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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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最後の記録


鑑識係から手渡された黒い革表紙の手帳は、長い年月を物語るように角が擦り切れていた。昆陽は白い手袋をはめたまま、その手帳を静かに机へ置く。


「…これが相沢さんの」

 

池尻は小さく頷いた。


「ええ。三年間、一度も誰にも読まれなかった記録です」

 

捜査本部には昆陽と池尻、そして立ち会いを希望した佐伯の三人だけがいた。相沢が最後まで守り続けた記録だからこそ、その最初の一ページは静かに開かれるべきだと、誰もが思っていた。池尻はそっと表紙をめくる。最初のページには、日付だけが書かれていた。三年前、ちょうど佐伯が昆虫館を退職する少し前の日付だった。その下には、整った文字が並ぶ。


『観察対象 0001』


そして、その横に小さく書き添えられていた。


『青い蝶』


 

昆陽が低く呟く。


「……やっぱり同じやったか」

 

池尻は静かにページを見つめた。


「はい。0001は観察対象の管理番号。青い蝶は、その人につけた呼び名です」

 

相沢らしい記録だった。本名は一度も書かれていない。代わりに、日時、天候、場所、行動だけが淡々と綴られている。まるで昆虫観察の採集ノートだった。ただ違うのは、観察していた相手が蝶ではなく、一人の人間だったことだけだった。ページをめくる。


四月、『朝市。予定どおり現れる』

五月、『池を一周。異常なし』

六月、『売店に立ち寄る。会話なし』

七月、『H-7付近を十分ほど確認』

 

どの記録も短い。感情はほとんど書かれていない。事実だけが積み重ねられていた。昆陽は思わず息を吐く。


「三年も続けとったんか…」

 

池尻はゆっくり頷く。


「研究者らしいですね。思い込みを書かない、見たことだけを書く。だから三年間、続けられたんだと思います」


佐伯は目を伏せた。


「私は…ただ昆虫を見なくなっただけだと思っていました。でもこんなことを、一人で」

 

声が震える。池尻は責めることなく、次のページを開いた。年月が進むにつれ、記録は少しずつ変わっていった。


『今日は子どもたちがいた。笑っていた。その姿を見て安心した』

 

その一文を読んだ佐伯が顔を上げる。


「相沢さん…」

 

池尻もその文章を見つめた。


「相沢さんは、相手だけを見ていたわけではありません。公園も、子どもたちも、昆虫も、全部見ていました。だから、すぐに警察へ届けなかった」

 

昆陽が尋ねる。


「なんでや。疑っとったんやろ」

「ええ。でも疑うことと、罪を断定することは違います」

 

池尻は静かな声で答えた。


「相沢さんは最後まで、その人を信じたかったんです」


さらにページをめくる。そこには初めて、長い文章が書かれていた。


『今日も何も起きなかった。それでいい。何も起きない一日が続くなら、それが一番いい。』

 

昆陽は黙って文章を見つめる。池尻は小さく微笑んだ。


「この一文で分かります。相沢さんは犯人を捕まえたかったわけじゃありません。事件そのものが起きないことを願っていました」

 

佐伯は静かに涙をぬぐう。


「相沢さんらしい…そういう人でした。いつも誰かを責める前に、守ることを考える人だった。」

 

部屋には、しばらく誰も言葉を発しなかった。池尻は慎重にページを進める。事件が起きる数か月前。記録の頻度が増えていた。


『売店』

『朝市』

『池』

『H-7』

『同じ行動』

『確認よし』

 

短い記録が毎日のように続いている。昆陽が腕を組んだ。


「ここで確信に近づいたんやな」

「はい。でも…」

 

池尻は首を横に振る。


「まだ『犯人』とは書いてありません」

 

実際、手帳には一度もその文字は現れない。


『観察継続』

『変化なし』

『確認不足、もう少し見る』

 

そんな言葉ばかりだった。池尻は静かに手帳を閉じかけ、もう一度開いた。


「昆陽さん、これは告発のための記録じゃありません」

 

昆陽は池尻を見る。その声は、いつものように穏やかだった。


「誰かを止めるために書き続けた記録です。証拠を集めるためだけじゃない。この人が、もう二度と間違えないように。その願いが、この三年間に残っています」

 

佐伯は涙を流したまま、小さく頷いた。


「……から、一人で抱え込んだんですね。私にも言えなかった。最後まで…」


池尻は残り数ページとなった手帳を開く。事件前日の記録。


『明日も会う』


その次のページは空白。そして、最後のページだけに、相沢の文字が静かに残されていた。


『今日、話そうと思う』

 

たった一文、それだけだった。昆陽はゆっくり息を吐く。


「……覚悟、決めとったんやな」


池尻は最後のページを静かに見つめ続けた。

「ええ。相沢さんは、この日…犯人を捕まえに行ったんじゃありません」


 

ページをそっと閉じる。


「助けに行ったんです」

 

部屋は静まり返る。黒い手帳はようやくその役目を終えたかのように、机の上で静かに閉じられていた。


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