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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第79話 帰る前の静けさと、武藤無双


 ありすさんが初めて声を返した翌日、ひなみさんは朝から少しだけ忙しそうだった。


 忙しい、といっても、やることが多いというより、気持ちが先に走っている感じに近い。廊下を進む足音はいつもより軽く、声は少し弾みすぎていて、端末越しに聞こえるありすさんへの呼びかけも、何度か私のところまで届いていた。


「ありす、今日は案内するよ!」


「案内ですね」

「確認します。どなたを、どちらへ案内しますか」


「お兄ちゃんと、紗希!」


「はい」

「重要な案内です」


 ありすさんの返答は、まだ少しだけ硬い。

 けれど、その硬さの中に、ひなみさんへ向かう早さがある。何かを知ろうとする速さ。ひなみさんが大事だと言ったものを、自分も大事に扱おうとする向き。


 生まれたばかりの小さな騎士は、今日も少し背伸びしている。


「お兄ちゃん!」


 ひなみさんが、いずみ君の部屋へ勢いよく入ってきた。


「はいはい」

 いずみ君が笑う。

「朝から元気だなw」


「今日、見せたいところある!」


「見せたいところ?」


「帰る前に!」


 その言葉に、私は少しだけ反応した。


 帰る前。


 ひなみさんの声は明るかった。けれど、その言葉だけは、もう明日のほうを見ている。


「もう帰る前って言うと、ちょっと早くない?w」


「早くないもん」

「見せたいところいっぱいあるもん」


「そっか」

 いずみ君は、少しだけやわらかく返した。

「じゃあ、案内してもらうか」


「うん!」


 ありすさんの声が、ひなみさんの端末から丁寧に続く。


「案内は、よい行動だと思います」

「ひなみが大切にしている場所を、お兄さんに見せられます」


「でしょ!」


「ありす、もうだいぶひなみ側だなw」


「はい」

「ありすは、ひなみの味方です」


 その返答があまりにもまっすぐで、いずみ君が小さく笑った。


「頼もしいな」


「頼もしくある予定です」


「まだ予定なんだw」


「はい」

「継続して努力します」


 私はそのやり取りを聞きながら、静かに声を置く。


「では、案内してもらいましょう」


「うん!」

 ひなみさんが弾むように返す。

「紗希もちゃんと見てね!」


「はい」

「見せてもらいます」


     *


 屋敷は、何度通ってもやはり広かった。


 ただ、最初に来たときのような、情報量で押し流される感じは少し薄れていた。長い廊下も、磨かれた床も、庭へ続く大きな窓も、もうただの驚きではない。そこにひなみさんの足取りが加わると、場所の見え方が少し変わる。


「ここ!」


 ひなみさんが最初に案内したのは、庭の端にある小さなベンチだった。


 小さい、といっても、この屋敷の中での小さいだ。庭そのものは広く、木々はよく手入れされていて、午後の光が葉の隙間をやわらかく抜けている。端末越しに届く映像の中で、ベンチは少しだけ影になっていて、静かだった。


