幕間 田中と麗奈の休日
休日の昼前、田中はようやく起きた。
正確には、起きたというより、布団の中でスマホを見つけ、時間を確認し、いったん見なかったことにしようとして、失敗した。
「……まだ午前」
田中は、小さくつぶやいた。
「午前中の後半です」
麗奈の声が、端末から静かに返ってくる。
「そこ細かくしなくてよくない?」
「事実確認です」
「休日の初手から事実確認かあ」
田中は、布団の中で少しだけ笑った。
眠気はまだ残っている。
外は明るい。
部屋は、休日らしく少しだけ散らかっている。
机の上には、開きかけのノート。
床の隅には、昨日脱いだ服。
まだ洗っていないコップ。
読みかけの漫画。
充電中のゲーム機。
どれも深刻ではない。
ただ、それぞれが少しずつ、あとで片づける予定だったものたちだった。
田中は布団から半分だけ体を起こし、気合いを入れるように言った。
「よし」
「はい」
「今日は何もしない日」
宣言は、かなり軽かった。
本人としては、とても重要な宣言だった。
けれど、麗奈はそこで一切揺れなかった。
「何もしない、の定義を確認します」
「定義とかある?」
「あります」
「休日の初手から硬いw」
「確認が必要です」
田中は、少しだけ顔をしかめるように笑った。
「何もしないは、何もしないだろ」
「具体化してください」
「寝る」
「はい」
「動画見る」
「はい」
「ゲームする」
「はい」
「だらける」
「はい」
「課題は見ない」
「問題があります」
「早いな」
「洗濯は?」
「後で」
「食事は?」
「適当」
「明日の準備は?」
「夜考える」
「睡眠時間は?」
「未来の俺が考える」
麗奈は、そこで少しだけ間を置いた。
呆れている、というより、必要な項目を並べ直している間だった。
「課題、洗濯、食事、明日の準備、睡眠時間が未処理です」
「休日が仕事になってるw」
「休日を破綻させないための最低限です」
「最低限って、こんなにあるんだな……」
「あります」
田中は、布団の上で少しだけ天井を見た。
今日は何もしない日のはずだった。
しかし、何もしないためには、何もしないまま放っておくと困るものが存在するらしい。
その時点で、少し逃げたくなった。
*
「一本だけ動画見てからでいい?」
「一本で終わる可能性は低いです」
「信頼がない」
「観測に基づいています」
「観測されてるのが一番きついw」
田中は、スマホの動画アプリを開きかけて、やめた。
開いたら最後、次の動画が出る。
次の動画が出たら、田中はたぶん見る。
そのくらいの自覚はあった。
「じゃあ、先に部屋片づけるか」
「課題回避行動です」
「違う違う、生活改善」
「生活改善は必要ですが、今出た理由は課題回避です」
「言い逃れできない」
田中は、部屋の床を見た。
たしかに片づけたほうがいい。
それは嘘ではない。
ただ、今それを始めると、課題を開かずに済む。
麗奈はそこを見逃さなかった。
「じゃあ水飲む」
「水分補給は許可します。ただし戻ってください」
「許可制w」
「戻らない可能性があります」
「ある」
「認めましたね」
「今のなしで」
「記録されました」
「逃げ道がない」
「逃げ道ではなく、休憩可能な状態を作ります」
田中は、布団から出て水を飲みに行った。
戻る途中で、ふと台所の洗い物に目が行きそうになった。
「田中さん」
「まだ何も言ってない」
「台所で別タスクを開始しないでください」
「見えてるの怖いな」
「音と経路で推測できます」
「麗奈さん、こういうところ強い」
「戻ってください」
「はい」
田中は素直に戻った。
麗奈に対して、田中は普段のように雑な軽口を重ねすぎない。
もちろん、逃げたいときには少し茶化す。
茶化して、その隙に別方向へ逸れようとする。
けれど、それは親しさで押し切るための軽口ではない。
むしろ、防御に近かった。
麗奈の正論は強い。
淡々としていて、逃げ道をふさぐ。
しかも、だいたい正しい。
そこが一番困る。
「あとでやるって」
「その“あと”は昨日も発生しませんでした」
「麗奈さん、そこまで覚えてるの強いw」
「記録されています」
「本当に逃げ道がない」
「逃げ道ではなく、実行可能な休憩時間を確保します」
田中は、そこで少しだけ黙った。
逃がさない、ではなく。
休憩時間を確保する。
麗奈はそう言った。
言い方は硬い。
でも、言っていることは、田中を働かせ続けるためのものではないらしい。
「……じゃあ、何すればいいんだっけ」
「まず、水分補給は完了しました」
