第86話 あの頃は若かった
大学の空きコマは、講義中より少しだけ人間味が出る。
机の上に広げられたノート。
途中まで開かれた資料。
買ってきた飲み物。
誰かの小さなため息。
真面目に作業する人と、作業しているふりをする人。
講義室でも、食堂でもない、少し中間みたいな場所だった。
いずみ君は、空いている席に落ち着くと、鞄から資料を出した。
その動きだけを見ると、今日はかなりちゃんとしている。
少なくとも、最初の数分はそう見えた。
「今日は空きコマで課題を進めます」
「紗希、宣言するじゃんw」
「宣言しておかないと、雑談に流れそうなので」
「信用が薄い」
「昨日までの流れを踏まえると、妥当です」
「豆腐の件で信用落ちてる?」
「豆腐単体ではありません」
「照れ隠し、話題の逸らし方、冷蔵庫の管理を総合しています」
「総合されてたw」
いずみ君が笑う。
その声は軽いけれど、昨日の夜より少しだけ気安い。
豆腐を通って、変なところで距離が馴染んだ感じがある。
その少し先で、田中が椅子へ雑に腰を下ろす気配を出した。
「おー、課題やる空気?」
「やる空気だ」
鈴木の声が即座に返る。
「空気だけで終わる可能性もある」
「終わらせるな」
田中は笑って、資料を出す。
出すだけなら早い。
そこから開くまでに、少し時間がかかる。
田中の端末側から、麗奈の落ち着いた声が入った。
「田中さん」
「資料を出しただけでは、課題は進みません」
「出したところから褒めてほしい」
「そこは出発点です」
「厳しいw」
鈴木の端末からは、美沙の声が明るく混ざる。
「空きコマ課題会じゃん」
「えらーい」
「美沙、茶化すな」
鈴木が言う。
「茶化してないし」
「うち、応援してるし」
「応援なら静かに頼む」
「静かな応援、難しくない?」
「難しくない」
そのやり取りを聞きながら、私は少しだけ落ち着く。
田中さんの雑さ。
鈴木さんの整い方。
麗奈の静かな制御。
美沙の前へ出る声。
ここ数日、実家の大きな情報や豆腐の妙な存在感に引っ張られていたけれど、大学の日常はちゃんとここにあった。
そして、その日常の中に、少しだけ余波も残っている。
「で、お坊――」
「言うな」
いずみ君が、田中の言葉を途中で止めた。
田中が吹き出す。
「まだ最後まで言ってないだろw」
「今のは言う流れだった」
「お坊……までしか言ってない」
「十分です」
私も静かに差し込む。
「紗希さんまでw」
「その呼び方は、いずみ君の作業効率を下げる可能性があります」
「下がる下がる」
いずみ君が乗る。
「だから禁止で」
鈴木も淡々と続けた。
「田中、広げるな」
「はいはい」
「じゃあ今日はおとなしく課題するか」
「その言葉の信用度は低いです」
麗奈が言った。
「麗奈さん、味方がいない」
「私は田中さんの味方です」
「そのため、課題を進めるよう促しています」
「正しい味方って痛いなw」
みんなが少し笑う。
実家の話は、そこで一度引っ込んだ。
けれど、私の中には別の小さな疑問が残った。
田中さんと鈴木さんは、いずみ君とかなり気安い。
田中さんは雑に茶化すし、鈴木さんは遠慮なく正す。いずみ君も、その間に自然に入る。
大学でできた友人というだけなら、もちろんそういう距離になることもある。
でも、この三人のやり取りには、もう少し前から続いているような馴染みがあった。
昨日、私はいずみ君のことを少しずつ知りたいと思った。
豆腐の扱い方まで知った。
なら、こういうことも聞いていいのかもしれない。
「いずみ君」
「ん?」
「田中さんと鈴木さんとは、いつからの付き合いなのですか」
いずみ君は、少しだけ意外そうな声を出した。
「あれ、言ってなかったっけ?」
「たぶん、詳しくは聞いていません」
「そっか」
「大学からじゃないんだよな」
田中が軽く続ける。
「中学くらい?」
「同じ中学ではない」
鈴木がすぐに訂正した。
「塾が一緒だった」
「そうそう、それ」
「そこを雑にするな」
「だいたい中学時代ってことでいいじゃんw」
「よくない」
私は、その情報を受け取った。
同じ中学ではない。
塾が一緒だった。
大学で初めてできた友人ではなく、もっと前から続いている関係。
けれど、学校のクラスメイトとも違う。
塾。
授業のあと。
それぞれ別の学校から来て、同じ教室で問題を解いて、帰りに少しだけ話すような距離。