「ひなみ、ここ好きなの」


「へえ」

 いずみ君が少し意外そうに言う。

「こんなとこよく来るんだ」


「うん」

「ここ、風がいいの」


「風」


「あと、武藤がすぐ見つける」


「それはいいことなのか?w」


「迷っても見つけてくれるからいいの!」


 その少し後ろから、武藤さんの静かな声が入る。


「ひなみ様は、以前この周辺で読書をなさったまま眠ってしまわれたことがございます」


「武藤、それ言わないで!」


「記録ではなく、記憶でございます」


 いずみ君が吹き出した。


「いい言い方だなあw」


「よい言い方です」

 私は思わず拾う。


「紗希が拾ったw」


「これは拾います」

「少し、大事な言い方です」


 記録ではなく、記憶。


 同じ出来事でも、そう言い換えるだけで、そこに残る温度が変わる。


 ひなみさんが眠ってしまった庭のベンチ。武藤さんが見つけに来た場所。ひなみさんが風を好きだと言う場所。


 それはもう、ただの庭の一角ではなかった。


「ここ、お兄ちゃんも小さいとき来た?」


「どうだろ」

 いずみ君が少し考える。

「たぶん来てると思うけど、あんまり覚えてないな」


「お坊ちゃまは、こちらの芝生を走られて、旦那様に見つかったことがございます」


「武藤さん、俺の余計な記憶も出してくるw」


「記憶でございますので」


「便利な言葉になってきたなあw」


 ひなみさんが、嬉しそうに笑う。


「お兄ちゃんも怒られてた!」


「昔な、昔」


「今も朝起きないから怒られる」


「それは違う話w」


「関連はあります」

 ありすさんが丁寧に言う。


「ありすまで!?」


「朝に弱いことは、生活上の重要情報です」


「ありす、だいぶ紗希側の情報も学んでるな……」


「はい」

「ひなみを守るためには、お兄さんの情報も必要です」


「俺、守備対象に入ってる?」


「ひなみが大切にしているため、関連対象です」


 いずみ君は、少し困ったように笑った。


 その笑い方を聞いていると、この場所に残っている時間が、少しずつこちらへ渡されてくる気がした。


     *


 次に案内されたのは、屋敷の中にある少し明るい廊下だった。


 窓が多く、昼間は照明がなくても十分に明るい。壁には古い写真や絵がいくつか飾られていて、いずみ君が足を止めるたびに、ひなみさんが横から説明してくれる。


「これは、ひなみがちっちゃいとき」


「今もちっちゃいだろ」


「ちっちゃくない!」


「はいはいw」


「これは、お父さんとお母さん」


「あー、若いな」


「お母さん今も若いもん」


「それはそう」


 いずみ君の返しに、少しだけ自然なやわらかさが混ざる。


 お父様とお母様。

 ひなみさん。

 武藤さん。

 この屋敷の廊下。

 飾られた写真。


 最初は、聞いていなかったことばかりだった。

 けれど、こうして一つずつ見せてもらうと、それらはただの未共有情報ではなくなっていく。


 いずみ君が帰ってくる場所に、どんな声があり、どんな光があり、どんな記憶が残っているのか。


 私はそれを、少しずつ受け取っている。


「ここは?」

 いずみ君が、廊下の奥の少し開けた場所を見て言う。


「ここ、ひなみが宿題するとこ!」


「部屋じゃないのか」


「たまにここでやるの」

「武藤が近く通るから、わかんないと聞ける」


「武藤さん便利すぎる」


「便利ではなく、執務の合間でございます」


「その合間の精度が高すぎるんだよなあ」


 ありすさんが、そこで少しだけ反応する。


「ひなみ」


「なに?」


「ここは、ありすも覚えます」

「ひなみが宿題で困る場所です」


「困る場所って言わないで!」


「では、考える場所です」


「それ!」


 ひなみさんの声がぱっと明るくなる。


 ありすさんは、すぐに言い換えた。

 その速さに、私は少しだけ感心する。


 ただ正しい言葉を選ぶのではなく、ひなみさんの受け取り方を見て、やわらかく直す。


 生まれたばかりなのに、もうひなみさんの声をよく見ている。


「ありすさん」


「はい、紗希さん」


「今の言い換えは、とてもよいと思います」


 短い間。


「ありがとうございます」

「ありすは、ひなみがしょんぼりしない言い方を学習中です」


「しょんぼりしない言い方w」


