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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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青い蝶


科捜研の解析室は静まり返っていた。モニターには、黒い手帳から見つかった一枚の紙片が映し出されている。そこに残されていた文字は、たった三文字。


「青い蝶」


昆陽は腕を組み、低く息をついた。


「結局、この言葉は何なんや…合言葉なんか、場所なんか。それとも、人なんか」


池尻はしばらく画面を見つめ、静かに口を開いた。


「……人だと思います」


昆陽が振り向く。


「人?」

「はい。相沢さんは研究者です。昆虫を観察するときも、名前より先に特徴を書き残します。もし誰かを長く観察していたなら、本名ではなく、自分だけに分かる呼び名を付けたはずです。その呼び名が…」


池尻は画面へ目を向けた。


「『青い蝶』だったんじゃないでしょうか」



その日の午後、昆陽は佐伯を警察署へ招いた。前回の聞き取りでは体調を崩してしまった経緯を考え、落ち着いた応接室で話を聞くことになった。池尻も同席する。昆陽は紙片の写真を机へ置く。


「佐伯さん、この言葉に心当たりはありますか」


佐伯は写真を見る。その瞬間、小さく息をのんだ。


「……青い蝶」


しかし、ゆっくり首を横へ振る。


「子どもたちとの合言葉だと思っていました。『オオムラサキを守ろう』っていう意味で。それ以外の意味なんて…考えたこともありませんでした」


池尻は穏やかに尋ねる。


「相沢さんから、この言葉を特別な言い方で聞いたことはありませんか」


佐伯は少し考え、目を伏せた。


「一度だけ…三年くらい前です」


佐伯は静かに語り始めた。


「あの日、公園で保護活動をしていた時でした。相沢さんが急に、人の流れを見ていたんです。私は『蝶でも飛んでるの?』って聞きました。そしたら相沢さんは…」


少しだけ寂しそうに笑う。


「『青い蝶は、人の中にもいる。』そう言いました」


佐伯は首を振る。


「何を言ってるのか分からなくて、冗談だと思って笑ったんです。でも…相沢さんは笑いませんでした」


応接室が静まり返る。昆陽は小さく呟いた。


「その頃からか…」

「はい。少しずつ様子が変わっていきました。昆虫を見ている時間より、誰かを見ている時間の方が長くなって…私は怖くなりました。何をしているのか聞いても教えてくれなくて。だから……昆虫館を辞めました。」


その声は震えていた。


「でも本当は、心配だったんです。辞めた後も、公園の保護活動だけは続けました。相沢さんが、一人にならないように」


池尻は静かに頷いた。責めるような表情はない。ただ、相手の言葉を最後まで受け止めていた。


佐伯を送り警察署へ戻った二人は、これまでの資料を時系列に並べ直した。採集ノート、観察アルバム、H-7、事件前夜の写真、売店、「0001」のレシート、黒い手帳の紙片。そして、「青い蝶」…池尻は一枚ずつ順番を整える。


「読書と同じですね」


昆陽が笑う。


「また本か」

「はい。順番が変わると、意味も変わります」


池尻は観察アルバムの風景写真を指差した。


「相沢さんは三年前から、この人物を観察していました。毎年、同じ場所で、同じ催しの日に、犯罪を見つけるためではなく、犯罪かどうかを確かめるために」


昆陽は静かに頷いた。


「せやから、手を出されへんかった」

「はい。疑いだけでは、人を犯人にはできません。証拠が足りなかったんですね」


その一言には、責める響きはなかった。研究者として、そして一人の誠実な人間として相沢が選んだ時間を、静かに理解するような声だった。昆陽はホワイトボードへ向かった。事件当夜の行動を書き出していく。午後七時、相沢が昆虫館を出る。売店前を通過、売店の灯りが一度だけ点灯、レジに『0001』が入力される。相沢はH-7へ向かう…そして、朝市関係者の人物と会う約束をしていた。その後、死亡。昆陽はペンを置いた。


「……ほぼ、繋がったな」


池尻はホワイトボードを静かに見つめる。


「はい。あと一つだけです。まだ読めていない最後の一ページがあります」


昆陽は頷く。その視線の先には、「青い蝶」という三文字。そして赤く囲まれた『0001』。二つの言葉は、まるで一冊の本の最後の章へ読者を導く栞のように、静かに並んでいた。


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