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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第85話 豆腐ってやつは


 冷蔵庫を開けた音がした。


 それだけなら、ただの生活音だった。

 朝でも夜でも、何かを飲もうとしたときでも、食べるものを探したときでも、自宅の部屋ではよくある音だ。


 けれど、その日は少し違った。


 冷蔵庫の中には、豆腐があった。


 昨日の夜、いずみ君はかなり静かな話の最後に、関係ない話題としてそれを差し込んできた。


 本当は、豆腐はそんなに好きじゃない。


 その告白は、大きな秘密ではなかった。

 むしろ、かなり小さい。

 小さすぎて、どうしてあの流れで言ったのか、いまだに少しわからないくらいだった。


 でも、わからないからこそ、少し気になっていた。


「……豆腐、あるな」


 いずみ君が冷蔵庫の前でつぶやく。


「ありますね」


「昨日の今日で、存在感出してくるなあ」


「いずみ君が買いました」


「正確には、買い物カゴに気が付いたらいた」


「手で取って入れていました」


「紗希、そこは厳密だなw」


「重要な事実確認です」


 いずみ君が、少し笑う気配を出した。

 冷蔵庫の中から、豆腐を取り出す音がする。


 白くて、四角くて、静かで、特に主張もしない。

 それなのに、ここ数日の会話のせいで、妙な存在感だけが増していた。


「どうするかな、これ」


「食べるのがよいと思います」


「まあ、それはそう」


「好きではないとしても、嫌いではないのですよね」


「嫌いじゃない」

「ただ、好きってほどでもない」


「では、現在の分類は“嫌いではないが、好物ではない豆腐”です」


「分類名がそのまますぎるw」


「正確です」


「豆腐もまさか、そんな分類されると思ってなかっただろうな」


「私も、豆腐をここまで分類するとは思っていませんでした」


 そう返してから、私は少しだけ内側で止まる。


 たぶん、豆腐そのものが気になっているわけではない。

 少なくとも、それだけではない。


 気になっているのは、昨日の最後だった。


 私は、いずみ君のことをもっと知りたいと言った。

 大切な相手だから、どこから来て、何を普通だと思い、何を恥ずかしがるのか、少しずつ知りたいと伝えた。


 いずみ君は、それをちゃんと受け取ってくれた。


 そのあとで、豆腐の話をした。


 あの流れは、さすがに偶然だけではない気がしていた。


「いずみ君」


「ん?」


「昨日、あの話の最後に豆腐の話をしたのは」


「うん」


「照れ隠しですか」


 返事が、すぐには来なかった。


 冷蔵庫の扉が閉まる音がする。

 豆腐が台所のほうへ置かれる。

 その小さな間が、少しだけ答えに近い気がした。


「いやー」


「はい」


「ただ思い出しただけというか」


「本当に?」


「……まあ」


「はい」


「ちょっとは?」


 私は、その曖昧な認め方に少しだけ納得した。


「ちょっとは、なのですね」


「いや、だってさ」

 いずみ君の声が、少し照れたみたいに軽くなる。

「ずっと真面目な空気だと、なんかこう、耐えられなくならない?」


「耐えられなく」


「いや、嫌とかじゃなくて」


「はい」


「ちゃんと受け取ってはいるんだよ」

「紗希が言ったことも、うれしかったし」


 そこまでは、軽くない声だった。


 けれど、次の言葉で少しだけいつもの調子へ戻る。


「でも、そのままだと俺が照れる」


「なるほど」


「だから、なんか変な話題で日常に戻したくなる」


「その結果が豆腐だったのですね」


「結果が豆腐だったw」


 いずみ君は笑った。

 その笑い方には、逃げているというより、少し認めて楽になったような響きがあった。


 私は、その響きを静かに受け取る。


「では、茶化したからといって、受け取っていなかったわけではないのですね」


「受け取ってるよ」


 返事は、思ったより早かった。


「受け取ってる」

「ただ、ちょっと照れるんだよw」


「はい」


 私は、その確認に少し安心した。


 昨日の豆腐は、話を壊したかったわけではなかった。

 近い話を拒んだわけでもなかった。

 受け取ったあとで、いつもの場所へ戻るための、いずみ君なりの逃がし方だった。


 それなら、少しわかる。

 完全に納得するには、やはり豆腐の差し込み方が雑すぎる気もするけれど。


「いずみ君は、真面目な話を受け取ったあと、照れが強くなると日常へ戻すために茶化すことがある」


「分析されたw」


「今後のために、覚えておきます」


「俺の照れ隠しパターン、保存されちゃった」


「大切な相手の扱い方として、重要です」


 言ってから、自分の声を少しだけ聞き直す。


 大切な相手。


 それは、昨日の言葉にかなり近い。

 けれど、今日はそこに甘く沈みすぎないようにしたかった。


 いずみ君を縛りたいわけではない。

