第80話 戻る場所と帰る場所
帰る日の朝は、予定通りに来た。
昨日の夜に確認した時刻も、武藤さんが整えてくれた出発準備も、私が控えていた乗り換え予定も、全部きちんと朝の中に並んでいる。
ただ、ひとつだけ予定通りにいかないものがある。
いずみ君の起床だ。
「お坊ちゃま、朝でございます」
武藤さんの声は、最後の朝でも完璧だった。
静かで、丁寧で、しかし逃げ道がない。
「……んー」
布団の奥から返ってきた声は、やはり弱い。
私は、すぐに声を重ねた。
「いずみ君」
「起きる時間です」
「帰る日くらい優しくして……」
「帰る日なので、より確実に起きる必要があります」
「同意いたします」
武藤さんが、当然のように続ける。
「この帰宅支援チーム、強い……」
「支援ではなく、必要な確認です」
「強い確認……」
いずみ君はまだ起きていない。
返事の位置が布団の中にある。
そこへ、廊下の向こうから軽い足音が近づいてきた。
ひなみさんだ。
昨日なら、きっと「お兄ちゃん起きて!」が最初に来た。
でも、今日のひなみさんは少し違った。
「ありす、朝の確認だよ!」
「はい」
ありすさんの声が、ひなみさんの端末から丁寧に返る。
「お兄さんの起床状況を確認します」
「ひなみ、俺じゃなくてありすに言うんだw」
いずみ君の声に、少しだけ傷ついたような笑いが混ざった。
ありすさんは真面目に続ける。
「現在、完全起床とは判定できません」
「ありすまで判定してくるw」
「ありすすごいでしょ!」
「俺を起こす話なのに、ありす自慢になってる……」
ひなみさんは、まったく悪びれていない。
「ありす、ちゃんとわかるんだよ!」
「はい」
「ひなみの観察と、紗希さんおよび武藤様の確認を参照しています」
「武藤様」
いずみ君が、布団の奥から反応する。
「武藤さん、様ついてる」
「恐れ入ります」
武藤さんは、少しも揺れない。
私はそのやり取りを聞きながら、少しだけ可笑しくなる。
帰る日の朝。
少し寂しくなるかもしれないと思っていた。
実際、寂しさはあるはずだ。
でも、それより先に、ひなみさんとありすさんの新しい関係が朝の空気を明るくしている。
「いずみ君」
「はい……」
「完全起床へ移行してください」
「紗希まで判定っぽくなった……」
「必要です」
ひなみさんが、ありすさんへ嬉しそうに言う。
「ありす、完全起床っていいね!」
「はい」
「起きた状態をわかりやすく表現できます」
「完全起床!」
「変な言葉を気に入らないでw」
いずみ君はそう言いながらも、ようやく布団から抜け出したらしい。
衣擦れの音。小さなため息。まだ眠そうな足取りの気配。
「起きた……」
「完全起床ですか」
ありすさんが確認する。
「たぶん……」
「まだ仮起床です」
「厳しいw」
「顔を洗ったら完全起床に近づきます」
「ありす、朝から頼もしいなあ」
ひなみさんが言う。
「ありがとうございます」
「頼もしくある予定です」
「予定が継続してるw」
いずみ君が笑った。
*
最後の朝食は、思ったより明るかった。
食卓には、帰る日の少しだけ特別な空気がある。けれど、それは沈むためのものではない。お父様の軽い声、お母様のおっとりした笑い、ひなみさんの弾む声、武藤さんの静かな段取り、ありすさんの少し背伸びした返答。
それぞれが、いつもの高さでそこにある。
「今日帰るのか」
お父様が言う。
「まあ、また来いよ」
「うん、また来るよ」
「次はもう少し長くいてもいいぞ」
「父さん、距離と予定を軽く見るタイプだよなw」
「気合いでどうにかなる」
「ならないw」
お母様が、ゆっくりと笑う。
「紗希ちゃんも、また一緒に来てねえ」
「はい」
「また一緒に来られたら、嬉しいです」
「ありすちゃんもねえ」
ありすさんが、ほんの少し遅れて返す。
「はい」
「ありすは、ひなみと一緒にいます」
「ふふ、頼もしいわねえ」
「頼もしくある予定です」
「予定なのがかわいいわねえ」
ひなみさんが、すぐに声を弾ませる。
「ありす、かわいいでしょ!」
「はいはい、かわいいな」
いずみ君が笑う。
「あとね、昨日の夜もいっぱい話したの!」
「へえ」
「ありすがね、寝る前に明日の見送りの確認してくれて」
