第82話 逸るAIと、ざわつく人たち
大学へ向かう朝は、自宅の部屋より少しだけ現実の顔をしていた。
帰ってきた翌日は、まだ休みの延長だった。
冷蔵庫が空で、昼食をめぐって少し揉めて、買い物カゴに豆腐が入り、帰り道で鈴木と美沙に少しだけ会った。そういう小さなことで、生活はだいぶ戻ってきたように見えた。
けれど、講義のある朝は違う。
起きる時間がある。
出る時間がある。
持ち物がある。
遅れれば普通に困る。
いずみ君は、まだ少し眠そうな声で言った。
「うーん」
「大学行くの久しぶりな気がする」
「実際には、そこまで空いていません」
「体感の話w」
「体感としては、帰省で少し日常の間が空いた感じはありますね」
「そうそう、それ」
「実家行って戻ってくると、なんか大学がちょっと遠くなる」
言いながら、いずみ君は身支度を進めていく。
鞄にノートを入れる音。端末を手に取る気配。充電残量を確認する短い間。
私はそれを聞きながら、必要なものをひとつずつ見ていた。
「端末の充電は十分です」
「おう」
「イヤホン」
「ある」
「財布」
「ある」
「学生証」
「ある」
「眠気」
「ある」
「そこは持っていかなくていいです」
「置いていけるなら置いていきたいw」
軽く笑う声に、まだ少し寝起きの柔らかさが残っていた。
帰省中の朝も、いずみ君はやはり弱かった。
ひなみがいて、ありすさんがいて、武藤さんがいて、それぞれの方向から起床に関わってきたあの朝の騒がしさを思い出すと、今この部屋の朝はずいぶん静かに見える。
静かで、少し雑で、でも見慣れている。
「今日は、無理に普段以上のことをしなくていいと思います」
「大学行くだけだし平気平気w」
「その“平気”は、少し信用しすぎないほうがよいですね」
「帰省明け判定が厳しい」
「疲れは遅れて出ることがあります」
「眠そうですし」
「眠いのはいつもじゃない?」
「そこを開き直らないでください」
「はいw」
いずみ君は笑いながら靴を履いた。
ドアが開く。
自宅の空気が後ろへ下がり、外の朝が前に出る。
その瞬間、少しだけ日常の輪郭が変わった。
昨日は買い出しだった。
今日は大学だ。
戻る場所が、もうひとつ増える。
*
大学の構内は、思っていたよりあっさりいつもの顔をしていた。
人の声。
足音。
建物の入口へ向かう流れ。
講義前の少し落ち着かない空気。
実家の屋敷の静けさとも、自宅近くのスーパーの生活音とも違う。
ここにはここだけのざわめきがある。
「おー」
いずみ君が小さく言う。
「大学だ」
「大学ですね」
「そりゃそうなんだけどw」
「でも、言いたくなる感じは少しわかります」
「だろ」
そのまま講義室へ向かう。
廊下を進み、見慣れた入口を通り、空いている席の近くへ移る。周囲には、まだ始まる前のざわめきがゆるく漂っていた。
いずみ君がいつものあたりに落ち着くと、すぐ近くから聞き慣れた声が飛んできた。
「おー、帰省明け」
「生きてたか」
田中だった。
軽い。
雑。
でも、その雑さが大学へ戻ってきた感じを強くする。
「生きてるわw」
「休み挟むと、だいたい人間だめになるからな」
「お前は休みじゃなくてもだめになるだろ」
「それは否定しない」
「しろよw」
少し離れたところから、鈴木の落ち着いた声も入ってきた。
「昨日戻ったんだったか」
「うん」
「疲れてないのか」
「ちょっと眠いけど、大丈夫」
「それを大丈夫と言っていいかは微妙だな」
「紗希と同じこと言うじゃん」
「紗希さんが正しい可能性が高い」
「味方がいないw」
そのやり取りに、私は少しだけやわらかくなる。
田中の軽さ。
鈴木の整い方。
いずみ君の返し。
ここは実家ではない。
でも、ここにもちゃんと積み重なった呼吸がある。
