の記録…」

「そうです。紙がなくても、残せる場所へ記録した。それが売店のレジだったんです」


池尻は次の資料を並べる。


「そして、売店の灯り」

 

保育園職員の証言。『事件の夜、一度だけ売店の灯りが点いた』昆陽が腕を組む。


「あれも合図やったんやな」

「はい。待ち合わせの合図。相沢さんは、灯りを点ければ相手が来ることを知っていました。だから一分だけ、灯りをともした」

 

会議室が静まり返る。すべての点が、一本の線になっていく。

 

「その後、相沢さんはH-7へ向かいます。」

 

地図の上で指先がゆっくり動く。


「三年間、ずっと観察を続けてきた場所です」

 

池尻は黒い手帳を開いた。


『今日、話そうと思う。』

 

最後の一文。その意味を、誰もが理解した。


「相沢さんは…この日、決着をつけようとしました」

 

昆陽が低く尋ねる。


「犯人を問い詰めるためか」

 

池尻は首を横に振る。


「違います。話すためです。最後まで信じたかったから。最後まで、自分の口で伝えたかった。」


黒い手帳の余白には、小さな走り書きが残っていた。


『まだ間に合う。』

 

たった五文字。昆陽はその文字を見つめたまま動かなかった。その短い言葉の向こうに、相沢の声がかすかに聞こえる気がした。怒鳴るでもなく、責めるでもなく、ただ静かに、相手の目を見て言ったのだろう。まだ戻れる。まだ終わっていない。そう伝えるために、どれほど言葉を選んだのか。そこまで考えたところで、池尻は胸の奥が少し痛むのを感じた。


「……そういうことやったんか」

 

池尻は静かに頷く。


「相沢さんは犯人を責めていません。『どうしてやった』とも書いていない。『まだ間に合う』…その一言だけです」

 

佐伯は目を閉じた。


「相沢さん…最後まで、優しい人だったんですね」


池尻は事件当夜の光景を静かに語る。


「売店で合図を送り、H-7で待つ。犯人が現れる。相沢さんは、自首を勧めます。『もう終わりにしましょう。まだ戻れます。あなたは、こんなことを続ける人じゃない。』と」


その言葉を口にしたであろう相沢の姿が、そこに浮かぶようだった。まっすぐ立っていたのか、それとも少しだけ距離を取りながら、相手が逃げないように声を落としていたのか。どちらにしても、相沢は最後まで相手を見捨てなかったはずだ。池尻はその場面を思い浮かべながら、手帳の紙面に残るわずかな筆圧の揺れを思い出していた。昆陽は唇を結ぶ。


「せやけど…相手は応じへんかった」

「はい。その場で口論になった。相沢さんは逃げませんでした。最後まで説得を続けた」

 

池尻は静かに目を伏せた。


「そして、命を落としました」

 

会議室は深い沈黙に包まれる。相沢は犯人を追い詰めたのではない。最後まで、一人の人間として向き合おうとしたのだ。その時、捜査員が部屋へ駆け込んできた。


「昆陽警部補!例の人物です!事情聴取中、黒い手帳の内容を示したところ…事件への関与を認めました!」

 

昆陽はゆっくり立ち上がる。椅子が床を擦る音が、やけに大きく響いた。昆陽は一瞬だけ目を閉じ、それから深く息を吐く。怒りより先に来たのは、長く張りつめていた糸が切れるような感覚だった。ここまで来た。ようやく、相沢の言葉が届く場所まで来たのだ。


「……行くか」

 

池尻も静かに頷いた。



取調室。長年、公園でボランティアとして活動し、誰からも信頼されてきたその人物は、静かに椅子へ座っていた。蛍光灯の白い光が、机の上に落ちる。両手は膝の上に置かれているが、指先だけがわずかに震えていた。視線は机の木目に落ちたまま、誰とも合わない。昆陽はその沈黙を見て、相手がまだ言い訳を探しているのではなく、もう逃げ道を失っているのだと悟った。昆陽は机の上へ黒い手帳を置く。


「もう終わりや。全部分かった」

 

その人物はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。喉が鳴る。唇が一度だけ震え、それからようやく声が出た。視線はまだ上がらない。机の端に置かれた黒い手帳だけを、まるで見てはいけないもののように見つめている。


「…あいつは、最後まで俺を信じていた」

 

震える声だった。


「『まだ間に合う』って、そう言ったんです。それなのに…」

 

両手で顔を覆い、小さく肩を震わせる。指の隙間から、かすかな息が漏れる。泣いているのか、笑っているのか、自分でも分からないような壊れた呼吸だった。長く保ってきた沈黙が、そこでようやく崩れ落ちる。


「俺は…取り返しのつかないことをしました」


昆陽は静かに手錠を取り出した。金属が触れ合う乾いた音が、取調室の空気をさらに冷たくした。昆陽は一歩だけ近づき、相手の顔を見た。そこにはもう、抵抗の色はなかった。ただ、遅すぎた後悔だけが、濡れた目の奥に沈んでいる。


「殺人の容疑で逮捕する」


その人物は抵抗しなかった。ただ静かに立ち上がり、一度だけ黒い手帳を見つめる。その目には、後悔と涙だけが残っていた。手錠がかけられる瞬間、わずかに肩が揺れた。けれど、その動きは拒絶ではなく、ようやく終わったという諦めに近かった。昆陽は手首を固定しながら、相手が最後に何を見ているのかを見逃さなかった。黒い手帳。そこに残された相沢の文字。もう戻れないと知りながら、それでも最後まで差し出されていた言葉。部屋の外で待っていた池尻は、その姿を静かに見送る。


「相沢さん」


小さく呟く。


「あなたの言葉は、最後まで届かなかったわけじゃありません。少し遅くなったけれど……ちゃんと、届きました」

 

黒い手帳は、三年間書き続けられた「最後の約束」を果たし、静かにその役目を終えた。


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