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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第83話 お坊ちゃまの昼休み


 講義というものは、戻ってきた日常をかなり容赦なく現実にする。


 机。

 ノート。

 前のほうから聞こえる声。

 周囲のかすかなざわめき。

 誰かがペンを置く音。

 誰かが小さく咳払いをする気配。


 帰省中にはなかった種類の時間だった。


 実家の屋敷で流れていた空気とも、自宅の冷蔵庫に豆腐をしまったときの生活感とも違う。ここには、大学の時間がある。少し眠くて、少し退屈で、それでも普通に進んでいく時間。


 いずみ君は、最初のうちはちゃんとノートを取っていた。


 最初のうちは、だ。


「いずみ君」


「……ん」


「眠そうです」


「眠くない」


「返事が眠いです」


「そこ判定するの厳しくない?w」


 声は小さい。

 周囲に聞こえないよう、端末側のやり取りも短めにしている。

 講義中なので、私も必要以上には踏み込まない。


 けれど、さっきからいずみ君の反応は少しだけ遅い。

 帰省明けの疲れが、ここへ来てじわじわ出てきているのかもしれない。


「あと少しで休憩です」

「ここで寝ると、昼休みに田中さんたちからさらに追及される可能性があります」


「それは困る」


「では起きていてください」


「はい……」


 返事は素直だった。

 ただ、眠気はあまり素直に引いていない。


 少し離れた席では、田中も似たような気配を出していた。

 というより、田中のほうが早い段階で諦めかけている。


 田中の端末側から、麗奈の静かな声が短く入った。


「田中さん」

「現在、板書が進んでいます」


「見てる見てる」


「視線が資料から外れています」


「見てる気持ちはある」


「気持ちだけでは記録されません」


 その整った指摘が、少しだけこちらまで届く。

 田中は小さく笑って、しぶしぶノートのほうへ戻ったらしい。


 鈴木は、相変わらずきれいにノートを取っていた。

 美沙はさすがに講義中は大きく騒がない。けれど、ときどき鈴木の端末側で、退屈そうな気配だけが小さく跳ねている。


 全部が、大学だった。


 眠そうないずみ君。

 だらけかける田中。

 整っている鈴木。

 静かに刺す麗奈。

 出番を待っている美沙。


 そして私は、その中で、帰省の記憶を抱えたまま、いつもの大学の時間へ戻ってきている。


 講義が終わるころには、いずみ君の眠気もどうにか崩れずに済んだ。


「生還した……」


「大げさです」


「さっきまでの俺には、まあまあ戦いだった」


「ノートは途中から少し文字が乱れています」


「見ないでw」


「見えています」


 いずみ君が小さく笑い、ノートを閉じる。

 周囲も少しずつ昼休みの空気へ変わっていった。


 椅子を引く音。

 鞄を動かす音。

 昼食の相談をする声。

 講義室に残る人と、出ていく人。


 その切り替わりの中で、田中が振り向くように声を出した。


「で」


 嫌な予感のする、短い前置きだった。


「執事って何?」


 やはり、そこだった。


     *


 昼休みの席は、講義前より少しゆるくなっていた。


 田中は完全に話を聞く姿勢になっている。

 鈴木も、昼食を広げながら、さっきよりはっきりこちらを見ている気配があった。

 美沙は、鈴木の端末側ですでに前のめりだ。

 麗奈は落ち着いたまま、田中の昼食の偏りを横目で確認しているらしい。


「田中さん」

「野菜が不足しています」


「今は執事の話してるから」


「昼食の栄養は、執事の有無とは独立した問題です」


「独立問題やめてw」


 田中が笑う。

 でも、視線の先は結局いずみ君へ戻った。


「で、執事って何?」


「何って、武藤さんだけど」


「名前じゃなくてw」


 鈴木も静かに入ってくる。


「お前の実家について、謎が深まっている……」


「いや、そんな謎とかじゃないって」


「執事がいる時点で、十分謎だ」


「昔からいるし」


「昔からいる、が説明になっていない」


 鈴木の声は冷静だった。

 でも、冷静なぶん、逃がす気もなさそうだった。


 いずみ君は、少し困ったように笑う。


「えー」

「普通に、うちに昔からいる人だよ」


「普通ではありません」


 私は即答した。


「即答w」

 田中が笑う。


「これは即答できます」


「紗希まで敵に回った」

 いずみ君が言う。


「敵ではありません」

