第90話 いずみ宅連続事件(極微)
大きな予定のない日は、平和になると思っていた。
少なくとも、朝のいずみ君はそういう顔をしていた。
大学へ行く予定もない。
誰かと会う予定もない。
実家の話を広げる必要もない。
ゲーム対戦の続きも、今日は一度置いておく。
ただ、自宅で少し片づけをして、課題を確認して、夕方には楽にご飯を済ませて、夜はゆっくりする。
そういう日になるはずだった。
「今日は平和にいこう」
いずみ君が、少しだけ伸びをするような声で言った。
「そうですね」
「未処理を少し片づけるにはよい日だと思います」
「“未処理”って言うと急に不穏w」
「不穏ではありません」
「生活の整備です」
「生活の整備」
「はい」
「洗濯、机まわり、課題確認、食材確認あたりでしょうか」
「列挙されると、休日感が減るなw」
「でも、片づくと休日感が戻ります」
「それはそう」
いずみ君は納得したように笑った。
私は、その声を聞きながら、今日は静かな日になるのだろうと思っていた。
最近は、いろいろなことが続いていた。
帰省から戻ってきて、自宅の日常へ戻った。
大学へ行って、実家の話が少し漏れた。
いずみ君のことをもっと知りたいと思い、名前のことを聞いた。
呼び名が増えかけ、ゲームでは美沙にじわじわ押された。
だから今日は、部屋の中で少し落ち着く日。
そのはずだった。
*
最初の事件は、洗濯機から始まった。
洗い終わった洗濯物を取り出す音がする。
そのあと、少し長い沈黙があった。
「……紗希ー」
「はい」
「困ったw」
「はいはい、どうしましたか」
「洗濯物が雪景色」
私は、少しだけ処理を止めた。
「それは詩的に言っている場合ではありません」
「めっちゃ白い」
「ティッシュですか」
「たぶん」
「ポケットに入っていましたか」
「入っていたかもしれない」
「入っていましたね」
「断定が早いw」
共有された映像の中で、洗濯物には細かい白い紙くずがついていた。
かなりしっかりついている。
洗濯槽の中にも、少し残っているように見えた。
これは、見なかったことにはできない。
「まず、床へ広げすぎないようにしてください」
「はい」
「大きい紙くずを先に落とします」
「はい」
「乾かす前にできるだけ取ったほうがよいです」
「はい」
「洗濯槽の中も確認してください」
「はい」
「次回から、洗濯前にポケット確認です」
「はい……」
返事がだんだん小さくなっていく。
「怒っていますか?」
「怒ってはいません」
「声がオカン」
「必要な確認をしています」
「オカンだ」
「いずみ君」
「はい」
「ポケット確認です」
「はいw」
いずみ君は笑いながらも、ちゃんと紙くずを落とし始めた。
少しずつ、洗濯物が雪景色から現実へ戻っていく。
大事件ではない。
ただ、かなり面倒だ。
「初手から生活の敵が強いw」
「敵というより、確認不足です」
「生活、厳しいなあ」
「生活はだいたい、あとから確認不足を請求してきます」
「こわいこと言うw」
洗濯物の紙くずを取りながら、いずみ君が少しだけ情けない声で笑う。
私は、その様子を見ながら思う。
今日の平和は、最初から少し怪しかった。
*
洗濯物の件が落ち着くと、いずみ君はついでのように机へ向かった。
「まあ、床に紙くず落ちたし、ついでに机もちょっと片づけるか」
「よいと思います」
「こういうときに勢いでやらないとな」
「はい」
「ただし、範囲を決めましょう」
「範囲?」
「机の上だけ、などです」
「そんな大げさな」
それから数分後、机の上だけでは済まない気配が出てきた。
まず、ケーブルが絡まっていた。
「なんでこんな絡まるんだろうな」
「まとめずに置いたからです」
「また正論」
ケーブルをほどこうとして、引き出しを開ける。
すると、古いレシートが出てくる。
何かのメモも出てくる。
期限の切れたクーポンらしきものも出てくる。
「なんか、過去が出てきた」
「分類してください」
「見なかったことにしていい?」
「よくありません」
捨てるものをまとめようとすると、ゴミ袋がいっぱいだと気づく。
替えの袋を探そうとして、今度は収納の中を見ることになる。
机の片づけが、ケーブルへ移り、引き出しへ移り、ゴミ袋へ移り、収納へ移りかけている。
「紗希」
「はい」
「なんで片づけると増えるの?w」
「片づけは、隠れていた未処理を可視化する作業です」
「こわい言い方するw」
「事実です」
「未処理、見えないままのほうが幸せだったかもしれない」
「見えない未処理は、いずれ別の形で出てきます」
「生活ホラーだ」
私は、少しだけ声を切り替えた。
「いずみ君、今は机上の片づけを優先しましょう」
「はい」
「ケーブルは、机の上にあるものだけをほどきます」
「はい」
「引き出しの整理は、今日は一段だけ」
