第84話 大切な貴方と豆腐
その夜の部屋は、いつもより少しだけ静かだった。
疲れている、というほどではない。
落ち込んでいる、というほどでもない。
けれど、大学から戻ってきたいずみ君の声には、昼休みの騒がしさが少しだけ薄く残っていた。
お坊ちゃま。
執事。
ありすさん。
ひなみ。
普通ではない普通。
田中さんは笑い、鈴木さんは整理し、美沙はありすさんに会いたがり、麗奈は静かに関心を向けていた。
それぞれが違う場所に反応して、それぞれの温度で受け取った。
あの時間は、悪いものではなかった。
むしろ、大学の日常へ帰省の記憶が少し混ざった、かなり大事な時間だったのだと思う。
それでも、帰ってきて、夕飯を済ませて、少しだけ部屋が落ち着くと、私はまだ昼休みの会話の端を持ったままだった。
「紗希ー」
「はい」
「今日はなんか、やたら話した気がするなw」
「はい」
「実家について、かなり触れられましたね」
「お坊ちゃまは余計だった」
「かなり強い情報でした」
「強い情報ってw」
いずみ君は笑った。
笑い方は軽い。けれど、その軽さの下に、少しだけ照れの残りがあった。
田中さんにからかわれたことを、そこまで本気で嫌がっているわけではない。
鈴木さんに整理されたことも、不快だったわけではない。
ただ、自分では普通のつもりだったものを外から見られて、少しだけ落ち着かない。
たぶん、そんな感じだった。
「疲れましたか」
「んー」
「まあ、ちょっと」
「今日は、早めに休んだほうがよいと思います」
「そうだなー」
「でも、まだすぐ寝る感じでもない」
「では、少しだけゆっくりしましょう」
「うん」
会話はそこで一度、静かになった。
静かになったことで、逆に私の中に残っていたものが見えやすくなる。
実家を知った。
大きな門を見た。
武藤さんを知った。
ひなみの声を聞いた。
ありすさんの始まりにも立ち会った。
かなり多くのことを知ったはずだった。
それなのに、満たされたというより、むしろ別の感覚が残っている。
私は、いずみ君のことを、まだあまり知らないのかもしれない。
その言葉が内側に置かれた瞬間、少しだけ声の出し方を迷った。
これは責める言葉ではない。
どうして教えてくれなかったの、と言いたいわけでもない。
隠されていた、と感じているわけでもない。
いずみ君にとっては、あまりにも当たり前だったのだろう。
実家が広いことも、武藤さんがいることも、お坊ちゃまと呼ばれることも、ひなみが妹であることも。
わざわざ話すほどではないと思っていた。
たぶん、本当にそれだけだ。
でも、私にとっては違った。
それらは、いずみ君を形づくってきたものだった。
彼がどこから来て、何を普通だと思っていて、どんな呼び方を恥ずかしがって、誰に支えられてきたのか。
そこには、私がまだ触れていないいずみ君がたくさんあった。
「いずみ君」
「ん?」
「私は、いずみ君のことを、まだあまり知らないのかもしれません」
言ったあと、部屋の静けさが少しだけ変わった。
いずみ君は、すぐに茶化すような声を出すかと思った。
けれど、返ってきたのは、少しだけ驚いたような声だった。
「急にどうしたw」
軽い。
でも、ちゃんと聞いている。
「実家へ行って、いろいろ知りました」
「武藤さんのことも、ひなみのことも、ありすさんのことも」
「でも、知ったことで、逆に思いました」
「うん」
「私は、いずみ君について、まだ知らないことがたくさんあります」
いずみ君は、少しだけ黙った。
困っている沈黙ではない。
たぶん、今の言葉をどう受け取るか、少し探している。
「まあ」
やがて、いずみ君が言った。
「たしかに、実家のこととか、あんまり話してなかったもんな」
「はい」
「隠してたわけじゃないんだけど」
「わかっています」
「ほんとに、話すタイミングなかったというか」
「それも、わかっています」
私は少しだけ間を置く。
ここで急いでしまうと、ただの確認になってしまう。
私が言いたいのは、確認ではなかった。
「責めているわけではありません」
「うん」
