青い蝶の正体
捜査本部のホワイトボードには、事件に関わる手掛かりが整然と並べられていた。H-7、オオムラサキ、消えた標本箱、黒い手帳、0001。そして…青い蝶。昆陽は腕を組み、静かに言った。
「ここまで来たら、全部つながるはずや。けど、あと一歩届かへん」
池尻はホワイトボードの前へ立つ。一つひとつの言葉を、まるで本の目次を読むように見つめていた。
「昆陽さん。0001と青い蝶、これは別々の暗号じゃありません」
昆陽が振り返る。
「同じ……いうことか?」
池尻は小さく頷いた。
「はい。0001は、相沢さんが最初に観察対象として記録した人物番号。そして『青い蝶』は、その人物につけた呼び名です」
昆陽は息をのむ。
「つまり…相沢さんは、一人の人物を三年間観察していた。そういうことか」
池尻は静かに答えた。
「研究者らしい記録の付け方だったんだと思います。」
その日の午後、昆陽は佐伯を再び警察署へ呼んだ。佐伯は池尻と昆陽の前に腰を下ろした。池尻は黒い手帳の紙片を差し出す。
「佐伯さん。相沢さんは、『青い蝶』という言葉を誰か一人のために使っていました」
佐伯は驚いたように目を見開く。
「……人だったんですか。私はずっと、オオムラサキのことだと思っていました」
池尻は穏やかな口調で続けた。
「僕も最初はそう思っていました。でも観察アルバムも、採集ノートも、黒い手帳も。全部を順番に読むと、一つだけ意味が通ります」
佐伯はゆっくりと俯いた。
「相沢さん…そんなことまで、一人で」
その声には、後悔が滲んでいた。しばらく沈黙が続いたあと、佐伯が静かに話し始めた。
「三年前からでした。相沢さんは、公園へ来ても蝶を追わなくなりました。いつも同じ方向を見ていました。私は、新しい保護活動でも考えているのかなって…そう思っていました」
佐伯は首を振る。
「違ったんですね。誰かを見ていた…ずっと」
池尻は静かに頷く。
「でも相沢さんは、その人を犯人とは決めつけませんでした。観察だけを続けた。証拠を探しながら」
昆陽が低く言う。
「警察でも同じや。疑うだけやったら逮捕できへん。証拠が要る」
池尻は資料へ視線を落とした。
「相沢さんも同じだったんです。証拠が足りなかったんですね」
その一言に、佐伯は目を閉じた。
「だから…最後まで一人で抱えてしまった」
二人は改めて事件当夜の行動を整理した。ホワイトボードに時系列が書き込まれていく。午後六時四十分、相沢が昆虫館を出る。午後六時五十分、売店へ立ち寄る。レジが一度だけ開く、『0001』が入力される。午後七時、売店の灯りが点灯。池の北側、H-7へ向かう。そこで『青い蝶』…観察対象0001と会う約束をしていた。その後、何者かによって命を奪われる。昆陽はペンを置いた。
「これで、事件当夜の流れはほぼ見えたな」
池尻はホワイトボードを見つめながら、小さく首を横に振る。
「あと一つだけです」
「あと一つ?」
「はい。相沢さんは、どうして売店で『0001』を入力したのか。そこだけが、まだ読めていません」
昆陽は腕を組む。
「それが分かったら、全部つながる」
「ええ」
池尻は静かに答えた。
「事件は、あと一ページで終わります」
夕日が捜査本部の窓から差し込み、ホワイトボードを赤く染める。そこに並ぶ『青い蝶』と『0001』。二つの言葉はもう別々ではなかった。それは、一人の研究者が三年間、誰にも告げず観察し続けた、たった一人の人物を指す”読書ノートのしおり”だった。