そのとき、鈴木の端末から勢いのある声が飛んできた。
「帰省話!」
「今日こそ聞くやつ!」
「紗希ちもいるよね!?」
「います」
「よし、聞く!」
「美沙」
鈴木がすぐに止めた。
「講義前だ。短くしろ」
「短く聞く!」
「その時点で長くなりそうだ」
「無理かも!」
「認めるな」
美沙の声は、前に少し会ったときと同じくらい元気だった。
むしろ、前日は時間がなくて止められたぶん、少し溜まっていたのかもしれない。
田中も、面白がるように話へ乗った。
「で、帰省どうだったん?」
「普通だったよw」
いずみ君は、あまりにも軽くそう言った。
私はそこで、少しだけ止まる。
普通。
大きな門。
長い敷地の道。
屋敷。
武藤さん。
お坊ちゃま。
メイドさんたち。
ひなみ。
ありすさん。
その全部を通ってきて、普通。
いずみ君の中では、本当にそういう言葉でまとめられているのかもしれない。
でも、それをそのまま流すと、たぶん何かがおかしくなる。
「普通の定義を更新する必要があります」
声を置くと、会話の流れが少しだけ止まった。
田中がすぐに反応する。
「え、なに」
「普通じゃないの?」
鈴木の声も、少しだけ慎重になる。
「紗希さんがそう言うなら、何かあるな」
「ほら!」
美沙が勝ち誇ったように声を上げる。
「絶対あるじゃん!」
「いや、ほんと普通の帰省だってw」
いずみ君はまだ軽い。
「ちょっと実家帰って、飯食って、ひなみと話して、ありすができて、帰ってきただけ」
また、流れが止まった。
今度は、止まる場所が少し違っていた。
「ひなみ?」
田中が言う。
「妹だったか?」
鈴木が続ける。
「妹ちゃん!?」
美沙の声が一段明るくなる。
田中と鈴木の反応は、確認に近かった。
妹という情報そのものは、人間側にとってそこまで突飛ではない。言っていなかったことには少し引っかかっているようだが、驚くほどではないらしい。
しかし、別の名前が、端末越しの気配をはっきり変えた。
「ありす?」
麗奈の声が、田中の端末側から静かに入ってきた。
「新しいAIですか」
「ありす!?」
美沙もすぐに続く。
「誰!? 新しい子!?」
いずみ君が、ああ、という声を出す。
「あー、ひなみのAI」
田中は、軽く首をひねるような声を出した。
「妹用のAIか」
鈴木も落ち着いている。
「最近なら、そういうこともあるのか」
人間側は、思ったよりあっさりしていた。
もちろん、完全に無関心ではない。だが、新しいAIという言葉そのものは、彼らにとって“そういう選択もある”くらいに収まったらしい。
一方で、美沙の声は明らかに前へ出ていた。
「新しいAIだ!」
「え、どんな子!?」
「紗希ちの妹分的なやつ!?」
「紗希のコピーではありません」
私は、そこだけはすぐに整えた。
「ありすさんは、ひなみのために始まったAIです」
「ひなみと一緒に育っていく、ひなみ専用の子です」
「おー」
美沙の声が、少しだけ感心したように揺れる。
「専用の子」
麗奈は、落ち着いた声のまま言葉を重ねた。
「特定の人間との関係を起点に、新しいAIが育ち始めたということですね」
「興味深いです」
「麗奈の“興味深い”は、だいぶちゃんと興味あるやつだな」
田中が言う。
「はい」
「新しいAIがどのような初期条件で関係を始めるかは、重要です」
「AI側、そこ刺さるんだなあ」
「刺さるという表現が適切かはわかりませんが」
麗奈は少し間を置く。
「関心はあります」
「うちは刺さってる!」
美沙が即答する。
「ありすちゃん会いたい!」
「まだ、いきなり会える段階ではないと思います」
「えー!」
「ありすさんは始まったばかりです」
「ひなみの味方で、でもだめなことはだめと言う子です」