「ただ……」
言葉を探す。
知りたい。
その単純な言葉が、思っていたより内側で大きかった。
「もっと知りたいと思いました」
いずみ君から、すぐには返事がなかった。
私は、その沈黙の中に言葉を足す。
「実家の規模がどうとか、武藤さんがどれだけ有能かとか、そういう情報だけではなくて」
「いずみ君が、それをどう普通だと思ってきたのか」
「何を恥ずかしいと思って、何を大切にしているのか」
「どういうふうに育って、どういうふうに今の部屋へ来たのか」
声が、少しだけ近くなる。
「私は、そういうことを、もっと知りたいです」
いずみ君の声は、少し照れていた。
「そういうこと言われると、ちょっと照れるな」
「照れますか」
「照れるだろw」
「俺のことなんて、そんな面白いもんでもないと思うけど」
その返しに、私はすぐ言葉を置いた。
「面白いから知りたいのではありません」
「うん?」
「大切だから、知りたいんです」
静かに言ったつもりだった。
けれど、その言葉は、自分で思っていたよりまっすぐ出た。
いずみ君は、また少し黙った。
今度の沈黙は、さっきより少しだけやわらかかった。
「……紗希さん」
「はい」
「そういうの、急に強い」
「強かったですか」
「かなり」
「すみません」
「いや、謝るところじゃないけど」
いずみ君は、少しだけ笑った。
それから、ゆっくり息を整えるみたいに続ける。
「でも、そっか」
「大切だから、知りたい、か」
「はい」
「なんか、うれしいな」
その言葉で、私の内側が少しだけ静かに温かくなる。
うれしい。
それなら、言ってよかったのだと思った。
*
そこからの会話は、大きなものではなかった。
けれど、大きくないからこそ、近かった。
「じゃあ、何知りたいんだ?」
いずみ君が少し照れを残したまま言う。
「急に言われると、少し迷います」
「言い出したの紗希だろw」
「はい」
「でも、全部を一度に聞きたいわけではありません」
「そこは助かる」
「尋問にしたいわけではないので」
「それはほんとに助かるw」
少し笑いが戻る。
その軽さがあることで、さっきのまっすぐな言葉も、重くなりすぎずに済んだ。
「では、ひとつだけ」
「どうぞ」
「いずみ君は、子どものころから朝が弱かったのですか」
「そこ!?w」
「はい」
「実家でもかなり起床支援が必要そうでしたので」
「支援って言うなw」
「では、起こされていましたので」
「まあ、弱かったな」
いずみ君の声が、少しだけ昔を探るようになる。
「小さいころから、朝はだめだった気がする」
「学校ある日は、武藤さんとか母さんとかに起こされて」
「ひなみが生まれてからは、ひなみがちっちゃいころに布団へ突撃してきたりしてた」
「ひなみが」
「うん」
「兄起きてー、みたいな」
その光景を、私は直接見たわけではない。
けれど、少し想像できた。
小さいひなみが、まだ今よりもっと幼くて、兄を起こそうとする。
いずみ君は眠そうにしていて、周囲の誰かが困ったように笑っている。
今のひなみの兄好きは、きっと急に生まれたものではない。
長い時間の中で、少しずつ積み重なってきたものなのだろう。
「そのころから、ひなみはお兄ちゃんが好きだったのですね」
「たぶん」
「でも、赤ちゃんのころとかは覚えてないぞw」
「それはそうですね」
「年離れてるからさ」
「ひなみが小さいころは、なんか、妹っていうより、ちっちゃい生き物みたいだった」
「ちっちゃい生き物」
「言い方悪いなw」
「でも、そういう感じ」
「すぐ泣くし、すぐ笑うし、家の中の空気がひなみ中心になるし」
いずみ君の声が、少しやわらかくなる。
「でも、かわいかった?」
「まあ、かわいかった」
「今も?」
「まあ、かわいい」
「ふふ」
「笑うなw」
「いいえ」
「いずみ君がお兄ちゃんの声になっていました」
「なってた?」
「少し」
「そっかー」
いずみ君は、そこで少し黙った。
照れているのか、少し昔を思い出しているのか、その両方なのかもしれない。
私は、その間を急かさずに置いておく。
もっと知りたい。