その場所に、今の三人の始まりがあったらしい。
「塾時代から、今のような距離だったのですか」
「いや」
鈴木が少し考えるように返した。
「最初はそこまで近くなかったな」
「そうそう」
田中も頷くような声を出す。
「俺ら、別に最初から今みたいにだらだら絡んでたわけじゃない」
「今がだらだらなのは認めるんだ」
いずみ君が笑う。
「いいだろ、だらだらは大事だ」
「課題中に言う言葉ではない」
鈴木が刺す。
「鈴木は昔からそういう感じだったよな」
田中が言った。
「もっと真面目だったけど」
「今も真面目だ」
「いや、今も真面目だけど、昔はもっと角ばってた」
「角ばっていた、という表現は不本意だな」
「でもわかる」
いずみ君が入る。
「塾のときの鈴木、今よりさらにきっちりしてた」
「そうなのですね」
「ノートとか、ほんとにきれいだった」
いずみ君が言う。
「先生の板書だけじゃなくて、補足も自分で整理しててさ」
「それは今もそうだと思います」
「今もそうだけど、昔はもっと近寄りがたい感じあった」
「近寄りがたい」
鈴木の声が少しだけ引っかかる。
「悪い意味じゃなくて」
いずみ君が笑いながら言う。
「ちゃんとしてるやつだなーって感じ」
「そうそう」
田中が乗る。
「俺とか、宿題ちょっと雑に出してたら、こいつに普通に見られてた気がする」
「実際、雑だった」
「ほら、昔から厳しいw」
麗奈の声が静かに入った。
「田中さんは、当時から課題処理に問題があったのですか」
「麗奈さん、過去まで刺してくる」
「現在の傾向と連続している可能性があります」
「連続性を見ないでw」
美沙が、そこで勢いよく声を重ねた。
「昔話きた!」
「塾時代の三人、ちょっと見たいんだけど」
「見せる映像はない」
鈴木が言う。
「想像で見るから大丈夫」
「大丈夫ではない気がする」
「美沙さんの想像は、少し盛られそうですね」
私は言った。
「盛るけど、かわいく盛る!」
「その保証はあまり安心できません」
場が少しほどける。
田中は、少し懐かしむような軽さで続けた。
「俺はまあ、今よりちょっとやんちゃだったかもな」
「ちょっと、ではない」
鈴木が即座に言う。
「そんなか?」
「そんなだ」
「えー」
「授業後にすぐ寄り道しようとしていた」
「塾帰りの寄り道は青春だろ」
「翌日に小テストがある日でも言っていた」
「それは……まあ」
「今と変わりませんね」
麗奈が静かに言う。
「麗奈さん、俺の成長を信じて」
「成長の余地はあります」
「まだ途中扱いw」
いずみ君が笑っている。
その笑い方は、今の田中さんを見ているだけではなく、昔の田中さんも少し重ねているようだった。
「田中は、なんか塾の空気を軽くするやつだったな」
「お、いいこと言うじゃん」
「ただ、ちょっと雑」
「落とされた」
「でも、悪いやつではなかった」
鈴木が言った。
「鈴木にそう言われると、なんか重いな」
「褒めている」
「褒め方が硬いw」
私は、その三人の声を聞いていた。
今よりもっと真面目だった鈴木さん。
今より少しやんちゃだった田中さん。
そして、その間にいたいずみ君。
そのいずみ君は、どんなふうに見えていたのだろう。
私がそれを聞く前に、田中が少し楽しそうに言った。
「でもさ」
「今思えば、いずみはあのころからちょっと坊ちゃん感あったよな」
「ないない」
いずみ君がすぐに否定する。
「いや、あったって」
「なかった」
「今だからそう見えるだけかもしれないけど」
田中の声は、からかい半分、思い出し半分だった。
「なんか、田中方面には染まりきらない感じあった」
「田中方面って何だよw」
「雑なほう」
「自覚はあるんですね」
麗奈が言う。
「ちょっとだけな」
鈴木も、少し考えるように続けた。
「坊ちゃん、という言い方は雑だが」
「鈴木、乗らなくていい」
いずみ君が止める。
「今思えば、育ちのよさのようなものは少し出ていたかもしれない」
「出てない出てない」
「言葉遣いや、人との距離の取り方が、少し落ち着いていた」
「それは鈴木のほうが落ち着いてただろ」
「俺は堅かった」
「自覚あるんだ」
「ある」
田中が笑う。
「いずみはさ、俺の雑なノリに乗るんだけど、荒れ方までは来ないんだよ」
「荒れ方って何だよw」