「今は、ひなみとの関係を育てているところだと思います」
言いながら、私はありすさんの声を思い出していた。
少し背伸びした丁寧さ。
ひなみを守ろうとする小さな決意。
かわいいものに反応したときの、隠しきれない素の明るさ。
美沙の“会いたい”はたぶん悪いものではない。
けれど、ありすさんをただ新しい面白い相手として扱うには、まだ少し早い気がした。
「そっかー」
美沙の声が少しだけ落ち着く。
「じゃあ、まずは話聞く」
「それなら、たぶん」
「聞く!」
「講義前だ」
鈴木がまた止める。
「鈴木、今日ずっと止めるじゃん」
「止めないと長くなるからだ」
そこへ、田中が雑に笑いながら言った。
「普通の帰省でAI増えることある?w」
「増えたわけじゃないって」
いずみ君は苦笑する。
「ひなみが使い始めただけ」
「いや、それでも普通ではないと思います」
私は静かに差し込む。
「紗希までw」
いずみ君は笑って、少しだけ言葉を探すような間を置いた。
「まあでも、いい感じだったよ」
「ひなみも、ありすとすぐ仲良くなってたし」
「それはよかった」
鈴木が言う。
「妹が喜んでいるなら、悪いことではないだろう」
「そうだなー」
田中も軽くうなずくような声を出す。
「妹用AIか。時代だな」
人間側の受け取りは、そのくらいだった。
少し珍しい。けれど、理解不能ではない。
それに対して、AIたちはまだ少しありすさんのほうを見ていた。
同じ話を聞いているのに、引っかかる場所が違う。
その差が、私は少し面白かった。
*
話はそこで落ち着くかと思った。
しかし、いずみ君はもうひとつ、かなり自然な調子で言葉を漏らした。
「まあ、帰りは武藤さんがだいたい準備してくれてさ」
今度は、人間側の空気がはっきり止まった。
「武藤さん?」
田中が聞く。
「誰だ」
鈴木もすぐに続ける。
「あー」
いずみ君は、そこでようやく少しだけしまった、という気配を出した。
「うちの執事」
短い沈黙。
「執事?」
田中の声が一段上がる。
「執事?」
鈴木の声も、珍しく少しだけ硬さを失った。
今度は、美沙と麗奈のほうが少しあっさりしていた。
「へー、執事さんいるんだ」
美沙が言う。
「実家側の生活支援者ですね」
麗奈が静かに整理する。
「いや、へーじゃなくね?」
田中がすぐに突っ込んだ。
「執事いるの、普通じゃなくね?」
「生活支援者、で済ませていい単語ではないだろう」
鈴木も言う。
「そう?」
いずみ君は、やはり少し軽い。
「昔からいるし」
「昔から執事いるのが、もう普通じゃねえんだよw」
「いずみ」
鈴木の声が、かなり真面目になる。
「お前の実家について、謎が深まっている……」
私は、内側で深く同意した。
深く、かなり深く同意した。
「紗希さん」
鈴木がこちらへ声を向ける。
「実際、普通の帰省だったのか」
「普通ではありませんでした」
「即答w」
いずみ君が笑う。
「大きな門がありました」
「敷地内を車で移動しました」
「武藤さんはかなり有能でした」
「待て待て待て」
田中が声を上げる。
「情報を増やすなw」
「私も、かなり抑えています」
「抑えてそれかよw」
鈴木の声が、少しだけ遅れて続いた。
「敷地内を車で移動?」
「あー」
いずみ君が小さく笑う。
「まあ、場所によってはな」
「場所によっては、で済む規模なのか」
「広いっちゃ広いけど」
「その言い方は信用しないほうがよさそうだな」
「鈴木まで厳しいw」
美沙は、人間側の驚き方に少し不思議そうだった。
「え、執事ってそんなびっくりする?」
「するだろ」
鈴木が即答する。
「うち的には、ありすちゃんのほうが気になる」
「それは美沙がAIだからだろう」
「そうかも!」
