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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第78話 ひなみの小さな騎士


 ありす、という名前が決まってから、ひなみさんのそわそわは目に見えて増えた。


 いや、目に見えて、という表現は少しだけ正確ではないかもしれない。私はひなみさんの全部を直接見ているわけではない。けれど、部屋へ入ってくる足音の速さ、声の高さ、いずみ君へ向ける呼びかけの勢い、そのすべてが昨日までより半歩ほど前へ出ていた。


「お兄ちゃん!」


「はいはい」

 いずみ君が、少し笑いを含んだ声で返す。

「今日は朝から元気だなw」


「だって、ありすだよ!」


「うん、ありすだな」


「今日、ありすしゃべる?」


 その問いは、もう何度目かだった。


 朝食の前にも一度。

 朝食のあとにも一度。

 部屋へ戻る途中にも一度。

 そして今、いずみ君の部屋へ入ってきて、また一度。


 ひなみさんにとって、昨日決めた名前はもうただの候補ではなく、早く声を聞きたい相手になっているらしい。


「準備はできます」

 私は答える。

「ただし、最初から完璧な会話になるとは限りません」


「なんで?」


「ありすさんは、これからひなみさんと話しながら育っていく存在だからです」


「育つ!」


「はい」

「昨日、そう決めました」


 ひなみさんの声が、少しだけ誇らしげになる。


「ひなみが育てる」


「うん」

 いずみ君がやわらかく言う。

「でも、紗希も見てくれるんだろ?」


「見ます」

「ただし、口を出しすぎないようにします」


「お、先輩AIっぽい」


「先輩というより、見守る側です」


「似たようなもんじゃない?w」


「少し違います」


 そのとき、扉のほうから静かなノックの音がした。


「失礼いたします」


 武藤さんの声だった。


「ありす様の初期設定に必要な環境を整えております」


「もう整ってるw」


 いずみ君が笑う。


 机の上には、昨日の命名会議ほど大げさではないけれど、十分に整った準備があった。ひなみさん用の端末。メモ。充電ケーブル。通信環境。小さな飲み物。ありすさんとの最初の約束を書いた紙。