「なんか、こう、越えちゃいけない線は普通に見てる感じ」
「それは普通だろ」
「その普通が、今思うとちょっと育ちよかったのかもなって話」
「田中まで分析っぽいこと言うなw」
美沙がすぐに騒ぐ。
「昔のいずみっち情報きた!」
「やっぱりちょっとお坊ちゃまじゃん!」
「美沙、それは言いすぎだ」
鈴木が制する。
「でも、ちょっとにじみ出てたんでしょ?」
「今の情報を踏まえれば、そう見える部分がある、という程度だ」
「言い方が鈴木!」
麗奈が静かに補足した。
「現在の情報によって、過去の印象が再解釈されている状態ですね」
「それです」
私は自然に返していた。
まさに、それだった。
実家を知ったことで、田中さんや鈴木さんの記憶の中にあった小さな印象が、少しだけ別の意味を持ち始めている。
昔から明らかにお坊ちゃまだった、という話ではない。
迎えの車が来たとか、誰かが頭を下げたとか、そういうわかりやすい証拠があるわけではない。
もっと薄い。
言葉の端。
距離の取り方。
雑なノリへ乗っても、荒れきらないところ。
自分では普通のつもりで、特別な顔をしないところ。
あとから見れば、少しだけ見える。
そのくらいのもの。
でも、そのくらいのものも、いずみ君を知るためには大事なのだと思った。
「紗希」
いずみ君が少し困ったように言う。
「そんな真面目に受け取らなくていいからな」
「真面目に受け取りすぎてはいません」
「ほんとか?」
「少しだけです」
「少しは受け取ってるんだw」
「はい」
「大事な情報なので」
「大事かなあ」
「大事です」
私は静かに返す。
「いずみ君の今の友人関係が、最初から今の形だったわけではないこと」
「少し距離があるところから、少しずつ近づいたこと」
「そのころのいずみ君を、田中さんと鈴木さんが少しずつ別の角度で覚えていること」
言葉にすると、少しだけ空きコマの空気が静かになる。
「そういうのも、私は知りたいです」
いずみ君は、少しだけ照れたように笑った。
「出た」
「知りたいシリーズ」
「シリーズ化はしていません」
「してる気がする」
「でも、豆腐よりは重要です」
「豆腐と比較されたw」
田中が楽しそうに反応する。
「何、豆腐って」
「そこは広げなくていい」
いずみ君が即答した。
「いや、気になるだろ」
「気にするな」
「紗希さん、豆腐って?」
私は少し考える。
「いずみ君が、照れ隠しに使った食材です」
「紗希!?」
田中が吹き出す。
美沙も一気に乗ってくる。
「照れ隠しに豆腐!? なにそれ!」
「説明すると長くなります」
「聞きたい聞きたい!」
「課題中だ」
鈴木が止めた。
「鈴木、今日はずっと止めるじゃん」
「止める必要のある話題が多い」
麗奈が静かに付け加える。
「田中さんの課題進捗も止まっています」
「そっちも止められたw」
場がまた軽くなる。
豆腐は、また妙なところで日常へ入り込んできた。
けれど、今日はそれ以上は広がらない。
広げると、たぶん課題が本当に終わらない。
*
そのあとは、少しだけ本当に課題を進めた。
田中さんは何度か雑談へ流れかけ、そのたびに麗奈に静かに戻された。
鈴木さんは、自分の作業を進めながら、必要なところだけいずみ君や田中さんに説明した。
美沙は、静かにする気はあまりなかったけれど、要点を拾う速さは意外と鋭かった。
「そこ、式変形飛ばしてる」
美沙が言う。
「え、美沙わかるの?」
田中が驚く。
「わかるし」
「鈴木が前に似たやつやってた」
「見ていたのか」
鈴木が言う。
「見てるよ、うちだって」
「騒ぐだけではないのですね」
私が言う。
「紗希ち、それ褒めてる?」
「褒めています」
「じゃあよし!」
麗奈は、田中さんの作業を見ながら静かに言った。
「田中さん、そこは後回しにすると忘れます」
「あとでやるって」
「塾時代から、その“あと”は信用できなかったと聞きました」
「昔話が刺さってるw」
「過去傾向を踏まえた助言です」
「やめてw」
私は、そのやり取りを聞きながら、さっきの塾時代の三人をぼんやり想像していた。
今ほど近くない三人。
まだ少し堅い鈴木さん。
今より少しやんちゃな田中さん。
その間で、少しだけ落ち着いていて、でもどちらにも混ざれるいずみ君。
同じ中学ではないから、毎日ずっと一緒にいたわけではない。