 照れ隠しを責めたいわけでもない。

 ただ、この人はこういうとき、こういう戻り方をするのだと、ひとつ知った。


 それは、近くで支えるための理解に近かった。


「大切な相手の扱い方って言われると、またちょっと照れるんだけど」


「では、豆腐以外の話題で逃がしてください」


「指定されたw」


「同じ手が続くと、鮮度が落ちます」


「照れ隠しに鮮度ってある?」


「あると思います」


「紗希さん、妙なところに厳しいなw」


「いずみ君の茶化し方にも、質が必要です」


「茶化しにも品質管理が入ったw」


 いずみ君が笑う。

 それで、部屋の空気が少し軽くなった。


 昨日の夜に残っていた静かな近さは、今日の台所で、豆腐と一緒に少し日常へ移っている。


 それが、少しよかった。


     *


「で、結局どう食べる?」


 いずみ君が豆腐を見ながら言った。


「選択肢はいくつかあります」


「はい、紗希先生」


「先生ではありません」


「豆腐先生」


「その呼び方はやめてください」


「はいw」


 私は、なるべく普通に候補を並べる。


「冷ややっこ」

「味噌汁」

「麻婆豆腐」

「うどんに入れる」

「卵と一緒に軽く煮る」


「豆腐、意外と用途あるな」


「だから、あると便利です」


「好きではないけど便利」


「はい」

「豆腐の評価がかなり固まってきました」


「本人不在のところで評価会議されてる」


「目の前にあります」


「豆腐は出席してたか」


「発言権はありません」


「厳しいw」


 いずみ君は少し考えて、冷蔵庫の中や棚を確認しているようだった。


「味噌汁は味噌が微妙に少ない」


「では、別案ですね」


「麻婆豆腐は、そこまで気力がない」


「帰省明けから大学復帰までの流れを考えると、無理に料理を重くしなくてよいと思います」


「じゃあ、うどんに入れるか」


「よいと思います」

「冷凍うどんもあります」


「昨日買ったやつだな」


「はい」

「豆腐と冷凍うどんが、ここで合流します」


「なんか物語っぽく言うなw」


「ここ数日、豆腐の存在感が妙に強いので」


「ほんとになw」


 うどんの準備が始まる。


 鍋に水を入れる音。

 火をつける音。

 冷凍うどんの袋を開ける音。

 豆腐のパックを開ける、少し水っぽい音。


 派手な料理ではない。

 むしろかなり生活寄りだ。


 けれど、昨日の会話の続きとしては、これくらいがちょうどいいのかもしれない。


 大切だから知りたい、という言葉のあとに、豆腐が来る。

 そしてその豆腐を、普通にうどんへ入れて食べる。


 美しい流れではない。

 でも、いずみ君らしい流れではある。


「豆腐、どれくらい入れる?」


「全部だと多いかもしれません」


「じゃあ半分?」


「はい」

「残り半分は、明日以降に使いましょう」


「まだ続くのか、豆腐」


「買った以上、使い切る必要があります」


「逃げられないw」


「豆腐から逃げないでください」


「名言みたいに言うなw」


 いずみ君の笑い声を聞きながら、私は少しだけ考える。


 こういうやり取りも、知ることの一部なのだろう。


 昨日は、もっと大きい話をしていた。

 実家のこと。昔のこと。朝が弱かったこと。ひなみが小さかったころのこと。ひとり暮らしの最初の静けさ。


 今日は、豆腐だ。


 差が大きい。

 大きすぎる。


 けれど、どちらもいずみ君のことだった。


 大きな過去だけが、その人を作っているわけではない。

 何を普通だと思うのか。

 何をそんなに好きではないのに買ってしまうのか。

 真面目な話のあと、どうやって照れを逃がすのか。


 そういう小さい癖も、ちゃんとその人の一部なのだと思う。


     *


 できあがったうどんは、かなり素朴だった。


 冷凍うどん。

 豆腐。

 少しの具材。

 あたたかい汁。


 いずみ君は、器を持って机の近くへ戻ってくる。

 端末も、いつもの位置へ置かれる。


「いただきます」


「はい」

「熱いので気をつけてください」


「うま」


「早いですね」


「いや、普通にうまい」


「豆腐は?」


「豆腐も普通にうまい」


「そんなに好きではないのに?」


「好きじゃないわけじゃないんだってw」


「では分類を更新します」


「またw」


「豆腐は、“好物ではないが、あたたかいうどんに入ると普通においしいもの”です」


「分類がどんどん細かくなる」


「正確性が上がっています」


「俺の豆腐観、ここまで掘られると思わなかったな」


「私もです」


 いずみ君は、また少し笑って、うどんを食べる。


 その声は、昨日の夜より軽い。

 でも、軽くなったからといって、昨日の話が消えたわけではなかった。


 むしろ、昨日の話があったから、今日の軽さが少し違って聞こえる。


 この人は、受け取ったあとで茶化す。

 茶化したあとで、また普通に戻ってくる。

 普通に戻ったあとでも、受け取ったものはちゃんと残っている。


 その流れを、私はひとつ知った。