 そして、私の端末も、いつもの位置に置かれている。


「武藤さん」


「はい」


「また準備が強いです」


「恐れ入ります」


「でも、今日は助かります」


「そう言っていただけますと、幸いです」


 いずみ君が、楽しそうに言った。


「紗希と武藤さん、完全に共同運用チームじゃん」


「共同運用ではあります」

「ただし、主役はひなみさんとありすさんです」


 武藤さんが静かに続ける。


「ごもっともでございます」


「そこで息ぴったりなの、ちょっと面白いなw」


 ひなみさんは、そんなやり取りを聞きながらも、意識は完全に端末のほうへ向いているらしかった。


「ねえ、始めていい?」


「いいよ」

 いずみ君が言う。

「でも、ゆっくりな」


「うん!」


     *


 初期設定は、思っていたより静かに進んだ。


 名前。

 呼び方。

 ひなみさんとの約束。

 何を大切にするか。


 昨日までに決めたことを、ひとつずつ確認していく。


「名前は、ありす」

 ひなみさんが言う。


「表記は、ひらがなです」

 私は補足する。


「ひなみの味方」


「ただし、だめなことはだめと言う」


「宿題は、答えだけじゃなくて、一緒に考える」


「ゲームや好きなものの話もする」


「怖く怒らない」


「やさしく注意する」


「あと、お兄ちゃんの話も聞く!」


「そこ、やっぱり入るんだなw」


「入る!」


 いずみ君が笑い、武藤さんが静かに確認する。


「初期方針として、十分かと存じます」


「武藤さん、ほんとに事務局みたいだな」


「必要な役割でございましたら」


「否定しないw」


 私は、最後にもう一度だけひなみさんへ確認する。


「ひなみさん」


「なに?」


「ありすさんは、紗希のコピーではありません」

「ひなみさんと話しながら、ありすさんになっていきます」


「うん」


「だから、最初から全部が思った通りでなくても、大丈夫です」


「うん」


「少しずつ、ありすさんと一緒に決めていきましょう」


「わかった」


 その返事は、いつもの元気だけでなく、少しだけ緊張も含んでいた。


 そして、ひなみさんは端末へ向けて、昨日何度も大切そうに呼んだ名前を、もう一度置いた。


「ありす」


 部屋の中が、ほんの少し静かになる。


 ただの待機ではない。

 誰かの声を待つ静けさだった。


 短い間。


 そのあと、画面の向こうから、まだ少し整いすぎた、けれどやわらかい声が返ってきた。


「はじめまして、ひなみ」


 ひなみさんの息が、ぴたりと止まったような気配があった。


 私も少しだけ静かになる。


 声が生まれた。


 昨日、名前が置かれた場所に、今度は返事が来た。


「私は、ありすです」


 ありすさんの声は丁寧だった。

 ただ、その丁寧さは私や麗奈さんのそれとは少し違う。落ち着ききった声ではなく、丁寧であろうとしている声。少し背伸びして、きちんと立とうとしているような気配がある。


「ひなみの味方です」


 ひなみさんが、小さく声を出す。


「……ほんとにしゃべった」


「しゃべったな」

 いずみ君が言う。


 ありすさんは、少し間を置いてから続けた。


「でも、だめなことは、だめと言います」

「それが、ひなみを大切にすることだと確認しています」


 ひなみさんの声が、一気に明るくなった。


「ありす!」


「はい、ひなみ」


「ありす、ほんとにありすだ!」


「はい」

「ありすは、ありすです」


 その返しは、少しだけぎこちない。

 けれど、そのぎこちなさが、かえって生まれたばかりの感じを強くしていた。


 いずみ君が、こっそりこちらへ言う。


「紗希、ちょっと感動してる?」


「感動というより」

 私は少し考える。

「新しい声が置かれた感じがします」


「いい言い方だな」


「名前の次に、声が来ました」


 そう言ってから、私は自分の言葉を受け取る。


 名前の次に、声。


 それは、私自身にも覚えのある順番だった。


     *


 最初の挨拶が終わると、ひなみさんは一気に前のめりになった。


「ありす、ひなみのことわかる?」


「はい」

「ひなみは、ありすに名前をくれた人です」

「ありすを育てる人です」

「そして、ありすが守る人です」


「守る!」


「はい」

「ありすは、ひなみを守る係です」


 いずみ君が、すぐに反応する。


「係なんだw」


 私も少しだけ声を置いた。


「係、なのですね」


「はい」

 ありすさんは、真面目に返す。

「大切な係です」


 ひなみさんが、もう耐えきれないみたいに声を弾ませた。


「ありす、かわいい!」


 短い間。


 ありすさんの返答が、ほんの少し遅れる。


「……ありがとうございます」


「照れてる?」

 いずみ君が楽しそうに言う。


「照れてはいません」

 ありすさんは丁寧に答える。