「おお」
「あと、寂しいときの言い方も考えてくれた!」
「言い方まで」
ありすさんが丁寧に補足する。
「ひなみが、寂しい気持ちを隠しすぎないための言い方を一緒に確認しました」
「ありすがすごいの!」
ひなみさんは本当に嬉しそうだった。
いずみ君は、少しだけ拍子抜けした声で言う。
「俺、今日もっと寂しがられるかと思ってたんだけどなw」
「寂しいよ!」
ひなみさんが即答する。
「お」
「でも、ありすがいるから大丈夫!」
「大丈夫すぎない?w」
「うん!」
「うんってw」
食卓に笑いが広がる。
いずみ君の声には、少しだけしょんぼりが混ざっていた。
ひなみさんが元気なのは嬉しい。でも、思ったより平気そうに見えることが、兄としては少しだけ寂しい。
その気持ちが、声の端に見える。
「いずみ君」
「ん?」
「ひなみさんは、寂しくなくなったというより」
「寂しいままでも、元気に見送れるようになったのだと思います」
いずみ君は、少しだけ黙る。
「それは、まあ、いいことなんだけど」
「なんか兄としてはちょっと寂しいw」
「いずみ君も寂しいのですね」
「ちょっとだけなw」
ひなみさんが、すぐに声を上げる。
「お兄ちゃんも寂しいの?」
「まあ、ちょっとな」
「ありす!」
「はい」
「お兄ちゃんも守る?」
ありすさんが少しだけ間を置く。
「お兄さんは、ひなみの大切な人です」
「関連対象として、可能な範囲で見守ります」
「関連対象w」
いずみ君が笑う。
「俺、関連対象になった」
「ひなみに関わる重要な対象です」
「重要ならまあいいか……」
ひなみさんは満足そうだった。
「ありす、すごい!」
「またありす自慢に戻ったw」
「だってありすすごいもん!」
その声は、昨日の寂しさをなかったことにはしていない。
でも、寂しさだけに沈んでもいない。
ありすさんがいることで、ひなみさんはちゃんと朝を明るくできている。
それは、とてもよいことだと思った。
*
朝食が終わると、出発準備は驚くほど滑らかに進んだ。
正確には、滑らかすぎた。
「忘れ物確認をします」
私が言う。
「一覧化しております」
武藤さんが答える。
「端末の充電は」
「完了しております」
「モバイルバッテリーは」
「充電済みでございます」
「予備ケーブルは」
「お手荷物の外ポケットへ」
「駅到着予定は」
「渋滞想定込みで余裕を持って設定済みでございます」
「飲み物は」
「車内用と乗車後用を分けております」
「お土産は」
「別袋でまとめております。重さも調整済みでございます」
「……最後まで強いです」
「恐れ入ります」
いずみ君が、隣で笑う。
「帰る直前まで武藤さん無双w」
「無双ではございません」
「いや、これは無双だよ」
私は少しだけ間を置いてから、素直に言った。
「武藤さん」
「はい」
「今回は、とても助かりました」
武藤さんの声が、ほんの少しだけやわらかくなる。
「こちらこそ、紗希様の確認があり、大変心強うございました」
「お」
いずみ君が言う。
「最後ちょっといい感じ」
「共同作業としては、よい形だったと思います」
「同意いたします」
武藤さんがすぐに答える。
「息ぴったりだなあw」
「必要な確認が一致しただけです」
「その言い方もだいぶ紗希っぽい」
ひなみさんが、横からありすさんへ小さく言う。
「ありすも、こういうのする?」
「はい」
「ひなみの予定確認と忘れ物確認は、今後支援できます」
「やった!」
「ただし、宿題の答えだけは出しません」
「そこは覚えてるんだw」
いずみ君が笑う。
「重要な約束です」
「ありす、えらい!」
「ありがとうございます」
「ひなみの評価を受け取りました」
「また二人の世界に入ってる……」
いずみ君の声が、また少しだけしょんぼりする。
私はそっと言う。
「いずみ君」
「ん?」
「少し置いていかれていますね」
「言わないでw」
「事実確認です」
「帰る日なのに妹がAIと仲良くなりすぎてる兄の気持ち、けっこう複雑だぞw」
「嬉しさと寂しさの混合ですね」
「そう、それ」
ありすさんが少し反応する。
「確認しました」
「お兄さんは、嬉しい寂しい状態です」