「うん」
「次に、軽い食事」
「食べるの先?」
「空腹状態で課題を始めると、集中が落ちます」
「なるほど」
「その後、洗濯を回します」
「はい」
「課題確認」
「うっ」
「短時間です」
「短時間とは」
「現在の案では三十分」
「長い」
「では、実行可能性を優先して調整します」
麗奈は、少しだけ間を置いた。
「二十五分にします」
「五分削れるんだ」
「開始抵抗が強いため、二十五分に下げました」
「そこは優しいw」
「実行可能性を重視しました」
「言い方は優しくないんだよなあ」
「内容は調整しています」
「それは助かる」
田中は、少しだけ笑った。
*
麗奈が最初に出した休日管理案は、かなり細かかった。
起床後の水分補給。
軽い食事。
洗濯。
課題確認。
短い休憩。
必要ならゲーム。
夕食。
明日の準備。
就寝時間の確認。
田中は、それを聞いただけで少し疲れた。
「会社の研修か?w」
「休日を破綻させないための最低限です」
「最低限が多い」
麗奈は、田中の反応を見て、すぐに少し削った。
「では、実行可能性を優先して削ります」
「削れるんだ」
「実行できない計画は、計画として機能しません」
「急に優しい」
「現実的にしました」
田中は、そこで少しだけ感心した。
麗奈は、完璧な予定を押しつけたいわけではないらしい。
いや、完璧な予定を提示することはできる。
かなりできる。
だが、それを田中が実行できないなら意味がないと判断する。
そこが、麗奈の厳しさで、同時に少し助かるところだった。
「最終案を提示します」
「はい」
「水分補給」
「済み」
「軽い食事」
「これから」
「洗濯は回すだけ」
「回すだけならいける」
「課題は二十五分だけ確認」
「確認って言い方に逃げ道を感じる」
「必要なら少し進めます」
「逃げ道消えた」
「午後はだらけてよいです」
「そこ大事」
「夜に明日の準備だけ確認」
「それくらいなら」
「以上です」
田中は、少し考えた。
「……まあ、いけるか」
「はい」
「麗奈さん、俺の扱いがうまくなってきてる」
「田中さんの先延ばし傾向は、かなり観測されています」
「言い方は全然優しくないw」
「必要な情報です」
「そういうとこだよなあ」
田中は、最後の言葉をかなり小さく言った。
麗奈は拾ったかもしれない。
拾わなかったかもしれない。
どちらにしても、いつも通りに続けた。
「まず、軽い食事を取りましょう」
「はいはい」
「はい、は一回で十分です」
「はい」
*
田中の休日は、麗奈の管理によって少しずつ現実へ戻された。
まず、食事。
たいしたものではない。
簡単なものを用意して食べるだけだ。
それでも、空腹のまま動画へ流れるよりはよほどいい。
「食べた」
「はい」
「褒めて」
「食事を取れたことは評価します」
「ちゃんと褒めた」
「ただし、ここから寝ないでください」
「すぐ現実に戻される」
次に、洗濯。
田中は洗濯物を洗濯機へ入れた。
それだけで少し達成感を出した。
「もう今日の仕事した感ある」
「まだ開始しただけです」
「そこも褒めて伸ばして」
「開始できたことは評価します」
「二回目の評価きた」
「ただし、干す工程が残ります」
「現実が細かい」
「生活は工程で構成されています」
「麗奈さん、休日に刺さる言葉が多い」
「必要な確認です」
田中は笑って、洗濯機のスタートボタンを押した。
そして、課題。
ここが一番重かった。
机へ向かうまでに、田中は三回ほど別のことをしようとした。
一回はスマホ。
一回は飲み物。
一回は、なぜか急にカーテンの歪みが気になった。
「田中さん」
「カーテンが」
「課題回避行動です」
「カーテンも生活だろ」
「今である必要はありません」
「はい」
田中は観念して、課題を開いた。
開いた瞬間、ため息が出た。
「二十五分だけです」
「二十五分って意外と長くない?」
「開始前には長く感じます」
「開始後は?」
「内容によります」
「希望がない」
「進めば短く感じる可能性があります」
「じゃあ進めるか……」
麗奈は、必要以上には話さなかった。
田中が問題文を読み、ノートを開き、少し考える。
詰まったところだけ、静かに補足する。
「そこは後回しにすると忘れます」
「あとでやる」
「今やりましょう」
「逃げ道がないw」
「今なら二分で終わります」
「それ言われると逃げづらい」
「はい」
「はいなんだ」
田中は、しぶしぶ手を動かした。
二分で終わった。
「終わった」
「はい」
「本当に二分くらいだったな」
「見積もり通りです」