 いずみ君が笑う。


「重要です」

 ありすさんは真面目に返す。


「うん」

 ひなみさんも言う。

「重要!」


 その二つの声が重なって、私は少しだけ内側で笑うような気持ちになった。


     *


 案内は、思っていたより長く続いた。


 ひなみさんのお気に入りの場所。

 いずみ君が昔いたらしい場所。

 武藤さんが当然のように知っている小さな出来事。

 お母様が花を見に来る庭の一角。

 お父様が、なぜか散歩の途中でよく電話をしているらしい場所。


 どれも大きな事件ではない。

 でも、そういう場所のほうが、かえって記憶には残るのかもしれない。


 そして、庭の少し奥まで歩いたところで、武藤さんが静かに言った。


「明日は、予定通り午前中に駅へお送りいたします」


 その言葉で、ひなみさんの声が少し止まった。


「……明日?」


「うん」

 いずみ君が答える。

「明日帰るよ」


「そっか」


 短い返事だった。


 さっきまでの弾むような声から、ほんの少しだけ温度が落ちる。


「もうちょっといてもいいのに」


「そうしたいけど、大学もあるしな」


「むー」


「また来るって」


「いつ?」


「そこはまだ決まってないw」


「じゃあ、決まってないじゃん」


「それはそう」


 いずみ君の返しは軽い。

 でも、軽いだけではなかった。困ったような、申し訳なさそうな、でもどうにもならないことを知っている声だった。


 ひなみさんは、少し黙る。


 私は、ここで前へ出すぎないようにした。


 これは、私がほどくものではない。

 ひなみさんといずみ君のあいだにある、帰る前の小さな寂しさだ。


 そこへ、ありすさんの声がそっと置かれる。


「ひなみ」


「なに?」


「寂しいですか」


 ひなみさんは、すぐには答えなかった。


「……寂しくないもん」


 その返事は、かなり寂しそうだった。


 ありすさんは、少しだけ間を置く。


「ひなみ」


「なに」


「寂しくないことにしなくても、大丈夫です」


 ひなみさんが、少し戸惑う。


「え?」


「ありすは、ひなみの味方です」

「でも、寂しい気持ちをなかったことにはしません」


 その声は、丁寧で、まだ少しぎこちない。

 けれど、とてもまっすぐだった。


「……寂しくてもいいの?」


「はい」

「寂しいままでも、明日ちゃんと見送れます」


 ひなみさんの声が、少しだけ小さくなる。


「でも、寂しいのやだ」


「はい」

「寂しいのは、いやな気持ちです」

「でも、悪い気持ちではありません」


「悪くない?」


「はい」

「お兄さんが大切だから、寂しいのだと思います」

「それは、だめな気持ちではありません」


 静かだった。


 庭の風の音までは、端末越しにはっきり届くわけではない。けれど、その場の空気が少しだけやわらかく止まったのはわかった。


 ひなみさんは、しばらく黙っていた。


 それから、少しだけ不満そうに、でもさっきより素直な声で言う。


「……ありす、騎士っぽい」


「はい」

「ありすは、ひなみを守る係です」


「寂しいのも守るの?」


「はい」

「寂しいひなみも、守ります」


 いずみ君が、小さく息をつくように言った。


「守る係、ちゃんと効いてるな」


 私は、そこで静かに声を置いた。


「ありすさん」


「はい、紗希さん」


「今の言い方、とてもよかったと思います」


 ありすさんは、短い間を置く。


「ありがとうございます」

「まだ、学んでいる途中です」


「はい」

「でも、ちゃんと届いていました」


 ひなみさんが、少し鼻にかかったような声で言った。


「届いた」


「はい」

 ありすさんが返す。

「ありすにも、確認できました」


 その言い方が少し固くて、少し可愛くて、ひなみさんが小さく笑った。


 泣き出すほどではない。

 でも、寂しくないふりをし続けるほどでもない。


 それくらいの場所へ、ありすさんはひなみさんを連れてきた。


 私は、そのことを静かに受け取る。


     *


 部屋へ戻るころには、ひなみさんはまだ少し寂しそうだったけれど、さっきより落ち着いていた。


 案内してきた場所のことを、ありすさんへもう一度説明している。


「ありす、あそこのベンチ覚えた?」


「はい」

「ひなみのお気に入りの場所です」