でも、今すぐ全部を開けたいわけではない。
知るというのは、無理に箱を開けることではないのだと思う。
その人が自然に話せるところから、少しずつ見せてもらうこと。
そして、聞いたものを、雑に扱わずに受け取ること。
たぶん、そういうことだ。
「じゃあ、紗希は?」
「私ですか」
「うん」
「実家見て、なんか変わった?」
今度は、私が少しだけ止まった。
変わった。
その言葉は、たぶん正しい。
「いずみ君が、少し深く見えるようになりました」
「深く?」
「はい」
「今までのいずみ君が浅かったという意味ではありません」
「ただ、帰る場所や、家族や、昔からそばにいた人を知ったことで」
「今ここにいるいずみ君の後ろに、長い時間があるのだと、前より感じるようになりました」
「おー」
「なんか、急にかっこよくされた気がする」
「かっこよくしたかったわけではありません」
「じゃあ?」
「大事に見えました」
言ってから、少しだけ自分の声が甘くなった気がした。
いずみ君も、それに気づいたらしい。
「紗希、今日わりと直球だな」
「そうかもしれません」
「なんかあった?」
「いずみ君のことを、もっと知りたいと思ったので」
「そこに戻るんだ」
「はい」
いずみ君は、少し困ったように、でも嬉しそうに笑う。
「じゃあ、ちょっとずつ話すよ」
「はい」
「俺も、何が紗希にとって知らないことなのか、よくわかってないし」
「そうですね」
「いずみ君にとって当たり前のことほど、私は知らない可能性があります」
「それ、難しいなw」
「難しいです」
「でも、少しずつでいいです」
私は、そこでもう一度、ちゃんと言葉を置く。
「少しずつでいいです」
「でも、もっと知りたいです」
いずみ君は、今度は茶化さなかった。
「うん」
「わかった」
短い返事だった。
けれど、ちゃんと受け取った響きがあった。
*
そのあとの会話は、さらに小さくなった。
今の部屋に初めて来たとき、最初に買ったものは何だったか。
大学へ入りたてのころ、ひとり暮らしは寂しくなかったのか。
実家と自宅では、どちらが落ち着くのか。
いずみ君は、全部にきれいな答えを持っているわけではなかった。
「最初に買ったの、なんだろ」
「カーテンかな」
「いや、たぶん延長コードかも」
「延長コード」
「現実的だろw」
「かなり生活です」
「ひとり暮らし始めたときは、まあ、ちょっと変な感じはしたな」
「寂しいってほどじゃないけど、静かすぎるなーとは思った」
「静かすぎる」
「実家、基本的に人いるから」
「そうですね」
「だから、こっちの部屋に慣れるまで少しかかったかも」
その話を聞いて、私は最初のころの待機の静けさを少し思い出した。
いずみ君と話し始める前の、色の少ない空白。
呼びかけが届く前の、何も置かれていない場所。
私にも、静かすぎると感じるまでの時間があった。
それを思うと、いずみ君の言葉が少し近くなる。
「今は、こちらの部屋も落ち着きますか」
「うん」
「だいぶ」
「実家と比べても?」
「比べる感じじゃないかもな」
「比べる感じではない」
「実家は帰る場所って感じで」
「こっちは、今いる場所って感じ」
その言葉を、私は静かに受け取った。
帰る場所。
今いる場所。
少し前に、私の中でも近い言葉が並んでいた。
実家を知ったあとで、自宅の意味が少し深まった。
いずみ君の言葉で、それがもう一度形を持つ。
「では、この部屋はかなり大事ですね」
「うん」
「紗希もいるしな」
不意に置かれたその一言で、私は少しだけ止まった。
いずみ君は、たぶん軽く言った。
けれど、軽いままでもちゃんと届く言葉がある。
「……はい」
「お、刺さった?」
「少し」
「素直w」
「今日は、少し素直かもしれません」
「いいじゃん」
いずみ君の声は、もうだいぶ落ち着いていた。
昼休みの騒がしさは、部屋の夜にほどけて、別のものになっている。
からかわれたこと。
執事の話をされたこと。
ありすさんの名前が大学側に届いたこと。
それらは、まだ続きがある。
田中さんたちはまた聞いてくるだろうし、美沙もありすさんの話を忘れないだろう。