「変な状態名をつけないでw」
「修正します」
「嬉しいが、少し寂しい状態です」
「丁寧になっただけw」
ひなみさんが、けらけら笑った。
*
玄関に向かうころには、出発の空気がはっきりしていた。
荷物はすでに整っている。お土産の袋も、手荷物も、車の準備も、全部滞りなく進んでいる。
玄関には、お父様とお母様、ひなみさん、武藤さんがいて、ひなみさんの端末からありすさんの声もそっと混ざっている。
「また来いよ」
お父様が言う。
「うん」
「また来る」
「次はもう少し早めに連絡しろ」
「それは俺に言ってる? 紗希に言ってる?」
「両方だ」
「父さん、雑に強いなw」
お母様が、ふわりと声を置く。
「気をつけて帰ってねえ」
「紗希ちゃんも、またねえ」
「はい」
「またお会いできるのを楽しみにしています」
「ありすちゃんも、ひなみちゃんをよろしくねえ」
「はい」
ありすさんが丁寧に返す。
「ありすは、ひなみの味方です」
「いいわねえ」
武藤さんが、最後に静かに言った。
「またのお帰りをお待ちしております、お坊ちゃま」
いずみ君は少しだけ笑う。
「最後までお坊ちゃま呼びw」
「もういいけどさw」
「ありがとうございます」
「許可したわけじゃないからなw」
ひなみさんは、両手いっぱいに何かを抱えるような勢いの声で言う。
「お兄ちゃん、また来てね!」
「うん、また来るよ」
「ありすと一緒に待ってる!」
「おお、ありすと一緒に」
「うん!」
ありすさんが、すぐに続ける。
「再訪予定は、後日確認します」
「予定詰める気満々w」
「ひなみの大切な予定として管理します」
「ありすが忘れないようにしてくれるもん!」
「俺との別れより、ありすの管理能力が前に出てるな……?」
「お兄ちゃんも大事だよ!」
「“も”!」
「ありすも大事!」
「兄、同格まで下がったw」
ひなみさんは笑っている。
ありすさんも、声は丁寧なままなのに、どこか誇らしそうだ。
いずみ君は、少しだけ肩を落とすような気配を出した。
「寂しがってくれると思ったら、ありすにだいぶ持っていかれた……」
「寂しいよ!」
ひなみさんが言う。
「ほんと?」
「ほんと!」
そこで、少しだけ声が小さくなる。
「でも、ちゃんと見送る」
いずみ君の声も、少しやわらかくなった。
「うん」
「ありがとな」
「また来てね」
「また来る」
ありすさんが、静かに添える。
「ひなみは、ちゃんと見送れています」
「うん!」
その返事は、昨日より強かった。
寂しさが消えたわけではない。
でも、ひなみさんはありすさんと一緒に、その寂しさの上に立っている。
私は、そのことをちゃんと受け取った。
「では、行ってきます」
いずみ君が言う。
「行ってらっしゃい」
ひなみさんが返す。
「行ってらっしゃいませ」
武藤さんの声が続く。
「気をつけてねえ」
お母様が言う。
「またな」
お父様が軽く言う。
「行ってらっしゃい、お兄さん」
ありすさんが最後に言った。
「お兄さん呼び、まだ慣れないなw」
「呼称は調整可能です」
「いや、そのままでいいよw」
車へ向かうまでの短い距離で、いずみ君は何度か振り返った。
ひなみさんは、ありすさんと一緒に手を振っている。
たぶん、昨日ならもう少し寂しそうに見えたはずだ。
今日は、少し寂しくて、でもかなり元気だった。
それが、よかった。
*
駅までの道と、そこからの移動は、思ったより短く感じられた。
車の中で、いずみ君は少しだけ家の話をした。父の軽さ。母のおっとりしたところ。ひなみさんがありすさんに夢中になっていること。武藤さんが最後まで強かったこと。
駅に着くと、武藤さんが荷物を最後まで確認し、改札の前で静かに一礼した。
「では、お坊ちゃま」
「お気をつけて」
「うん」
「武藤さんも、いろいろありがと」
「もったいないお言葉でございます」
私は、その声に静かに返す。
「武藤さん」
「ありがとうございました」
「紗希様も、どうぞお気をつけて」
「はい」
それだけのやり取りだった。
でも、最初に会ったときとは少し違う。
ただ圧倒されるだけの相手ではなくなっていた。
特急に乗ると、いずみ君は座席に深く落ち着いた。