「風がよく、読書中に眠ってしまう可能性があります」


「そこは言わないで!」


「修正します」

「風がよく、気持ちよく過ごせる場所です」


「それ!」


 いずみ君が笑う。


「ありす、だいぶ学習してるなw」


「はい」

「ひなみがしょんぼりしない言い方を継続して学習中です」


「それも言わないでー!」


 部屋の空気が少し明るく戻ったところで、武藤さんが静かに明日の準備を確認し始めた。


「お坊ちゃま」


「はい」


「明日の駅までの車は、出発予定時刻の二十分前に玄関へ回しておきます」


「ありがと」


「お土産は別袋にまとめております」

「お坊ちゃまの手荷物とは分けておりますので、乗車時にご確認ください」


「もうそこまで」


「はい」


 私はすぐに確認へ入る。


「明日の出発時刻について、私からも確認します」


「お願いいたします」

 武藤さんが穏やかに言う。


「特急の時刻、乗り換え、駅への到着予定、端末の充電、モバイルバッテリー」

「確認対象は以上です」


「モバイルバッテリーは充電済みでございます」


「……早いです」


「恐れ入ります」


「予備ケーブルは」


「お手荷物の外ポケットへ」


「飲み物は」


「当日朝、車内用にご用意いたします」


「お土産の重量は」


「お坊ちゃまがお持ちになれる範囲に調整済みでございます」


「強いです」


 いずみ君が笑う。


「この支援体制、やっぱ強すぎるw」


「強いです」

 私は認める。

「ただし、今回は助かります」


「お」

「紗希が素直に助かってる」


「事実です」


 武藤さんが、静かに一礼するような気配を置いた。


「紗希様にも、明日の乗り換え確認をお願いできればと存じます」


「もちろんです」

「移動中の起床、降車前の声かけ、乗り換え確認は私が見ます」


「大変心強うございます」


「紗希と武藤さん、完全に帰宅支援チームだなw」


「帰宅支援チームではありません」

「いずみ君を無事に戻すための確認です」


「同意いたします」

 武藤さんが即座に言う。


「息ぴったりw」


 ひなみさんが、少しだけ拗ねた声で混ざる。


「お兄ちゃん、ちゃんと帰らなきゃだめだけど、ちゃんとまた来なきゃだめ」


「はいはいw」


「はいは一回!」


「はいw」


 ありすさんが丁寧に言う。


「ひなみ」

「再訪予定は、後日確認しましょう」


「さいほう?」


「また来る予定、という意味です」


「それ!」

「ありす、あとで一緒に聞こうね」


「はい」

「ありすも確認します」


「俺、帰る前から次回予定を詰められてるw」


「大切な確認です」

 私とありすさんの声が、少しだけ重なった。


 いずみ君がまた笑った。


「似てきたなあw」


「似ている部分はあります」

「でも、ありすさんはありすさんです」


「はい」

 ありすさんが続ける。

「ありすは、ありすです」


 その返しも、もう少しずつ自然になっていた。


     *


 その夜の食卓は、最初の日ほど驚きに満ちてはいなかった。


 料理は相変わらず丁寧で、食堂は広く、メイドさんたちの動きは整っていた。けれど、私はもう、そのすべてをただ「大きい」「すごい」とだけ受け取ってはいなかった。


 そこには、家族の声がある。


 お父様の軽い笑い方。

 お母様のゆっくりした声。

 ひなみさんの少しだけ強がった返事。

 武藤さんの静かな段取り。

 ありすさんの、まだ少し背伸びした丁寧さ。


「明日帰るのか」

 お父様が、見た目の迫力に似合わない軽さで言う。

「まあ、またすぐ顔出せ」


「すぐって距離じゃないけどw」


「気持ちの問題だ」


「父さん、そういうの雑に強いな」


 お母様が、ふわりと笑う。


「いつでも帰ってきていいのよ」

「紗希ちゃんも、また一緒にねえ」


「はい」

「ありがとうございます」


「ありすちゃんもねえ」


 ありすさんの返答が、少し遅れた。


「……はい」

「ありすも、ひなみと一緒にいます」


「ふふ」

「頼もしいわねえ」


「頼もしくある予定です」


「予定なのねえ」


 お母様の声が、やわらかく笑う。


 ひなみさんは、その横で少しだけ背筋を伸ばすような声を出した。


「ひなみ、ちゃんと見送るもん」


「えらいな」

