最後の一日
朝の公園は、静かな空気に包まれていた。池には風が渡り、水面が小さく揺れている。鳥の鳴き声が木々の間を抜け、売店では開店準備が始まっていた。池尻は腕時計へ目を落とした。
「事件当夜まで、あと十分です」
昆陽も頷く。
「今日は相沢さんと同じ時間、同じ道を歩く。最後の一日を再現するんや」
二人は昆虫館の入口に立った。相沢研究員が最後に見た景色を、そのまま追いかけるためだった。
午後六時四十分、昆虫館を出る。池尻はゆっくり歩きながら周囲を見渡した。
「相沢さんは急いでいません。誰かと会う約束があるなら、もっと足早になるはずです」
昆陽が尋ねる。
「ほな、なんで普通に歩いた?」
「相手を警戒させたくなかったからだと思います」
二人は売店へ向かった。午後六時五十分、売店。事件当夜、一度だけレジが開き、「0001」が入力された場所。店内へ入り、事件当時と同じ位置へ立つ。池尻は窓の外を見つめた。そこからは池の北側、H-7のクヌギがよく見える。
「やっぱり…」
池尻は静かに呟いた。
「ここは観察場所です」
昆陽も窓の外へ目を向ける。
「ほんまによぉ見えるな」
「相沢さんは、この場所で相手が来るのを確認したんでしょう」
「ほな『0001』は?」
池尻はレジへ視線を移した。
「僕は、相沢さん自身への印だったと思います。記録を始める合図。あるいは…今日も観察対象0001を確認した、という印」
昆陽は小さく息を漏らした。
「最後まで研究者やったんやな…」
二人は売店を出て、H-7へ向かう。木漏れ日が揺れるクヌギの前。相沢が三年間立ち続けた場所だった。池尻は木の幹へ手を添える。
「ここからは売店も、池も、朝市広場も見えます」
昆陽は周囲を見回した。
「全部見渡せる…」
「はい。だからH-7が選ばれたんです」
二人は池の縁を歩く。事件前夜、帽子の人物が映っていた場所、観察トラップ、青い蝶の紙片。すべてが、この池の周囲で見つかっていた。池尻は水面を見つめながら言った。
「相沢さんは、何度もここへ来ています。でも何も起きていない日も、記録していました。犯罪だけを追うなら、そんな必要はありません」
昆陽は足を止めた。
「確かにそうや。何もない日まで書く理由がない。」
「だから…」
池尻は静かに続ける。
「観察だったんです」
最後に二人は朝市広場へ向かった。広場では週末の朝市に向けた準備が進められている。テントを立てる人、机を運ぶ人、子どもたちが走り回る姿、池尻はその光景を見つめていた。そして、小さく目を閉じる。昆陽が尋ねる。
「どうした」
「分かりました」
池尻はゆっくり目を開いた。
「全部つながりました。売店、H-7、池、朝市広場。一本の線になります」
昆陽も地図へ目を落とす。四つの場所を結ぶと、一人の人物が毎回通る動線が浮かび上がった。相沢は、その動線を三年間追い続けていた。昆陽は静かに呟く。
「相沢さんは、犯人を追っとった。」
池尻は首を横へ振る。
「いいえ、違います」
穏やかな声だった。しかし、その言葉には確信があった。
「相沢さんは犯人を追っていたんじゃない」
「……」
「犯人を止めようとしていました」
昆陽は息をのむ。
「止める…」
「はい。だから証拠を集め続けた。だから何度も会おうとした。だから事件当夜も、一人で向かった」
その結論に、昆陽は何も言えなかった。相沢は犯人を裁こうとしたのではない。罪を重ねさせないために、最後まで説得しようとしていたのだ。
その時だった。無線が鳴る。
『昆陽警部補!H-7付近で再捜索中の鑑識です!木の根元の空洞から革製の手帳を発見しました!』
昆陽が目を見開く。
「見つかったんか!」
『はい!』
『黒い革表紙です!』
池尻は静かに空を見上げた。風がクヌギの枝を揺らし、一枚の葉がゆっくりと足元へ舞い落ちる。
「相沢さん」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「ようやく……最後まで読めます」
黒い手帳。三年間の観察が記された、その最後の一冊が、ついに二人のもとへ戻ってきた。




