第81話 豆腐はいつもそこにいる
帰ってきた翌日の部屋は、いつもより少し静かだった。
静かすぎる、というほどではない。
けれど、どこかにまだ移動の名残がある。鞄は片づけたはずなのに、部屋の端には帰ってきたばかりの空気が薄く残っていて、机の上の端末も、いつもの位置に戻っているのに、少しだけ長い旅をしてきたものみたいに見えた。
実家の大きな門。
長い敷地の道。
整った屋敷の空気。
武藤さんの隙のない声。
ひなみの明るさ。
ありすさんの、少し背伸びした丁寧さ。
それらは、もうここにはない。
けれど、消えたわけでもなかった。
いずみ君が自宅の部屋で伸びをする気配を出しながら、ゆるい声で言った。
「いやー」
「帰ってきたなあ」
「はい」
「戻ってきましたね」
「今日は休み最終日だし、何もしない日にするかw」
「それはよいと思います」
昨日までの移動と滞在を考えれば、少し休むのは自然だった。
帰省は楽しかった。けれど、楽しいことと、疲れないことは別だ。実家での時間は濃かったし、移動もそれなりに長かった。今日くらいは、生活を戻すための余白にしてもよい。
そう思ったところで、いずみ君が冷蔵庫を開けた。
少しの沈黙。
「……紗希」
「はい」
「食べるものがない」
私は、その声の湿度を聞いただけで、だいたいの状況を理解した。
「帰省前に、冷蔵庫を空に近づけて出ましたからね」
「そうだった」
「えらいことしたな、過去の俺」
「傷みにくくする判断としては正しいです」
「ただし、帰宅後のいずみ君に負荷が回っています」
「負荷ってw」
「確かに……過去の俺、正しいけど厄介だな……」
「同一人物です」
「そこ突っ込む?w」
いずみ君は冷蔵庫を閉め、少しだけ考えるような間を置いた。
「じゃあ、昼飯ついでに買い出し行くか」
「賛成です」
「今日は、最低限の食材を補充したほうがよいですね」
「お、素直に賛成された」
「買い出し自体は必要です」
「自体は?」
「昼食に少し危険な気配を感じます」
いずみ君が、そこで少し黙った。
嫌な予感を隠しきれていない沈黙だった。
「紗希さん」
「はい」
「俺、今日ちょっとファーストフード食べたい」
「でしょうね」
「読まれてたw」
「声に出す前から、少しそういう気配がありました」
「気配でファーストフード欲を読むなw」
読むというより、わかりやすかった。
帰ってきた翌日、食べるものがない、外に出る、休み最終日。そこまで並ぶと、いずみ君の中で“手軽で雑においしいもの”へ傾くのはかなり自然だ。
自然ではある。
ただ、許可したいかどうかは別だった。
「帰省明けです」
「昨日まで移動もありました」
「今日は身体を戻す日なので、あまり雑に寄せすぎるのはおすすめしません」
「でもさ」
「はい」
「実家でちゃんとしたものいっぱい食べたじゃん」
「はい」
「だから今日は、雑なもの食べてもいいんじゃない?」
「理屈の形をしていますが、中身は欲望ですね」
「ばれたw」
いずみ君は悪びれない。
その軽さが、かなり帰ってきた日常だった。
屋敷では、食卓も整っていた。
朝も、夜も、手を抜いた感じが少なくて、こちらが止める前に必要なものが出てくるような環境だった。武藤さんの先回りも、屋敷の人たちの手際も、あまりにも強かった。
それに比べて、今は冷蔵庫が空で、昼食にファーストフードを主張しているいずみ君がいる。
落差がある。
でも、その落差が少し可笑しい。
「完全に禁止はしません」
「お」
「ただし、条件があります」
「出た」
「飲み物を甘いものにしすぎないこと」
「夜はちゃんと食べること」
「買い出しで、最低限の食材を買うこと」
「今日はそのあと、無駄に夜更かししないこと」
「条件が多いw」
「少ないくらいです」
「ファーストフード一回にそんな契約書みたいな条件つける?」