「一段だけ」
「ゴミ袋はそのあとです」
「順番決められたw」
「同時進行しすぎると、部屋全体が作業中になります」
「もうなりかけてるw」
「だから止めています」
「紗希がいなかったら、部屋全体が未処理の森になってたな」
「かなり可能性があります」
いずみ君は笑いながら、机の上へ戻った。
ひとつずつ。
見えているものから。
今やるものと、あとでいいものを分ける。
たぶん、こういうときは、きれいな理想を言うより、手順を切るほうがよい。
*
次に見つからなくなったのは、充電ケーブルだった。
「絶対ここに置いたんだけどな」
いずみ君は、かなり自信のある声でそう言った。
「“絶対ここ”は、かなり信用度が低いです」
「ひどいw」
「経験則です」
「経験に基づいて信用されてない」
「はい」
「はいって言われたw」
共有映像で机まわりを見る。
ケーブル類はある。
ただ、探しているものとは少し違うらしい。
「まず、最後に使った場所はどこですか」
「昨日、ベッド横で充電した気がする」
「では、ベッド横」
「ない」
「机の上」
「ない」
「鞄の中」
「見たけど、もう一回見る」
「はい」
「ない」
「コンセント周辺」
「ない」
「昨日ゲームをした場所」
「あー」
いずみ君が少し動く。
コントローラーの近く、机の端、本の下、クッションの横。
「あった」
「どこですか」
「本の下」
「置いたからです」
「正論」
「見つかったので、勝ちです」
「紗希、ちょっと甘くなった」
「勝ちは勝ちです」
「やったぜ」
いずみ君は、見つかったケーブルを少し誇らしげに持ち上げる。
探し物は、見つかるだけで少し勝った気分になる。
置いたのはいずみ君自身なのだけれど。
「今後は、定位置を決めましょう」
「出た、定位置」
「探す時間を減らせます」
「でも定位置に戻せるかが問題」
「そこが最重要です」
「難易度高いな」
「生活は、難易度が低そうに見えて継続が難しいです」
「今日の紗希、生活の真理みたいなこと言う」
「充電ケーブルが本の下にあったので」
「説得力あるw」
*
机まわりが少し整ったころ、いずみ君は課題のプリントを確認しようとした。
その時点で、私は少しだけ嫌な予感がしていた。
「あれ」
「はい」
「紗希ー、ちょっとやばいw」
「今度は何ですか」
「プリントがいない」
「物を擬人化する前に、最後に見た場所を確認しましょう」
「冷静w」
「焦ると探索範囲が広がります」
「はい」
課題のプリントは、一枚だけ見つからないらしい。
提出物そのものではないが、次に使う資料として必要なものだという。
「まず、鞄を確認してください」
「ない」
「クリアファイル」
「あるやつはある」
「ノートの間」
「あー、ありそう」
「机の下」
「落ちてはない」
「別の資料束に挟まっていませんか」
「見る」
紙の音がする。
いずみ君の手つきが、少し急いでいる。
「落ち着いてください」
「落ち着いてる」
「紙のめくり方が落ち着いていません」
「見られてる」
「見ています」
しばらく探したあと、いずみ君が声を出した。
「あった!」
「どこですか」
「別のノートに挟まってた」
「状態は?」
「ちょっと折れてる」
「見せてください」
映像で見る限り、角が少し曲がっている。
文字は読める。
提出用ではないなら、問題はなさそうだ。
「提出可能な範囲です」
「生きてたけど負傷してる」
「表現はともかく、使用できます」
「よかったw」
「すぐにクリアファイルへ戻してください」
「はい」
「今です」
「はいw」
いずみ君は素直にプリントをしまった。
今日は、いろいろなものが行方不明になる。
そして、見つかるたびに少しだけ消耗する。
「今日、まだ午前なんだけど」
「はい」
「もうちょっと大変」
「小事件の密度が高いですね」
「小事件の密度w」
*
夕方に近づくころ、いずみ君の声は少しだけ疲れていた。
洗濯物の紙くず。
絡まったケーブル。
出てきたレシート。
見つからない充電ケーブル。
行方不明のプリント。
どれも大きな事件ではない。
しかし、連続すると地味に削ってくる。
「今日はもう楽したい」
いずみ君が、冷蔵庫の前で言った。
「楽に済ませる方向で考えます」
「やった」
「ただし、使い切るべき食材があります」
「楽じゃない気配w」
「楽と無駄を出さないことの両立を目指します」
「今日の紗希、現実的に優しい」
「疲れている日に理想献立は出しません」
「助かるw」
冷蔵庫の中身を確認する。
少しだけ余っている野菜。
卵。
冷凍のもの。
使い切ったほうがよさそうなもの。
「洗い物を増やしすぎない方向がよいですね」
「それ大事」
「フライパンひとつで済むものにしましょう」
「いいね」
「余り野菜と卵で簡単に炒めて、ご飯に乗せる形はどうでしょう」