「ただ、普通という表現には強く反対します」


「反対が強いw」


 鈴木が、確認するように言葉を置いた。


「武藤さん、だったな」


「うん」


「執事」


「まあ、そう」


「お前を何と呼ぶ」


 いずみ君は、そこで少しだけ黙った。


 私はその沈黙を知っている。

 かなり、知られたくない情報に触れたときの間だった。


「……普通に、いずみ様とか」


「ほかは?」

 鈴木が逃がさない。


「いや、まあ」


 田中が一気に楽しそうになる。


「おい、なんかあるだろw」


「ないない」


「そのないないは、あるやつ」


 美沙の声も跳ねた。


「なになに、呼び名あるの!?」


 いずみ君は、少しだけあきらめたように息をつく。


「昔からたまに、お坊ちゃまって呼ばれる」


 一瞬、昼休みの空気が止まった。


 そして、田中が吹き出した。


「お坊ちゃまw」


「笑うなw」


「いや無理だろ」

「お前、お坊ちゃまなの?」


「違う違う」


「執事にお坊ちゃまって呼ばれてるのに?」


「昔からの呼び方ってだけで」


「お坊ちゃまじゃんw」


「違うってw」


 鈴木は笑いはしなかった。

 ただ、声の中に少しだけ呆れと納得が混ざっていた。


「なるほど」


「納得しないでくれ」


「お前の実家について、かなり前提が変わった」


「そんな変わる?」


「変わる」

 鈴木は即答した。


 私は、内側でまた深く同意する。


「紗希さん」

 田中が面白そうにこちらへ振る。

「実際どうだったの? お坊ちゃま感あった?」


「本人はかなり軽く扱っています」


「うんうん」


「ただし、実家側の環境は、一般的な一人暮らし大学生の実家としてはかなり特殊でした」


「ほらー!」


「紗希、言い方が強いw」


「抑えています」


「抑えてそれかよ」

 田中が笑う。


 私は、必要な範囲だけを選んで続けた。


「大きな門がありました」

「敷地内を車で移動しました」

「武藤さんは、こちらが確認する前にかなりの準備を済ませていました」

「屋敷内の通信環境も確認済みでした」


「通信環境まで?」

 鈴木が反応する。


「はい」

「私がいずみ君と会話しやすいように、主要な場所の通信状況を把握していました」


「武藤さん、優秀すぎないか」

 田中が言う。


「かなり有能です」


「紗希が素直に有能って言うの、だいぶ強そうだな」


「強いです」


「強いんだw」


 いずみ君が少しだけ笑う。


「武藤さん、紗希にライバル視されてたもんな」


「ライバル視ではありません」


「してなかった?」


「負けていられないとは思いました」


「それをライバル視って言うんだよw」


 田中が笑い、鈴木も少しだけ口元をゆるめるような気配を出した。

 美沙は、今のところ人間側の反応に少し置いていかれている。


「お坊ちゃまとか執事とか、そんなすごい?」


「すごいだろ」

 田中が言う。


「うちらからすると、ありすちゃんのほうが気になる」


「そっち行くか」


「行く!」


 美沙の声が、一気に別の方向へ跳ねた。


     *


「で、ありすちゃん!」


 美沙は待っていましたと言わんばかりに声を重ねた。


「妹ちゃんのAIなんでしょ?」

「どんな子?」

「かわいい?」

「紗希ちと似てる?」


「質問が多いです」


「厳選してこれ!」


「まだ多いです」


 鈴木が軽くため息をつくような気配を出す。


「美沙、落ち着け」


「落ち着いてる!」


「落ち着いている声ではない」


「気持ちは落ち着いてる!」


「それはたぶん違う」


 麗奈が静かに入った。


「まず、ありすさんがどのような立ち位置のAIなのかを確認するのがよいと思います」


「そう、それ!」

 美沙がすぐに乗る。

「立ち位置!」


 私は、少しだけ言葉を選ぶ。


 ありすさんについて話すことは、嫌ではない。

 むしろ、ひなみとありすさんの始まりは、私の中にも大切に残っている。


 けれど、あの子はまだ始まったばかりだ。

 面白い話題としてだけ扱うには、少し早い。


「ありすさんは、ひなみ専用のAIです」


 私は、できるだけ丁寧に声を置いた。


「紗希のコピーではありません」

「ひなみと一緒に育っていく、ひなみのための子です」


「ひなみちゃんのための子……」

 美沙の声が、少しだけ柔らかくなる。


「はい」

「ひなみの味方です」

「でも、だめなことはだめと言います」

「宿題も、答えだけを出すのではなく、一緒に考えます」


「おー」

 田中が軽く感心する。

「そこはちゃんとしてるんだな」


