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池尻くんの読書ノート2 青い蝶は飛び続ける  作者: 伊丹 宝


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エピローグ 青い蝶のいる場所


穏やかな陽射しが、公園の木々を優しく照らしていた。池の水面は風を受けて静かに揺れ、クヌギの葉がさらさらと音を立てる。


事件が終わり、公園には以前と変わらない日常が戻っていた。朝市では笑い声が響き、売店には家族連れが立ち寄る。昆虫館にも、休日を楽しむ子どもたちの姿があった。館内の一角には、新しい展示ケースが設けられている。その中央に置かれているのは、一つの標本箱だった。展示名は……

 

『オオムラサキ ~未来へつなぐ命~』


失われた標本箱は戻らなかった。けれど、この展示は失われたものを再現するためではない。自然保護の意義や昆虫との向き合い方を伝える教育展示として、新たに整備されたものだった。ケースの横には、小さな説明文が添えられている。


『一匹の蝶を知ることは、自然を知ることにつながります。一人の人を知ろうとすることも、同じように時間が必要です』


その文章に名前はない。だが、それが誰の想いを受け継いだ言葉なのかを、館内の職員は皆知っていた。


「みんな、静かに見てごらん」


展示室には子どもたちが集まっていた。案内しているのは佐伯だった。昆虫館へ戻ってから、彼女は再び子ども向け昆虫教室を担当している。優しい口調も、子どもたちと同じ目線で話す姿も、三年前と何一つ変わっていなかった。


「オオムラサキはね、日本の国蝶って呼ばれている蝶なの」

 

一人の女の子が手を挙げる。


「どうして青いの?」

 

佐伯は微笑んだ。


「光の当たり方で、青にも紫にも見えるからよ。自然ってね、見る角度を変えると違うものが見えてくるの」

 

その言葉に、子どもたちは興味深そうに標本箱をのぞき込んだ。


「だから、急いで決めつけちゃいけないの」

「虫も、人も、ちゃんと見続けることが大切なんだよ」

 

その言葉は、子どもたちへの授業であると同時に、自分自身へ向けた約束でもあった。教室が終わると、子どもたちは元気よく礼をする。


「ありがとうございました!」

「また来てね。」

 

佐伯は笑顔で手を振る。子どもたちが走っていく姿を見送りながら、小さく空を見上げた。


「……見ていてくださいね、相沢さん。」

 

その声は、初夏の風に溶けていった。


「よう、佐伯さん」


聞き慣れた声に振り向くと、昆陽が立っていた。今日は私服姿だった。肩の力が抜けた表情は、刑事というより近所へ散歩に来た一人の大人に見える。


「昆陽さん」

「休みやのに、つい来てもたわ。」

 

昆陽は照れくさそうに笑う。


「事件が終わったあと、ここがどうなったんか気になってな」

 

佐伯も笑みを返した。


「いつでも来てください。今度は事件じゃなくて、蝶を見に」

「それがええな」

 

昆陽は展示ケースの前で足を止める。オオムラサキの標本を静かに見つめた。


「相沢さんも、喜んどるやろ。」

「はい…きっと」

 

二人はしばらく何も言わなかった。沈黙は寂しいものではない。それぞれが、同じ人を思い出している時間だった。


昆虫館を出ると、公園のベンチが木陰に見えた。そこには池尻が座っている。膝の上には一冊の文庫本。ページをめくる指先は、いつもと変わらず穏やかだった。昆陽は苦笑する。


「休みの日まで本読んどる」

 

佐伯も思わず笑った。


「あの人らしいですね」

 

池尻は二人に気づき、小さく会釈を返す。


「こんにちは」

「こんにちはやないわ」

 

昆陽が笑う。


「今日は事件の相談やない。ほんまに休みや」

「そうですね」

 

池尻も少しだけ笑みを浮かべた。三人は短い会話を交わし、それぞれの時間へ戻っていく。公園を吹き抜ける風が、少しだけ強くなった。池尻の手元の本が、ふわりと音を立てる。


ーぱらりー


ページが一枚だけ自然にめくれた。池尻は追いかけるように視線を落とす。そのとき、窓の外を一匹の青い蝶が横切った。ゆっくりと風に乗り、公園のクヌギへ向かって飛んでいく。池尻はその姿を目で追い、静かに本を閉じた。


「誰かを理解することは、本を読むことによく似ている」

 

穏やかな声が、公園の静けさに溶けていく。


「最後まで読んで、初めて分かることがある」

 

木々が揺れる。子どもたちの笑い声が聞こえる。昆虫館には新しい命を伝える展示があり、公園には人々の日常が戻っていた。そして、青い蝶は今日も変わらず空を舞う。誰かの思いを乗せるように、誰かの未来へつないでいくように。池尻はもう一度、空を見上げた。その穏やかな眼差しの先で、青い蝶は太陽の光を受けながら、小さく、美しく羽ばたいていた。


次はどんな場所で、どんな一冊を読み解くことになるのか。また皆さまと、新しい物語でお会いできる日を楽しみにしています。


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

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