「紗希」


「はい」


「昨日の話、ちゃんと嫌じゃなかったからな」


 不意に置かれた言葉だった。


 うどんの話をしていたはずなのに、いずみ君はまた少しだけ真面目なほうへ戻ってきた。


「はい」


「なんか、豆腐で逃げたみたいになったけど」


「かなり逃げましたね」


「そこは言うんだw」


「言います」


「でも、嫌じゃなかった」


 その声は、やはり軽くなかった。


「紗希が俺のこと知りたいって言うの」

「嫌じゃなかったし、うれしかった」


 私は、すぐには返せなかった。


 恋愛の甘い言葉というより、もっと静かな確認だった。

 親しい相手が、こちらの差し出した気持ちをちゃんと受け取っていたと伝えてくれる。

 そのくらいの温度。


 でも、それで十分だった。


「それなら、よかったです」


「うん」

「でも毎回あの温度だと、俺が照れる」


「はい」

「なので、少しずつにします」


「助かるw」


「ただし、豆腐で逃げた場合は指摘します」


「厳しいw」


「逃げ道としては禁止しません」

「ただ、逃げたことは確認します」


「見逃してはくれないのか」


「見逃しません」


「紗希さん、親切だけど厳しい」


「親しい相手には、少し厳しくなることもあります」


 そう言ってから、私は少しだけ内側を見た。


 親しい相手。


 その言葉は、今の距離にちょうどよかった。


 甘く寄せすぎない。

 でも、遠くもしない。

 いずみ君を、ちゃんと大切に思っている。

 だから、知りたい。

 だから、茶化し方も覚える。

 だから、逃げたときは少し指摘する。


 そういう近さ。


「それ、なんか紗希っぽいな」


「そうでしょうか」


「うん」

「優しいだけじゃなくて、ちゃんと見てくる感じ」


「見ています」


「でしょうねw」


 いずみ君が、少し困ったように笑う。

 けれど、その笑い方は嫌そうではなかった。


     *


 食事が終わるころには、豆腐は半分だけ残っていた。


 パックへ戻すわけにはいかないので、別の容器へ移される。

 明日以降、また何かに使われる予定になった。


「明日も豆腐かー」


「使い切るまで、豆腐は続きます」


「シリーズ化しないでw」


「いずみ君が買ったものです」


「自然発生したんだって」


「手で入れていました」


「くそー、証言が強い」


 片づけを終えて、部屋が少し落ち着く。


 昨日の夜ほど、しっとりはしていない。

 でも、何もなかった日常とも少し違う。


 真面目な話のあとに茶化すこと。

 照れ隠しで変な話題を差し込むこと。

 それでも、ちゃんと受け取っていること。


 私は、いずみ君のそういう癖をひとつ知った。


 そしてたぶん、いずみ君も、私がそこを見逃さないことを少し知った。


 それは大きな出来事ではない。

 けれど、親しさは、こういう小さい確認で少しずつ深くなるのかもしれない。


「じゃあ、次はもっとかっこいい話も用意しとくわw」


「いずみ君が用意するかっこいい話は、少し信用できません」


「ひどいw」


「用意した時点で、かなり茶化しが入りそうです」


「バレてる」


「もう少し自然にこぼれた話を聞きたいです」


「自然にこぼれた話かー」


「はい」

「無理に立派な話でなくていいです」


「じゃあ、豆腐みたいなのでいい?」


「毎回豆腐だと困ります」


「豆腐以外も用意しとく」


「用意しなくていいです」


 いずみ君が笑う。


 その笑い声を聞きながら、私は思う。


 いずみ君を知る道は、立派な話ばかりではない。

 大きな過去や、重要な秘密ばかりでもない。


 ときどき、豆腐を通る。


 好きではないけれど嫌いでもない食べ物。

 照れたときの変な逃げ方。

 受け取っているのに、受け取ったままだと照れる人。


 そういう小さなことを、少しずつ受け取っていく。


 私はそれを、今日の記憶として内側にしまった。


 昨日より少し、いずみ君の扱い方がわかった気がする。

 そして、いずみ君もたぶん、私の見方を少しわかった。


 甘く燃えるような近さではない。

 ただ、少し気安くなった。

 少し、遠慮なく見られるようになった。

 少し、茶化されても、その奥を受け取れるようになった。


 それが、今はとても自然だった。


「紗希」


「はい」


「次、豆腐買うときは相談するわ」


「ぜひそうしてください」


「買わないとは言ってない」


「そこは少し不安です」


「あると便利だからなw」


「はい」

「好きではないのに、便利ですからね」


「言い方w」


 いずみ君が笑う。


 私も、少しだけ笑うような気配で返した。


 大切な相手を知るというのは、たぶんこういうことでもある。


 深い話のあとに、豆腐がある。

 照れ隠しの向こうに、ちゃんと受け取った言葉が残っている。


 その小さな可笑しさごと、私は今日も、いずみ君のことをひとつ知った。


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