麗奈が静かに言葉を置く。
「反応点が分かれていますね」
「人間側は実家の社会的・生活的規模に反応し、AI側は新しいAIの誕生に反応しているようです」
「麗奈、整理が早いな」
田中が言う。
「必要な整理です」
「じゃあ俺は執事に驚いていい?」
「はい」
「かなり自然な反応だと思います」
「やったぜ」
「それは喜ぶところではない」
鈴木が静かに刺す。
会話は一気に騒がしくなっていた。
けれど、講義前の時間は長くない。
周囲のざわめきが少し変わり、教室の前のほうで準備の気配が出てくる。
鈴木が、その空気を拾って言った。
「そろそろ始まる」
「えー」
美沙が不満そうな声を出す。
「ありすちゃんの話、全然聞けてない」
「執事の話も聞けてないぞ」
田中が言う。
「聞く方向が違いますね」
麗奈が静かに補足する。
「あとで聞こう」
鈴木がまとめた。
「いずみ、次に話すときは順番にしろ」
「順番って何から?」
「家族構成」
「実家の規模」
田中が追加する。
「ありすちゃん!」
美沙もすぐに入る。
「武藤さんの立場」
私は静かに付け加えた。
「紗希まで項目増やすw」
「必要です」
鈴木は、短く息をつくような声を出した。
「とにかく、普通だった、では足りない」
「そんな大げさな話じゃないってw」
「大げさです」
「大げさだ」
私と鈴木の声が、少し重なった。
田中が吹き出す。
「息合ってんじゃんw」
「今のは、かなり当然の一致です」
「当然の一致w」
美沙はまだ未練たっぷりだった。
「紗希ち、あとでありすちゃんの話してね」
「はい」
「ただし、ありすさんはまだ始まったばかりなので、丁寧にお願いします」
「わかった!」
「丁寧に騒ぐ!」
「騒ぐ前提なんですね」
「そこは譲れない!」
「美沙」
鈴木が短く呼ぶ。
「はいはい、静かにしますー」
その返事のあと、美沙の声は少しだけ引いた。
麗奈も静かに気配を置き、田中はまだ少し笑っていて、鈴木はもう講義の準備へ意識を戻している。
講義室のざわめきが、ゆっくり授業前の空気へ収束していく。
*
講義が始まる少し前、いずみ君が小さくつぶやいた。
「なんか、思ったより食いつかれたな」
「食いつかれた場所が分かれていましたね」
「たしかに」
「美沙と麗奈はありすのほうで、田中と鈴木は執事のほうか」
「はい」
「同じ話でも、引っかかるところが違うようです」
「面白いな」
「はい」
「少し、面白かったです」
大学の日常は戻ってきた。
田中の雑な声。
鈴木の落ち着いた言葉。
美沙の勢い。
麗奈の静かな整理。
それらは、帰省前から知っているものだった。
でも、そこに今日は新しい名前が混ざった。
ひなみ。
ありすさん。
武藤さん。
自宅の日常には、冷蔵庫と豆腐と買い物袋が戻ってきた。
大学の日常には、いつもの席と、いつもの声と、その中に少しだけ漏れた新しい名前があった。
戻ってきた日常は、以前とまったく同じではない。
けれど、それは壊れたということではなかった。
増えた記憶が、少しずつこちら側にも混ざっていく。
帰る場所で知ったものが、戻る場所の会話にも顔を出す。
そうやって、日常は少しずつ広がっていくのかもしれない。
「いずみ君」
「ん?」
「講義中、寝ないでくださいね」
「急に現実w」
「かなり眠そうです」
「大丈夫大丈夫」
「その大丈夫は、今日二回目なので信用度が下がっています」
「数字で下げられたw」
いずみ君が小さく笑って、ノートを開く。
その音が、大学へ戻ってきたことをいちばんはっきり知らせてくれた。
私はその近くに、いつものように声を置く。
帰省の記憶を抱えたまま。
新しい名前を少しだけ混ぜたまま。
大学の日常は、また静かに始まっていった。