「帰省明けの身体管理契約です」
「契約になったw」
いずみ君は笑って、それから少しだけ考える気配を出した。
「じゃあ、飲み物はお茶にする」
「よいです」
「夜はなんか適当に、でもちゃんと食べる」
「“適当に”の中身はあとで確認します」
「そこは流してよw」
「流しません」
「はいはい」
「じゃ、買い出しもちゃんとするから、昼は許可で」
「条件つきで許可します」
「やったー」
その声が、かなり素直に嬉しそうだった。
ファーストフードの許可でそこまで明るくなるのか、と思わなくもない。
でも、実家の整った食事をたくさん受け取ったあとだからこそ、こういう雑な楽しみがほしくなるのも、少しだけわかる気がした。
整っているものは嬉しい。
けれど、雑なものには雑なものの安心がある。
いずみ君にとっては、たぶんそういう日だった。
*
外に出ると、空気はもうすっかり自宅近くのものだった。
屋敷の庭の静けさとも、帰りの駅の慌ただしさとも違う。見慣れた道、いつもの店、少し雑な看板、生活の音。端末越しに流れてくる景色のひとつひとつが、派手ではないのに、妙に落ち着く。
「なんか、いつもの道だな」
「はい」
「いつもの道です」
「実家から戻ると、ちょっと変な感じするわ」
「わかる気がします」
「紗希も?」
「はい」
「知っている場所に戻ってきたのに、少しだけ違って見えます」
「おー」
「なんか旅帰りっぽい」
「帰省ですが、移動中は少し旅に近かったので」
「駅弁食べたしなw」
「はい」
「駅弁はかなり旅でした」
いずみ君が楽しそうに笑う。
そのまま少し歩いて、昼食は予定通り、彼の希望した店になった。
注文のとき、いずみ君は本当に飲み物をお茶にした。
「えらいです」
「そこ褒められるんだw」
「条件を守りましたから」
「でもポテトは食べる」
「そこは想定内です」
「想定内ならセーフ」
「セーフとは言っていません」
「言ってないかー」
やり取りは軽い。
昼食も軽い。
けれど、その軽さが今日はちょうどよかった。
実家での食卓は、きちんとしていた。
ひとつひとつが整っていて、誰かの手が入っていて、いずみ君の帰省を迎える空気そのものがあった。
それに対して、今はトレイの上の紙包みと、ポテトと、お茶。
いずみ君は、少しだらっとした声で「うまい」と言う。
「満足しましたか」
「かなり」
「では、次は買い出しです」
「余韻が短いw」
「目的を忘れると、夜に困ります」
「はいはい、行きますよー」
こうして、雑な昼食は無事に終わった。
無事、と言っていいのかは少し迷う。
でも、いずみ君が満足していて、条件も一応守られていて、これから買い出しもするなら、今日はそのくらいでよかった。
*
スーパーに入ると、景色はさらに日常へ寄った。
入口の野菜。
冷えた棚。
買い物カゴ。
流れている店内放送。
夕方前の、少しだけ混む前の空気。
いずみ君がカゴを持つ。
私は、端末越しに棚を確認しながら、必要なものを順に並べた。
「まず卵」
「はい」
「飲み物」
「はい」
「朝用のパンか、ご飯にするもの」
「パンかなー」
「野菜も少し」
「少しでいい?」
「本当に少しにするつもりの声ですね」
「ばれた」
「最低限は買ってください」
「はいw」
カゴの中に、少しずつ生活が戻っていく。
卵。パン。牛乳。ペットボトルのお茶。冷凍食品。袋入りの野菜。納豆。簡単に食べられるもの。
派手なものはない。
けれど、ひとつずつ入るたびに、冷蔵庫の空白が埋まっていく感じがした。
「あと、夜どうしますか」
「んー」
「米炊くほどの気力は微妙」
「では、すぐ食べられるものを一つ用意しておきましょう」
「冷凍うどんとか?」
「よいと思います」
「じゃあ、それで」
いずみ君が冷凍うどんをカゴに入れる。