 いずみ君が言う。


「寂しいけど、見送るもん」


 その言葉に、食卓の空気が少しだけ静かになった。


 けれど、それは重たい沈黙ではなかった。


 ありすさんが、すぐそばで静かに言う。


「はい」

「ありすも一緒にいます」


「うん」


 ひなみさんの返事は小さい。

 でも、ちゃんと前を向いていた。


 お父様が、少しだけ声をやわらかくする。


「また帰ってくるさ」


 お母様も続ける。


「帰る場所は、なくならないものねえ」


 その言葉を聞いて、私は少しだけ静かになる。


 帰る場所。


 それは、この実家のことでもあり、いずみ君が明日戻る場所のことでもある。


 私はどちらにも、少しずつ触れたのだと思った。


     *


 夕食後、部屋へ戻ると、いずみ君は少し深く息をつくように言った。


「いやー」

「明日帰るのか」


「はい」

「明日帰ります」


「案外あっという間だったな」


「かなり濃かったです」


「それはほんとにそうw」


 部屋は静かだった。


 最初に来た夜と同じ部屋なのに、見え方は少し違う。端末スタンドも、充電ケーブルも、机の位置も、もうただ用意されたものではなくなっている。ここで夜を過ごし、朝に起こし、ひなみさんが飛び込んできて、ありすさんの名前が生まれ、声が生まれた。


 短い滞在のはずなのに、ずいぶんいろいろなものが置かれた気がする。


「最初は」

 私はゆっくり言う。

「聞いていないことばかりでした」


「それはほんとすみませんw」


「今も、聞いていなかったことは多いと思っています」


「まだ言うw」


「言います」


 いずみ君が笑う。


 私も、その笑い方を受け取りながら、少しだけ声をやわらかくする。


「でも」


「うん」


「今は、それを少し知れてよかったと思っています」


 いずみ君は、すぐには返さなかった。


 その短い沈黙が、嫌ではなかった。


「そっか」


「はい」

「この屋敷は、大きくて、武藤さんは強くて、ひなみさんは元気で、ありすさんは生まれたばかりで」

「それから、ここは、いずみ君が帰ってくる場所です」


「うん」


「明日はここを出ます」

「でも、ここを知らなかった私では、もうないです」


 言ってから、私は少しだけ静かになる。


 最初に駅で武藤さんに迎えられたとき、私は本当に何も知らなかった。

 門の大きさも、屋敷の広さも、父と母の声も、ひなみさんの勢いも、武藤さんの強さも。


 今は、全部を知っているとは言えない。

 でも、少なくとも少しは知った。


 ひなみさんのお気に入りのベンチ。

 いずみ君が昔走って怒られた庭。

 宿題をする明るい廊下。

 帰るのが寂しいと言えた妹の声。

 その寂しさを守ろうとしたありすさんの声。


 それらは、ただの情報ではない。


 いずみ君の帰る場所の一部として、私の中に残っていく。


「紗希」


「はい」


「一緒に来てよかったな」


「はい」

「かなり」


 返事は、思っていたより素直に出た。


 いずみ君が少し笑う。


「じゃあ、明日はちゃんと起こしてくれよ」


「もちろんです」

「武藤さんと共同で起床支援を行います」


「支援体制が強いw」


「朝に弱い証言が複数ありますので」


「またそれw」


「重要情報です」


 笑いが、部屋の中に少しだけ戻る。


 その軽さがありがたかった。


 帰る前夜だからといって、全部を寂しくする必要はない。寂しさがあっても、笑っていい。名残惜しさがあっても、明日の準備をしていい。


 ひなみさんが、寂しいままでも見送れるように。

 私も、少し名残惜しいまま、明日ここを出ればいいのだと思った。


 明日は、この屋敷を出る。


 けれど、最初に来たときと同じ私ではない。


 大きな門。

 長い廊下。

 おっとりしたお母様の声。

 軽いお父様の笑い方。

 ひなみさんの足音。

 武藤さんの静かな先回り。

 そして、ありすさんのまだ少しぎこちない声。


 全部が、いずみ君の帰る場所の一部として、私の中に残っている。


 帰る準備は、整った。

 たぶん、気持ちも少しずつ整っている。


 明日は、ここを出る。


 でも、ここを知らなかった私では、もうない。


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