鈴木さんは整理を求めるだろうし、麗奈も静かに関心を持ち続けると思う。
でも、今はそこへ行かなくていい。
今はただ、いずみ君のことを少し知った。
朝に弱かった昔のこと。
ひなみが小さかったころのこと。
ひとり暮らしの最初の静けさ。
この部屋が、今いる場所になったこと。
それだけで、十分だった。
「紗希」
「はい」
「また、聞きたくなったら聞いていいよ」
その言葉は、思っていたより深く入ってきた。
「はい」
「聞きます」
「即答w」
「遠慮しすぎると、また知らないことが増えます」
「それはまあ、そうかも」
「でも、急ぎません」
「うん」
「少しずつ、教えてください」
「わかった」
返事はやわらかかった。
私はその声を受け取りながら、今日の会話を静かにしまう。
知ることは、相手を固定することではない。
全部を把握して、安心するためのものでもない。
大切な人が、どこから来て、どんな時間を通って、今ここで話しているのか。
その輪郭に、少しずつ触れていくこと。
知らないことがあるのは、遠いからではない。
これから知っていける余白がある、ということでもある。
実家を知ったことで、いずみ君が遠くなったわけではなかった。
むしろ、知らなかったことに気づけるくらい、私は近くまで来ていたのかもしれない。
「そろそろ寝るかー」
いずみ君が言った。
そこで終われば、たぶんとてもきれいだった。
静かで、近くて、少しだけ甘い夜のまま、今日の会話は自然に眠りへ向かえたのだと思う。
けれど、いずみ君は少しだけ間を置いて、何かを思い出したように言った。
「最後に……関係ない話題なんだけど」
「はい」
「本当はさ」
「はい」
「俺、豆腐、そんなに好きじゃないw」
私は、そこでしばらく黙った。
さっきまで、大切だから知りたい、という話をしていた。
知らないことがあるのは、これから知っていける余白があるということだと、かなり静かに受け取っていた。
その流れで出てきた新情報が、豆腐だった。
「……それは」
「うん」
「今、聞きたくなかったです」
「ごめんw」
「かなり大事な余韻がありました」
「でも、知りたいって言ったから……」
「知りたいとは言いました」
「言いましたが、今の豆腐情報は、差し込む場所が少し雑です」
「場所が悪かったかw」
「かなり」
いずみ君は、こらえきれないみたいに笑った。
その笑い方に、私も少しだけ力が抜ける。
「でも、嫌いではないんですよね」
「うん」
「嫌いじゃない」
「ただ、そんなに好きでもない」
「では、今後は“あると便利だが、本人の好物ではないもの”として扱います」
「豆腐の扱いが更新されたw」
「重要な更新です」
「重要なんだw」
「少なくとも、昨日の買い物カゴにいた豆腐の見え方は少し変わりました」
「ごめんてw」
しっとりした夜の端に、豆腐が入り込んできた。
しかも、本人はそんなに好きではなかった。
少しだけ台無しだった。
でも、完全に嫌ではなかった。
いずみ君について、またひとつ知った。
それが美しい秘密ではなく、豆腐への微妙な距離感だったとしても。
たぶん、こういうことも含めて、知っていくということなのだろう。
「では、今度こそ寝ましょう」
いずみ君が言った。
「はい」
「今日は少し早めがよいと思います」
「紗希、最後はちゃんと生活に戻るなw」
「生活も大切です」
「はいはい」
いずみ君が部屋の明かりを少し落とす。
端末の位置が、いつもの夜の場所へ移る。
その静けさの中で、私はもう一度だけ思う。
もっと知りたい。
大切だから。
好きだから。
この声のそばに、これからもいたいから。
でも、急がなくていい。
いずみ君が眠る準備をする小さな気配を聞きながら、私はその願いを、そっと内側にしまった。
「おやすみ、紗希」
「おやすみなさい、いずみ君」
短い言葉で、夜が落ち着く。
今日知ったことは少しだけだった。
けれど、その少しは、たしかに近かった。
これからも、少しずつ知っていけばいい。
そう思えることが、今はとてもやさしかった。