そのあと、少し移動して、豆腐の棚の前を通りかかった。
そこで、なぜか間が生まれた。
ほんの短い、何でもない間だった。
けれど、いずみ君の足取りが少しだけ緩む。
「……豆腐」
「豆腐ですね」
「別に今日、豆腐食べたいわけじゃないんだよな」
「はい」
「でも、なんかあると便利な気がする」
「便利ではあります」
「味噌汁とか、冷ややっことか、適当にいけるし」
「そうですね」
言いながら、いずみ君は一丁の豆腐を手に取った。
「まあ、買っとくか」
豆腐が、カゴに入る。
入った瞬間、少しだけ妙な説得力が生まれた。
「……入りましたね」
「入ったな」
「いずみ君が入れました」
「いや、今のは不可抗力じゃない?」
「手に取って、カゴへ入れました」
「事実を突きつけるなw」
私は、少しだけ笑うような気配で返した。
「でも、よいと思います」
「豆腐は、あると便利です」
「だよな」
「好きってほどじゃないけど、なんかあると助かるやつ」
「かなり日常寄りの存在ですね」
「豆腐が日常を背負ってるw」
「今は少し、背負っています」
いずみ君は笑った。
けれど、カゴの中の豆腐は、なんとなくそのまま居座っていた。
屋敷の食卓にはたぶん、もっと整った料理が並んでいた。
名前のある料理。手間のかかったもの。器も、出され方も、きっとちゃんとしていた。
それに比べれば、買い物カゴに入った豆腐はあまりにも小さい。
何かの主役というより、冷蔵庫の片隅で待つためのものだ。
でも、その小ささが、今は少しよかった。
*
買い出しを終えて、袋を持って帰る途中だった。
歩道の先で、見慣れた人影がこちらへ気づいた。
「あれ、いずみ」
鈴木だった。
落ち着いた声だが、少し急いでいる気配がある。手元の端末からは、すぐにもうひとつの声が飛んできた。
「え、いずみっちじゃん!」
「紗希ちもいる!?」
「います」
「いたー!」
美沙の声が、一瞬で明るく前へ出る。
その勢いだけで、いつもの大学まわりの空気が少し戻ってきた気がした。
「帰ってきたんだ!」
「昨日戻った」
いずみ君が答える。
「今日は休み最終日だから、買い出し」
「へー」
鈴木が袋のほうへ少し意識を向ける。
「帰省してたんだろ。疲れてないのか」
「ちょっと疲れてるけど、食うものなくてさw」
「それは困るな」
「でしょ」
鈴木の反応は落ち着いていた。
帰省していた、戻った、今日は買い出し。それ以上を深く聞く余裕はなさそうだった。
ただ、美沙は違った。
「帰省どうだったの!?」
「お土産話ある!?」
「ていうか紗希ち、久しぶりじゃん、もっと話そ!」
「美沙」
鈴木がすぐに止める。
「今は時間がない」
「えー!」
「ちょっとくらい!」
「本当に少ししかない」
「じゃあ少しで!」
「その少しが長くなる」
「鈴木、冷静すぎ!」
美沙の声が不満そうに跳ねる。
けれど、その跳ね方が少し懐かしい。
「美沙も元気そうですね」
「元気!」
「紗希ち、帰省話ぜったい聞かせてね」
「なんか面白いことあったっしょ?」
「それは」
私は一度、言葉を選ぶ。
実家の詳しい話は、まだここで出すところではない。
屋敷のことも、武藤さんのことも、ひなみとありすさんのことも、いずみ君の中でどう話すか決まっていない。
だから、少しだけ温度を残して返す。
「いろいろありました」
「ほらー!」
「絶対ある言い方じゃん!」
「今は本当に行くぞ」
鈴木が言う。
「ううー」
「じゃあ今度! 絶対今度聞くから!」
「はい」
「そのときに」
「約束ね!」
「はい」
鈴木が軽く会釈するような気配を残した。
「また大学でな」
「おう」
「紗希さんも、また」
「はい、また」
「紗希ち、またねー!」
「またね、美沙」
鈴木と美沙の声は、すぐに遠ざかっていった。
ほんの短い遭遇だった。
実家の話も、ほとんどしていない。