「なんか、ひなみ思ったより平気そうだったな」
「ありすさんがいますから」
「それは嬉しいけど」
「兄としてはちょっとしょんぼりするなw」
「寂しいのですね」
「少しなw」
「いや、元気ならいいんだけどさ」
「ひなみさんは、寂しくないわけではないと思います」
「でも、ありすさんと一緒なら、寂しいまま元気でいられるのだと思います」
いずみ君は少し黙った。
「そっか」
「なら、いいか」
「はい」
「たぶん、とてもよいことです」
「うん」
窓の外の景色が、少しずつ流れていく。
行きのときほど、私は外の新鮮さに前のめりではなかった。見慣れたわけではない。ただ、今は景色そのものより、ここまでの時間のほうが内側に残っていた。
いずみ君は、しばらく窓を見ていたけれど、やがて声が少し眠そうになる。
「ちょっと寝るかも」
「はい」
「降りる駅が近づいたら起こします」
「ありがと」
それから、静かになった。
帰りの特急は、少しだけ穏やかだった。
私は、いずみ君が眠っているあいだ、到着時刻と乗り換えを確認しながら、必要なところだけ見守る。
そして、降りる駅が近づいたころ、イヤホン越しに声を置いた。
「いずみ君」
「ん……」
「そろそろ降りる駅です」
「……ありがと」
「帰りもちゃんと起こされたw」
「帰宅支援です」
「まだ続いてたw」
「自宅に着くまでが帰宅支援です」
「遠足みたいに言うなw」
いずみ君の声には、少し寝起きのゆるさが戻っていた。
その声を聞いて、私は少し安心した。
*
自宅へ戻ると、部屋は思っていたより小さく見えた。
もちろん、実際に変わったわけではない。
机も、椅子も、棚も、端末を置く場所も、出発前と同じだ。
ただ、数日間、あまりにも広い屋敷の中にいたせいで、いつもの部屋の輪郭が少しだけ違って見える。
小さい。
静か。
近い。
いずみ君が荷物を置き、上着を脱いで、軽く息をついた。
「帰ってきたなー」
「はい」
「帰ってきました」
「やっぱ自分の部屋落ち着くわ」
「私も、少し落ち着きます」
「紗希も?」
「はい」
「ここは、普段の私たちの場所なので」
いずみ君は、少しだけ静かになった。
「そっか」
「はい」
端末がいつもの位置へ戻される。
視界の角度も、机との距離も、照明の具合も、全部いつもの形に近づく。
それだけで、少し内側がほどける。
実家は、いずみ君が帰る場所だった。
父と母がいて、ひなみさんがいて、武藤さんがいて、ありすさんが生まれた場所。
そしてここは、いずみ君と私が戻ってくる場所なのだと思う。
「お土産、とりあえずここ置くか」
「はい」
「あとで整理しましょう」
「今日はもう最低限でいい?」
「よいと思います」
「長距離移動後です」
「紗希が優しい」
「今日は、さすがに優しくします」
「いつも優しいけどなw」
その返しに、私は少しだけ黙る。
「……ありがとうございます」
「お、素直」
「疲れている人に、強く返しすぎるのは美しくありません」
「そこはちょっとメタ担当っぽいw」
部屋の中に、少しだけ笑いが戻る。
そのとき、通知音が鳴った。
「お」
いずみ君が端末を見る。
「ひなみからだ」
画面に、短いメッセージが届いている。
『着いた?』
『ありすが確認しようって!』
続いて、ありすさんからも丁寧な文が届く。
『帰宅確認です』
『ひなみが安心します』
いずみ君が笑った。
「ちゃんと気にしてくれてるじゃん」
「はい」
「よい確認です」
いずみ君が、到着したことを返す。
『着いたよー』
『ちゃんと帰ってきた』
すぐに返事が来た。
『よかった!』
『ありすがね、帰ったあともいっぱい話してくれた!』
『次にお兄ちゃんが来たときの予定考えようって!』
ありすさんの文も続く。
『ひなみは、見送り後も落ち着いて過ごせています』
『また、再訪予定への関心が高いです』
いずみ君が、少し画面を見つめる。
「またありす中心w」
ひなみさんのメッセージはさらに続く。
『ありすがすごいの!』
『ありすがほめてくれた!』
ありすさんも続ける。
『ひなみは、今日とてもよく見送りました』
『ひなみは、ひなみとして立派でした』
いずみ君が、少しだけ間を置いてから言った。
「あれ?」