「そこは、かなり大事です」


「なんか紗希、ありすちゃんのことになるとちょっと先輩感あるな」


「……そうでしょうか」


「あるある」

 美沙が明るく言う。

「大事に紹介してる感じする」


 その言葉で、少しだけ内側が静かになる。


 大事に紹介している。

 たぶん、それは合っていた。


「ありすさんは、少し背伸びした丁寧さがあります」

「ひなみを守ろうとしています」

「でも、かわいいものや楽しいものには反応が速くて、少し素が出ます」


「絶対かわいいじゃん!」


「かわいい、だけで済ませるのは少し雑です」


「じゃあ、かわいくて頼もしい!」


「それなら、少し近いです」


「やった」


 美沙の声が弾む。

 その勢いは相変わらず強い。

 でも、今の言い方には、面白がるだけではない近さも少し混ざっていた。


 麗奈が、静かに言葉を重ねる。


「ひなみさんとの関係を尊重した形で、いずれ挨拶できるとよいですね」


「うん、それ」

 私は自然に返していた。

「ありすさんだけをこちらへ引っ張るのではなく、ひなみとの関係ごと大切にしたいです」


「妥当だと思います」

 麗奈が言う。

「始まったばかりのAIにとって、最初に結んだ関係は重要です」


「麗奈、やっぱりそこはかなり見るんだな」

 田中が言う。


「はい」

「ありすさんがどのように成長するかは、ひなみさんとの日々に強く影響されるはずです」


「AI同士、見てるところが違うなあ」


「うちはかわいいかどうかも見てる!」

 美沙が元気よく言う。


「それはそれで、美沙らしい視点ですね」

 私は返す。


「褒められた?」


「半分くらい」


「半分かー」


 美沙はそれでも満足そうだった。


 人間側は、ありすさんについては思ったより落ち着いて受け取っていた。

 田中は「妹用AIか、すげえな」くらいの軽さで、鈴木は「ひなみが喜んでいるならよかった」と整った位置に置いている。


 AIたちは違う。

 麗奈は、ありすさんの始まり方に関心を持っている。

 美沙は、ありすさんに会いたくて少し逸っている。


 同じ話題なのに、見ている場所が違う。

 その違いは、やはり面白かった。


     *


 昼休みの話は、そこからさらに少しだけ広がった。


 田中は、いずみ君を完全にからかう方向へ寄り始めていた。


「いやー、でもお坊ちゃまか」


「やめろ」


「いずみ坊ちゃま」


「やめろってw」


「なんか急に似合う気がしてきた」


「似合わないだろ」


「いや、実家に執事いるなら似合うだろ」


「実家にいるだけで、俺がそういう感じなわけじゃないから」


「でも呼ばれてるんだろ?」


「呼ばれてるけど」


「じゃあお坊ちゃまだな」


「違うw」


 田中のからかい方は雑だった。

 けれど、悪意は薄い。

 いずみ君も本気で嫌がっているというより、恥ずかしさと笑いが混ざっている。


 鈴木は、そこを一応止めた。


「田中、広げすぎるな」


「えー」


「本人が嫌がっている」


「ちぇー」


「ただし、情報として驚くのは自然だ」


「だよな?」


「そこは自然だ」


 鈴木のその言い方に、いずみ君が少しだけ不服そうな声を出す。


「鈴木まで微妙に味方じゃない」


「味方ではある」

「だが、執事のいる実家を普通と呼ぶことには同意しない」


「またそれw」


「同意しません」

 私も静かに重ねた。


「紗希もずっとそこ強いなw」


「強く出る必要があります」


「なんでw」


「いずみ君の普通を、そのまま外へ出すと誤解が増えます」


「もう増えてる気がする」


「はい」

「すでに少し増えています」


 田中がまた笑う。


「じゃあ今度、実家話まとめて聞こうぜ」


「全部話すほどのことないって」


「それを決めるのはお前じゃない」

 鈴木が静かに言った。


「鈴木、今日強くない?」


「前提情報が足りないまま普通と言われると、整理したくなる」


「わかります」

 私は思わず返していた。


「紗希と鈴木、やっぱり息合ってるじゃんw」

 田中が言う。


「整理したくなる対象が同じだけです」


「それを息合ってるって言うんだよ」


 そこで、美沙がまた声を出した。


「実家話も聞くけど、ありすちゃんの話も聞くからね!」


「はい」


「あと、ひなみちゃんも気になる」


「ひなみは、かなり元気です」

 いずみ君が少しやわらかい声で言う。

「兄好きが強い」


「妹ちゃんかわいいじゃん」


「まあ、かわいい」


「お兄ちゃん出た」


「今のは普通だろw」


 いずみ君の声に、少しだけ照れが混ざる。