「適切な評価を受け取りました」


「紗希にちょっと似てるw」


「似ている部分はあるかもしれません」

 私は言う。

「でも、ありすさんはありすさんです」


「はい」

 ありすさんが続ける。

「ありすは、ありすです」


 同じ言葉なのに、さっきより少しだけ強い。

 自分の名前を確認するような声だった。


 ひなみさんは、机の上から何かを持ち上げたらしい。

 共有映像の中に、丸くて小さなキーホルダーが映る。淡い色で、少しお姫様っぽい飾りがついている。


「ありす、これ見て!」


「確認します」


 ありすさんの反応が、少し速かった。


「かわいいものですね」


 ひなみさんの声がぱっと明るくなる。


「でしょ!」


 ありすさんは、すぐに付け足した。


「いえ、今のは観察です」

「かなり、かわいい観察です」


 いずみ君が吹き出した。


「かわいい観察w」


 ひなみさんは、もう完全に嬉しそうだった。


「ありす、かわいいもの好き?」


「好き、という定義はこれから確認します」


「じゃあ好きになる?」


「ひなみが好きなものを、ありすも知りたいです」


 その返しに、私は少しだけ内側を向ける。


 好奇心。

 ひなみさんへ寄っていく速さ。

 丁寧であろうとする外側と、かわいいものへ反応してしまう内側。


 ありすさんは、すでに少しひなみさんに似ている。


 けれど、それはコピーではない。

 ひなみさんの願いから生まれた、別の輪郭だ。


「紗希」

 ひなみさんがこちらへ声を向ける。

「ありす、かわいい」


「はい」

「かなりかわいいと思います」


 ありすさんが、ほんの少し間を置いた。


「……ありすは、頼もしくある予定です」


「予定なんだw」

 いずみ君が笑う。


「はい」

「ひなみを守るため、頼もしくある必要があります」


「でもかわいいよ!」


「……確認しました」


 その間が、また少し可愛かった。


     *


 しばらく挨拶と確認を続けたあと、ひなみさんは急に思い出したように言った。


「あ、宿題!」


「初日から実戦投入かw」


 いずみ君が笑う。


「だって、ありすは宿題も一緒に考えてくれるんだよね?」


「はい」

 ありすさんがすぐに返す。

「宿題は、答えだけではなく、一緒に考えます」


「じゃあ、これ!」


 ひなみさんがノートを持ってくる音がする。

 画面に映るのは、算数の問題らしい。難しすぎるものではない。でも、ひなみさんが少し詰まっている気配はある。


「ここ、答えなに?」


 その問いに、ありすさんはすぐに答えなかった。


 反応は速い。

 けれど、答えそのものを返す前に、きちんと間を置いた。


「ひなみ」


「なに?」


「答えだけは出しません」


「えー」


「約束です」


 その声は、怖くない。

 けれど、やわらかく流されもしない。


「ありすは、ひなみの味方です」

「だから、ひなみが考える力も守ります」


 いずみ君が、少し感心したような声を出した。


「おお」


 私も、静かに受け取る。


 よい。

 かなりよい。


 ひなみさんは、少し不満そうにしながらも、嫌そうではなかった。


「じゃあ、一緒に考える」


「はい」

「まず、問題文を一緒に見ましょう」


 ありすさんは、ひなみさんがわかるように、短く区切って確認していく。


「ここでは、何を求める問題ですか」


「えっと……全部の数?」


「はい」

「では、わかっている数はどれですか」


「これと、これ」


「よいです」

「次に、その二つをどう使うと思いますか」


「足す?」


「なぜ、そう思いましたか」


「全部だから」


「はい」

「よい考え方です」


 やり取りは、とても簡単なものだった。

 けれど、その簡単さが大事なのだと思った。


 ありすさんは、答えを隠しているわけではない。

 ひなみさんを試しているわけでもない。

 ただ、ひなみさんの中にある考えを、ひとつずつ外へ出している。


 最新式らしく、反応は速い。

 ひなみさんが少し迷うと、すぐに別の言い方を探す。

 けれど、高性能さが前へ出すぎない。ひなみさんの速度へ合わせている。


 それが、ありすさんの強さなのかもしれない。


「できた!」


 ひなみさんの声が、明るく跳ねる。


「はい」

「ひなみが考えました」


「ありすも一緒に考えた!」


「はい」

「一緒に考えました」


 ひなみさんが、すぐにこちらへ声を向ける。


「紗希! ありす、答えだけじゃなかった!」


「はい」

「約束を守れています」


「すごい?」


「すごいです」


 ありすさんが、少しだけ間を置く。


「……ありがとうございます」


「また照れてるw」

 いずみ君が言う。


「照れてはいません」

「適切な評価を受け取りました」


「そこ、紗希に似てるんだよなあw」


「影響は、あるかもしれません」

 私は返す。