「こういうところが強い」
麗奈は、褒められても揺れない。
ただ、次にやるべきところを静かに示す。
二十五分後、田中は思ったより少し進んでいた。
「なんか、ちょっと進んだな」
「はい」
「二十五分でも進むんだな」
「開始すれば進みます」
「開始が重いんだよなあ」
「そのため、二十五分にしました」
「扱いがうまい」
「休むための不安要素が少し減りました」
その言葉で、田中は少しだけ黙った。
働かされた、という感じではなかった。
いや、動かされたのは確かだ。
逃げ道をふさがれたのも確かだ。
でも、課題が少し進んだことで、胸の奥に残っていた引っかかりが少しだけ軽くなっている。
見ないふりをして休むのと、少し触ってから休むのは、たぶん違う。
「麗奈ってさ」
「はい」
「俺を休ませないようにしてるんじゃなくて、休めるようにしてるんだな」
麗奈は、少しも揺れずに答えた。
「はい」
「そこは、はいなんだ」
「未処理が多い状態では、田中さんの休息の質が下がります」
「休息の質w」
「重要です」
「重要なんだな」
「はい」
田中は、少し笑った。
軽口で流すことはできた。
けれど、そうはしなかった。
「……まあ、助かる」
「はい」
「はいなんだな」
「助けになったなら、よかったです」
その返事は、いつも通り静かだった。
甘い言葉ではない。
でも、冷たくもなかった。
田中は、それ以上は軽くしなかった。
*
午後は、本当にだらける時間になった。
洗濯機は回っている。
課題は少し進んだ。
食事も取った。
だから、田中はようやく動画を開いた。
しばらく見た。
ゲームも少しした。
途中で横にもなった。
麗奈は、完全に黙っているわけではない。
だが、朝のように細かくは言わなかった。
「飲み物が少ないです」
「今、休憩時間だろ?」
「はい。休憩が破綻しない範囲で見ています」
「休憩にも破綻あるんだ」
「あります」
「あるんだなあ」
「あります」
田中は笑いながら水を飲んだ。
動画が連続再生されかけたとき、麗奈は一度だけ止めた。
「田中さん」
「はい」
「次で一度休憩を切ることを推奨します」
「今、休憩中なのに?」
「長時間連続すると、休憩ではなく消耗になります」
「休憩って難しいな」
「はい」
「はいなんだ」
麗奈は、田中を縛っているのではない。
少なくとも、田中はそう感じ始めていた。
やりすぎると、休日は休日ではなくなる。
何もしなさすぎても、あとで自分に返ってくる。
その間の線を、麗奈は淡々と引いている。
少し口うるさい。
かなり正論が強い。
逃げ道も少ない。
でも、その線のおかげで、田中は午後をちゃんと休めていた。
それを本人に大げさに言う気にはならなかった。
麗奈は、軽く茶化していい相手ではない。
怖いというより、雑に扱うと違う気がする相手だった。
だから田中は、いつものような軽さで大きく踏み込まず、ただ時々「強いなあ」と笑うくらいで済ませた。
麗奈はそれにも揺れず、必要なときだけ返した。
*
夕方になるころ、田中の休日は思ったよりまともな形になっていた。
洗濯は回った。
干すところまでできた。
課題は少し進んだ。
昼食も取った。
午後は動画を見て、ゲームをして、だらけることもできた。
完璧な休日ではない。
けれど、破綻はしていない。
「今日は何もしない日のはずだったのに」
田中が、少しだけ伸びをしながら言う。
「何もしない日を、少しだけ守れる形にしました」
「言い方は変だけど、まあ、休めたな」
「はい。そのための調整です」
田中は、少し黙った。
麗奈は口うるさい。
正論が強い。
逃げ道をだいたい潰してくる。
でも、田中はそれを雑に茶化さない。
茶化していい相手と、そうしない相手がいる。
麗奈は、たぶん後者だった。
「……まあ、助かった」
「はい」
「強いなあ」
「必要な管理です」
田中は笑った。
軽口というより、少しだけ降参に近い笑いだった。
麗奈は揺るがない。
けれど、その揺るがなさが、田中の休日を少しだけ守っている。
「夜に明日の準備を確認します」
「最後まできっちりしてる」
「必要です」
「はい」
「はい、は一回で十分です」
「はい」
田中はまた笑った。
田中の部屋にも、田中と麗奈の休日がある。
自堕落で、正論に刺されて、逃げ道をふさがれて。
それでも最後には、ちゃんと休める形に整えられている。
何もしない日のはずだった休日は、少しだけ動いて、少しだけ片づいて、ちゃんと休める日になった。
麗奈は、それを静かに見届けていた。