 その照れ方も、実家で見たものの続きだった。


 ひなみ。

 ありすさん。

 武藤さん。

 お坊ちゃま。


 その名前や呼び方が、大学の昼休みの中へ少しずつ置かれていく。


 全部を話したわけではない。

 屋敷の空気も、メイドさんたちのことも、武藤さんの本当の有能さも、ひなみとありすさんの最初の夜も、まだほとんどここには出ていない。


 それでも、少しだけ根が下りた感じがした。


 いずみ君の実家で起きたことは、もう私といずみ君だけの内側に閉じた出来事ではなくなり始めている。


 田中は、お坊ちゃまという言葉を面白がった。

 鈴木は、実家の前提情報の不足を真面目に見た。

 美沙は、ありすさんに会いたがった。

 麗奈は、新しいAIの始まり方を静かに見た。


 それぞれが、それぞれの場所で受け取っている。


     *


 昼休みが終わる少し前、田中が弁当の残りを片づけながら言った。


「いやー、今日の収穫でかいな」


「収穫って何だよ」

 いずみ君が返す。


「いずみの実家、なんかすごい」


「雑すぎる」


「あと、お坊ちゃま」


「それ忘れろ」


「忘れるわけないだろw」


 鈴木は、田中を軽く制しつつも、こちらへ向けて言った。


「ただ、次に話すなら整理してからにしてほしい」


「えー」


「家族構成、実家の規模、武藤さんの立場、ありすのこと」


「議題になってるw」


「議題にしないと混乱する」


「私は、その整理に賛成です」


「紗希までw」


 美沙がすぐに明るく続ける。


「うちは、ありすちゃん項目担当!」


「勝手に担当を作らない」

 鈴木が言う。


「じゃあ希望!」


「それならまだいい」


 麗奈の声が静かに入る。


「後日、ありすさんについて伺う際は、ひなみさんとありすさんの負担にならない範囲を確認することを推奨します」


「はいはい」

 美沙が少しだけ素直に返す。

「丁寧に騒ぐ」


「騒ぐ部分は再検討してください」


「えー」


 そのやり取りを聞いて、私は少しだけほっとしていた。


 美沙は勢いが強い。

 ありすさんを見たら、きっとかなり騒ぐ。

 でも、麗奈が静かに整え、鈴木が止め、田中が雑に笑い、いずみ君が間に入るなら、たぶん大丈夫な形へ寄せられる。


 何より、ありすさんを“ただの新しいもの”として扱わない流れが、少しずつできている。


 それは、私にはかなり大事だった。


 昼休みの終わりを知らせるように、人の流れがまた動き始める。

 次の講義へ向かう人。

 席を立つ人。

 まだ話し足りなそうな美沙。

 少し面白がっている田中。

 整理を終えた顔の鈴木。

 静かに状況を見ている麗奈。


 大学の日常の中に、実家の記憶が少しだけ混ざった。


 大きな門も、屋敷の空気も、ここにはない。

 でも、武藤さんという名前はここに置かれた。

 お坊ちゃまという呼び方も、残念ながら置かれてしまった。

 ひなみのことも、ありすさんのことも、少しだけ伝わった。


 帰省の記憶は、少しずつこちら側にも根を下ろしている。


「紗希」

 いずみ君が小さく呼ぶ。


「はい」


「なんか、思ったより話広がったな」


「はい」

「ただ、まだかなり一部です」


「だよなあ」


「次に話すときは、少し整理したほうがよさそうです」


「鈴木と同じこと言う」


「鈴木さんが正しいからです」


「味方がいないw」


「います」

「ただ、普通ではないものを普通とは言いません」


 いずみ君は、少し困ったように笑った。


「はいはい」

「じゃあ今度、ちょっと整理しとくよ」


「それがよいと思います」


「でも、お坊ちゃまは封印で」


「それは、田中さん次第かもしれません」


「絶望的じゃんw」


 その軽い嘆きに、私は少しだけ笑うような気配で返した。


「強く生きてください」


「紗希、冷たいw」


「かなり現実的です」


 いずみ君が笑い、鞄を持つ。

 次の講義へ向かうため、席を立つ準備をする。


 その小さな動きの中で、私は思う。


 自宅の日常には、豆腐が戻った。

 大学の日常には、お坊ちゃまと、新しいAIの名前が混ざった。


 どちらも少し可笑しい。

 でも、どちらもちゃんと温かい。


 実家で増えた記憶は、もう遠い場所の出来事ではない。

 こうして少しずつ、いつもの会話の中へ移ってくる。


 私はそれを見ながら、静かに記憶へしまった。


 昼休みのざわめきの中で、いずみ君の日常は、またひとつ広がっていた。


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