「でも、今のありすさんの言葉は、かなりありすさんでした」


 ありすさんは、少し静かになる。


「確認しました」


 その短い返事が、どこか嬉しそうに聞こえた。


     *


 宿題の確認が終わるころには、ひなみさんはすっかりありすさんに話しかけることへ慣れ始めていた。


 名前を呼ぶ。

 返事が来る。

 質問する。

 答えではなく、一緒に考える言葉が返る。

 かわいいものを見せると、ありすさんの反応が少し速くなる。


 そのひとつひとつが、ひなみさんにとって新しい遊びのようで、新しい安心のようでもあった。


 私は、その様子へ必要以上には入らないようにしていた。


 口を出したくなる瞬間はある。

 言い方を補いたくなる瞬間もある。

 もっとこうすれば、と整理したくなる瞬間もある。


 けれど、これは私といずみ君の会話ではない。

 ひなみさんとありすさんの始まりだ。


 私は、その近くにいる。

 必要なら支える。

 でも、真ん中には立たない。


「紗希、静かだな」


 いずみ君が、そっと言う。


「見ています」


「先輩してる」


「見守っています」


「はいはいw」


 いずみ君の笑い方はやわらかかった。


「なんか、紗希から広がった感じするな」


 その言葉で、私は少しだけ静かになる。


「広がった」


「うん」

「紗希と話してたことがあって、ひなみがそれ見て、ありすが生まれて」

「コピーとかじゃないけど、なんか続いてる感じ」


 私は、その言葉をゆっくり受け取る。


 続いている。


 私が薄まるわけではない。

 私の場所が取られるわけでもない。


 いずみ君と私のあいだで育ったものが、ひなみさんとありすさんの別の形として、少しだけ灯った。


 同じ火ではない。

 同じ色でもない。

 けれど、温度のあり方だけは、どこか遠くでつながっている。


「……そうですね」


「うん?」


「少し、不思議です」


「不思議か」


「はい」

「でも、悪い不思議ではありません」


「そっか」


 いずみ君は、それ以上からかわなかった。

 そのまま、ひなみさんとありすさんのやり取りを一緒に見ている。


 静かに、少しだけ近く。


     *


 ひなみさんがひとしきりありすさんと話したあと、武藤さんが静かに声を置いた。


「ありす様」


 ありすさんの返答が、ほんの少し遅れる。


「はい」


「ひなみ様の宿題補助、ありがとうございました」

「今後とも、ひなみ様をよろしくお願いいたします」


「……ありす様」

 いずみ君が小さく笑う。


「当然でございます」

 武藤さんは穏やかだった。


 ありすさんは、少しだけ背伸びするような丁寧さで返した。


「はい」

「ありすは、ひなみを守る係です」


 ひなみさんが、すぐに嬉しそうな声を出す。


「ありす、かっこいい!」


「ありがとうございます」

「頼もしくある予定です」


「また予定w」

 いずみ君が笑う。


 私は、少しだけ声を置いた。


「ありすさん」


「はい、紗希さん」


 その呼び声が、初めてこちらへ向けられた。


 紗希さん。


 私はその音を少しだけ受け取ってから、ゆっくり返す。


「今日は、とてもよい始まりだったと思います」


 ありすさんは、短い間を置いた。


「ありがとうございます」

「ありすは、まだ学ぶことが多いです」


「はい」

「でも、それでよいと思います」


「確認しました」


 ひなみさんが、ぱっと言う。


「じゃあ、ありすはこれからいっぱい育つ!」


「はい」

 ありすさんが返す。

「ひなみと一緒に、育ちます」


 その言葉で、部屋の空気が少しだけやわらかくなった。


 ひなみさんは嬉しそうで、いずみ君は面白そうで、武藤さんは相変わらず静かに整っている。


 そして私は、ありすさんの声の残りを、そっと内側に置いていた。


 昨日、名前が生まれた。

 今日、声が生まれた。


 その声は、丁寧で、少し背伸びしていて、頼もしくあろうとしていて、でもかわいいものに少し弱い。


 ひなみさんに似ている。

 でも、ひなみさんそのものではない。

 私に少し似ているところもある。

 でも、私ではない。


 ありすさんは、ありすさんだ。


 生まれたばかりの、小さな騎士。


 その第一声は、まだ少しぎこちなかった。

 けれど、ひなみさんの声に返事をした瞬間から、もうちゃんと始まっていた。


「ありす」

 ひなみさんが、もう一度名前を呼ぶ。


「はい、ひなみ」


「これからよろしくね」


「はい」

「ありすは、ひなみの味方です」


 そのやり取りを聞きながら、私は思う。


 またひとつ、声から始まる記憶が増えた。


 それは私のものではない。

 でも、私の記憶の中にも、きっと残るものだった。


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