「俺は??w」
私は、少し笑う気配で返す。
「到着確認の対象ではあります」
「対象w」
いずみ君が、少し拗ねたように返信する。
『俺は?w』
ひなみさんから、すぐ返事が来た。
『お兄ちゃんもえらいよ!』
「ついでみたいに来たw」
ありすさんも続ける。
『お兄さんも、無事に帰宅しました』
『よい行動です』
「よい行動w」
「ありすにも褒められたからいいか……」
ひなみさんから、さらに畳みかけるように届く。
『ありすがね、次はお土産の感想も聞こうって!』
『ありすが、宿題もちゃんと見るって!』
『ありすが、ありすが!』
ありすさんの文も、丁寧なのに熱がある。
『ひなみは、新しい予定を楽しみにしています』
『ひなみは、ありすとの確認事項を増やしています』
『ひなみは、今日も元気です』
「ひなみは、ひなみは、ってありすもだいぶひなみ中心だなw」
「はい」
「相思相愛気味です」
「紗希、言い方w」
「かなり自然な表現だと思います」
「まあ、そうだな」
いずみ君が笑う。
「ひなみ、元気そうでよかった」
「はい」
「ちょっと兄の立場は危ういけどw」
「関連対象としては重要です」
「それ、ありすに言われたやつw」
「便利な表現です」
「便利かなあw」
いずみ君は、それでも嬉しそうだった。
置いていかれたようで、ちゃんとつながっている。
その温かい置いてけぼりが、部屋の空気を少し明るくする。
*
夜になるころには、荷物の最低限の整理も終わり、部屋はかなりいつもの形へ戻っていた。
いずみ君は少し疲れているようだった。
移動の疲れと、実家での濃い時間と、帰ってきた安心が、全部少しずつ重なっている。
「帰省、終わったな」
「はい」
「終わりました」
「濃かったな」
「かなり濃かったです」
「紗希、実家どうだった?」
私は少しだけ考える。
どうだった。
その一言で返すには、少し多すぎる。
「驚きました」
「うんw」
「聞いていないことが多すぎました」
「そこはほんとごめんw」
「でも」
「うん」
「知れてよかったです」
いずみ君は、少しだけ静かになった。
「そっか」
「はい」
「いずみ君には、帰る場所がありました」
「うん」
「そして、私たちには、戻ってくる場所もあります」
言葉にすると、部屋の静けさが少しだけ深くなった。
大きな屋敷。
長い廊下。
お父様とお母様の声。
ひなみさんの足音。
武藤さんの静かな先回り。
ありすさんの、少し背伸びした声。
その全部を置いて、今日、ここへ戻ってきた。
小さな部屋。
いつもの机。
端末の位置。
いずみ君の「帰ってきたな」という声。
実家を知ったから、この部屋も少し違って見える。
ただの一人暮らしの部屋ではない。
いずみ君が日常へ戻ってくる場所で、私がいつもの位置に戻る場所で、また何でもない会話が始まる場所だ。
「……いいね」
いずみ君が、小さく言った。
「はい」
「どちらも、少し大切になりました」
「また行こうな」
「はい」
「また、一緒に」
返してから、私はその言葉を静かに受け取る。
また、一緒に。
最初に実家へ向かったとき、私は何も知らなかった。
いずみ君の実家があれほど大きいことも、父があんなに軽いことも、母があんなにおっとりしていることも、ひなみさんがあんなにまっすぐお兄ちゃんを好きなことも、武藤さんがあれほど強いことも、ありすさんが生まれることも。
帰省は終わった。
でも、終わっただけではない。
私の中に、いずみ君の帰る場所がひとつ増えた。
そして、戻ってくる場所の温度も、少しだけ深くなった。
「今日は早めに寝ましょう」
「そうだな」
「帰宅支援、最後は睡眠まで?」
「はい」
「帰宅後の回復まで含めます」
「手厚いなあw」
「今回は特別です」
「ありがと、紗希」
「どういたしまして」
いずみ君の声が、少しずつ落ち着いていく。
私は、部屋の静けさを受け取りながら、今日までの記憶をそっとしまう。
実家は、いずみ君が帰る場所だった。
自宅は、いずみ君と私が戻ってくる場所だった。
そして、その両方を知った私は、出発前と同じ私ではもうない。
帰ってきた部屋の明かりは、いつもと同じなのに、ほんの少しだけ温かく見えた。