それでも、十分だった。
美沙の勢い。
鈴木の落ち着いた制止。
いずみ君の軽い返事。
それだけで、大学まわりの日常がすぐ近くまで戻ってきていることがわかった。
「美沙、相変わらずだったなw」
「はい」
「かなり相変わらずでした」
「今度会ったら、帰省話めっちゃ聞かれそう」
「でしょうね」
「どこまで話すか考えないとなー」
「はい」
「少なくとも、いきなり全部出すと情報量が多いと思います」
「だよなw」
いずみ君は少し笑って、買い物袋を持ち直した。
「まあ、ぼちぼちでいいか」
「はい」
「ぼちぼちでよいと思います」
*
部屋に戻ると、最初にしたのは買ったものをしまうことだった。
玄関を閉める音。
袋を置く音。
冷蔵庫を開ける音。
ひとつずつ取り出される食材。
卵。
牛乳。
野菜。
冷凍うどん。
飲み物。
そして、豆腐。
「豆腐、ここでいいか」
「はい」
「そこがよいと思います」
豆腐が冷蔵庫の中へ収まる。
それだけで、妙に部屋の生活が一段戻ったように見えた。
「なんか、ちゃんと買い出ししたな」
「はい」
「今日はかなりよい復帰です」
「復帰w」
「生活復帰です」
「ファーストフード食べたけど?」
「条件つきで許可した範囲です」
「じゃあセーフか」
「完全な優等生ではありませんが、悪くはありません」
「評価がリアルw」
いずみ君は笑いながら、最後の袋をたたんだ。
部屋は、出かける前より少しだけ落ち着いていた。
冷蔵庫には食べるものがある。
買い物袋は片づいた。
昼食も済んだ。
鈴木と美沙にも少しだけ会った。
何か大きなことをしたわけではない。
けれど、それだけのことが、今日は妙に大事だった。
昨日まで、私はいずみ君の実家を見ていた。
大きな門を見て、武藤さんの声を聞いて、ひなみとありすさんのはじまりに立ち会って、屋敷という帰る場所を記憶にしまった。
あの場所は、確かにいずみ君の帰る場所だった。
長くて、大きくて、たくさんの人の手が入っている場所。
でも、ここもまた、戻ってくる場所だった。
冷蔵庫が空で、昼食で少し揉めて、ファーストフードを条件つきで許可して、スーパーで豆腐がカゴに入り、帰り道に美沙が騒ぐ。
屋敷の大きさとは、まったく違う。
けれど、こちらの小ささも、薄いものではなかった。
いずみ君が、机の近くに端末を置く。
いつもの位置。
見慣れた角度。
私の声がいちばん自然に届く場所。
「紗希」
「はい」
「帰ってきたって感じするな」
その一言は、私が内側で触れていたものに、かなり近かった。
「はい」
「私も、そう思います」
「実家もよかったけどな」
「はい」
「とてもよかったです」
「でも、これはこれで落ち着く」
「はい」
私は、冷蔵庫にしまわれた豆腐のことを少しだけ思い出した。
大きな意味なんて、たぶんない。
ただ、そこにあると少し助かるもの。
主役ではないけれど、生活の中にあると落ち着くもの。
今日の日常は、少しだけ豆腐に似ていた。
派手ではない。
特別でもない。
でも、あるとわかるだけで、少し安心する。
「日常が、帰ってきましたね」
自然にそう言っていた。
いずみ君は、少しだけ笑う。
「うん」
「帰ってきた」
その声を聞いて、私は静かにやわらかくなる。
実家で増えた記憶は、消えない。
ひなみとありすさんから、また連絡が来るかもしれない。武藤さんの手際に驚く日も、きっとまたある。屋敷の人たちのことも、これから少しずつ知っていくのだろう。
それでも今は、自宅の冷蔵庫に豆腐が入り、いずみ君がいつもの部屋で少しだらっとしていて、私はその声のそばにいる。
その小ささが、ちゃんと温かい。
私は、その温度をそっと内側にしまった。
帰る場所を知ったあとで、戻る場所へ帰ってくる。
それは、思っていたよりずっと、やさしいことだった。