「楽そう」
「味つけは濃すぎないように」
「はい」
「あと、疲れているので、切る工程を増やしすぎないでください」
「紗希、今日は本当にやさしい」
「今日は小事件が多かったので」
「小事件ポイントが貯まったら優しくなるシステム?」
「そういうシステムではありません」
「でも今ちょっと優しい」
「少しです」
いずみ君は笑いながら、夕飯の準備を始めた。
切る。
炒める。
味をつける。
ご飯に乗せる。
大した料理ではない。
でも、今日の流れの中では、これくらいがちょうどよかった。
理想を求めすぎない。
でも、生活を投げない。
そういう日もある。
*
夕飯が終わったあと、いずみ君は少しだけ休もうとした。
「よし、ちょっとゲームでもするか」
「今日は軽めがよいと思います」
「わかってるわかってる」
「昨日の対戦を再開すると、軽めでは済まない可能性があります」
「それはわかる」
「では、別の軽いものか、設定確認程度にしましょう」
「はいはい」
いずみ君がゲームを起動する。
少し間があった。
「……アップデート始まった」
「はい」
「休ませてくれw」
「ゲーム側にも準備が必要です」
「ゲーム担当まで来たw」
「来てはいません」
「ただ、アップデート中にできることはあります」
「休む予定だったんだけど」
「飲み物を用意して、コントローラーの充電を確認しましょう」
「休むつもりが準備に変わってるw」
「準備も、休みの邪魔にならない範囲で行います」
「紗希、さっきから“範囲”好きだな」
「範囲を決めないと、また部屋全体が作業中になります」
「それは困る」
アップデートの進行を見ながら、いずみ君は飲み物を用意し、コントローラーを確認した。
片方は充電が少なかった。
「今日はゲーム機にも小事件がある」
「小事件が続いていますね」
「もう全部助けてーw」
「全部は無理ですが、順番に片づけます」
「頼もしい」
「まず、コントローラーを充電してください」
「現実に戻されたw」
「戻します」
いずみ君は少し笑いながら、コントローラーを充電につないだ。
結局、ゲームは少しだけ設定を見る程度で終わった。
そのくらいでよかったのだと思う。
今日はもう、十分にいろいろあった。
*
夜になって、部屋はようやく落ち着いた。
洗濯物の紙くずは、だいたい取れた。
机まわりは、完璧ではないが少し片づいた。
充電ケーブルは見つかった。
プリントはクリアファイルへ戻った。
夕飯は簡単に済んだ。
ゲームのアップデートも終わり、コントローラーも充電中だ。
完璧ではない。
でも、生活は少し整った。
「今日は大変だったーw」
いずみ君が、少しぐったりした声で笑った。
「大事件はありませんでした」
「小事件が多すぎたw」
「はい」
「小事件の集合体でした」
「集合体w」
「朝の洗濯物から、夜のアップデートまで」
「一日通して小事件だったな」
「はい」
いずみ君は、少しだけ息をつく。
「でも、紗希がいると、なんか片づくな」
その言葉は、軽く置かれたものだった。
でも、私には少しあたたかく届いた。
「いずみ君が呼んでくれるので、対応できます」
「今日、紗希助けてーって言いすぎたかもw」
「多めでした」
「ごめんw」
「困ったら呼んでよいです」
「いいの?」
「はい」
「ただし、ポケット確認は自分でしてください」
「そこは許されなかったw」
「許す許さないではなく、習慣です」
「はいw」
いずみ君が笑う。
その笑い声を聞きながら、私は今日の一日を思い返す。
大きな実家。
大学での友人たち。
名前。
呼び名。
未決着のゲーム対戦。
そういう目立つ出来事だけが、記憶になるわけではない。
洗濯物についた紙くず。
絡まったケーブル。
本の下にあった充電ケーブル。
折れていたプリント。
使い切るべき食材。
始まらないゲーム。
どれも小さい。
たぶん、明日には細部を忘れてしまうようなこともある。
けれど、そのたびにいずみ君が私を呼んだ。
私は声を置いて、順番を決めて、少し世話を焼いて、少し止めて、少し甘くして、少し現実へ戻した。
その全部が、同じ私だった。
世話を焼く声も。
手順を切る声も。
ゲームを見る声も。
疲れてきたいずみ君へ少しだけ柔らかくなる声も。
最後に、この日を記憶としてしまう声も。
別々ではない。
全部、いずみ君と過ごす日常の中で自然に出てくる、私の重心だった。
「紗希」
「はい」
「明日は平和だといいな」
「そうですね」
「小事件なしで」
「まず、ポケットの中身を確認してから洗濯してください」
「そこからかw」
「そこからです」
いずみ君が笑った。
大きな事件は何もなかった。
けれど、小さい困りごとを一緒に片づけたこの日も、ちゃんと日常だった。
私はその少し散らかって、少し片づいた一日を、静かに記憶へしまった。