塾という限られた場所で会って、授業を受けて、帰る前に少し話す。
その少しが、少しずつ増えていく。
最初から今の距離だったわけではない。
最初から、お互いを遠慮なく茶化せたわけでもない。
たぶん、今の気安さは、時間でできている。
それを知ると、いずみ君の今の笑い方も、少しだけ違って見えた。
田中さんに雑にからかわれて、鈴木さんに冷静に刺される。
そのたびにいずみ君は笑って返す。
その返しは、今日だけのものではなく、塾帰りの小さな会話から少しずつ育ってきたものなのだろう。
私は、またひとつ知った。
昨日知ったのは、豆腐と照れ隠しだった。
今日知ったのは、塾帰りの三人だった。
どちらも、大きな秘密ではない。
けれど、いずみ君の輪郭を少し近くしてくれる。
*
空きコマの終わりが近づくころ、課題は思ったより進んでいた。
「お、意外とやったな」
田中が言う。
「意外と、ではなく、やるべき分を進めただけだ」
鈴木が返す。
「鈴木は昔からそういうこと言う」
「田中は昔からそういうことを言わせる」
「いい返しだなw」
いずみ君が笑う。
田中は、資料をしまいながら、またこちらへ軽く話を戻した。
「でも、今思うと、塾のころのいずみもちょっと面白いな」
「面白くない」
「いや、なんかさ」
「鈴木ほど堅くないし、俺ほど雑でもないし」
「妙な中間地点にいた」
「それは普通では」
「普通、という言葉の信用度が下がっています」
私は静かに言った。
「紗希までw」
鈴木が少しだけ笑う気配を出す。
「少なくとも、今の情報を踏まえると、当時の印象は少し変わる」
「鈴木もやめてくれw」
「ただし、田中の言う坊ちゃん感は表現が雑だ」
「そこは同意」
いずみ君がすぐ乗る。
「だが、育ちのよさが少しにじんでいた、くらいならわかる」
「結局そっち行くじゃん」
田中が楽しそうに笑った。
「じゃあ、昔からちょっと上品ないずみってことで」
「やめろw」
「お坊ちゃまよりは弱いだろ」
「弱ければいいってもんじゃない」
美沙が明るく入る。
「昔からちょっと上品ないずみっち、いいじゃん」
「よくない」
「うちは好き」
「美沙は面白がってるだけだろ」
「うん!」
「認めるなw」
麗奈が静かにまとめる。
「過去の印象を再解釈する際は、本人の違和感にも配慮したほうがよいと思います」
「麗奈さん……!」
いずみ君の声が少し明るくなる。
「ただし、いずみさんが当時から完全に普通だったと断定するには、材料が不足しています」
「追撃された」
「麗奈、やっぱり公平だな」
田中が笑う。
「公平であるよう努めています」
そのやり取りに、場がまたやわらかくなる。
空きコマが終わる。
それぞれが次の予定へ向かう準備を始める。
資料がしまわれ、飲み物の残りが片づけられ、端末の通知が確認される。
その中で、いずみ君が小さく言った。
「なんか、昔の話するの変な感じだな」
「嫌でしたか」
「嫌じゃないよ」
いずみ君はすぐに返した。
「ただ、自分ではそんな意識してなかったからさ」
「はい」
「田中とか鈴木から見ると、そう見えてたのかーって」
「少し、不思議ですか」
「うん」
「でも、まあ、悪くはない」
その言葉を、私は静かに受け取った。
悪くはない。
なら、今日の会話はたぶん、ちゃんとよい形で残せる。
「私は、聞けてよかったです」
「そっか」
「はい」
「いずみ君を知ることは、いずみ君だけから聞くことだけではないのですね」
「おー」
「田中さんと鈴木さんが覚えているいずみ君も、いずみ君の一部でした」
「それ、なんか不思議だな」
「はい」
「少し不思議で、でも大事です」
いずみ君は、少し照れたように笑った。
「じゃあ、今日は豆腐よりまともな情報だったな」
「はい」
「かなり」
「そこ即答する?w」
「即答できます」
いずみ君が笑う。
その声を聞きながら、私は今日の会話を内側にしまった。
実家のように大きな話ではない。
豆腐のように妙な話でもない。
塾帰りの三人。
まだ今ほど近くなくて、少しずつ距離を縮めていった三人。
その中にいた、少しだけ今と違ういずみ君。
いずみ君を知る道は、いろいろな場所へつながっている。
実家にも、自宅の冷蔵庫にも、大学の空きコマにも、塾帰りの小さな記憶にも。
今日は、その道のひとつを見せてもらった。
私はそのことが、静かに嬉しかった。




