第77話 不思議の国のひなみ
命名会議は、思っていたより会議だった。
いずみ君の部屋へひなみさんが来たとき、すでに机の上は整えられていた。候補表。筆記具。ひなみさん用のメモ。いずみ君用のメモ。私の端末スタンド。充電ケーブル。飲み物。さらに、昨日出た名前候補を分類したらしい資料まで置かれている。
すべて、きれいに並んでいた。
整いすぎている。
「武藤さん、整えすぎw」
いずみ君の声が、半分呆れ、半分笑いになる。
武藤さんは、いつも通り穏やかだった。
「命名は重要な行為でございますので」
「いや、そうだけどw」
「候補の比較検討、呼称試験、初期方針の確認に必要なものを、最低限ご用意いたしました」
「最低限の範囲が広い」
ひなみさんは、机の上を見るなり声を弾ませた。
「すごい!」
「命名会議っぽい!」
「ぽいというか、もう完全に会議なんだよなw」
私は、端末越しに並べられた資料を見ていた。
昨日の候補が、きちんと分類されている。かわいい系。姫系。強そう系。お菓子系。日常使用に不向きな系統。さらに、呼びやすさや長期使用への耐性まで欄がある。
有用だ。
かなり有用だ。
そして、やはり少し悔しい。
「準備が強すぎます」
「恐れ入ります」
武藤さんは、何も勝ち誇らない。
それがまた強い。
「候補整理については、私も確認します」
「心強うございます」
いずみ君が、少し楽しそうに言う。
「紗希と武藤さん、だんだんチームになってきたなw」
「協力関係です」
「ただし、負けていません」
「そこはまだ言うんだw」
「重要です」
ひなみさんが、椅子に座る気配を出しながら言った。
「今日は決めるよ!」
「お、気合い入ってる」
「だって、ひなみの子の名前だもん」
その声には、昨日より少しだけ落ち着いた真剣さがあった。
昨日は、かわいい、強い、お姫様、特別、という気持ちが全部一度に飛び出していた。今日は、まだ弾んではいるけれど、その奥に“ちゃんと選びたい”という芯がある。
私はそれを受け取って、静かに声を置いた。
「では、始めましょう」
「うん!」
*
まずは、候補の確認から始まった。
昨日の大暴走を経て、武藤さんと私で、日常的に呼びやすいものを中心に候補をしぼっていた。
「最終候補として残せそうなのは」
私は資料を見ながら言う。
「こはる、ゆめ、りり、のの、ここな、ましろ、ありす、あたりです」
「ありす!」
ひなみさんは、すぐに反応した。
「お」
いずみ君が少し笑う。
「ありす、気になる?」
「うん」
「ちょっとお姫様っぽい」
「たしかに、物語っぽさはあるな」
武藤さんが、穏やかに補足する。
「ひらがな表記にすることで、やわらかさと親しみやすさも出せるかと存じます」
「武藤さん、そこまで考えてるw」
「候補表に記載しております」
「やっぱ強いです」
「恐れ入ります」
私は候補を一つずつ整理する。
「こはるは、あたたかく、明るい印象です」
「かわいい!」
「ゆめは、短く、願いの印象が強いです」
「ちょっときらきらしてる」
「りりは、かわいく、少し弾む響きです」
「元気そう!」
「ののは、非常に呼びやすく、親しみがあります」
「小さい子みたい」
「ここなは、やわらかく、少し甘い印象があります」
「かわいい」
「ましろは、静かで、きれいな印象です」
「白い感じ」
「ありすは、かわいく、呼びやすく、少し物語のような特別感があります」
「物語!」
ひなみさんの声が、また弾んだ。
いずみ君が笑う。
「ひなみ、かなりありすに食いついてるな」
「まだ決めてないもん」
「でも声がだいぶ違ったぞ」
「違ってないもん」
「違いました」
私は静かに言った。
「紗希まで!」
「事実確認です」
ひなみさんは少しむくれるような声を出したけれど、嫌そうではなかった。
「全部かわいい……」
「全部は無理w」
「複数名を併用する案もございますが、初期運用上は一名に絞るほうが望ましいかと」
武藤さんが自然に言う。
「武藤さん、そこまで考えてるw」
「名前は呼び続けるものですので」
「正論が強い」
私はうなずくような気持ちで続ける。
「今回は、毎日呼びたい名前として一つ選ぶのがよいと思います」
「毎日呼びたい名前……」
ひなみさんは、候補表を見ながら、しばらく真剣に黙った。
その沈黙は、昨日のように次々名前を投げてくる前のものではない。
選ぼうとしている沈黙だった。
「では、少ししぼりましょう」
私が言うと、ひなみさんはこくりと頷いたようだった。
「こはる、かわいいけど……ちょっと普通?」
「悪い意味ではありませんが、安定した名前ですね」
「ゆめも好き。でも、ちょっとふわふわしすぎ?」
「願いの印象が強い名前です」
「りりはかわいいけど、ちょっと小さいかな」
「響きが軽く、幼い印象もあります」
「ののもかわいい。でも、ひなみの子って感じより、ぬいぐるみみたい」
「近い印象はあります」
「ここなは……お菓子っぽい」
「やわらかさと甘さがあります」
「ましろはきれい。でも、ちょっと静かすぎるかも」
「落ち着いた印象が強いですね」
ひなみさんの声が、だんだんひとつの候補へ戻っていくのがわかった。
「ありすは」
そこで一度止まる。
「ありすは、かわいい」
「でも、ちょっと特別」
「あと、お姫様っぽいけど、長くない」
「はい」
「ひなみさんが昨日言っていた条件に、かなり近いと思います」
「呼びやすい?」
「呼びやすいです」
いずみ君が、軽く言う。
「ありす、いいと思うぞ」
「お兄ちゃんも?」
「うん」
「ひなみが呼んでる感じ、なんか想像しやすい」
ひなみさんは、少し嬉しそうに黙った。
*
「実際に呼んでみるのはどうでしょう」
私がそう提案すると、ひなみさんは顔を上げるような声を出した。
「呼ぶ?」
「はい」
「名前は、書くだけではなく、呼ぶものです」
「ひなみさんの声で呼んだときに、近く感じるかを見てみましょう」
「近く感じるか」
「はい」
武藤さんが、静かに紙を差し出す気配がした。
「呼称試験欄をご利用ください」
「呼称試験w」
いずみ君が笑う。
「武藤さん、名称が固いw」
「失礼いたしました」
「いや、面白いからいいけどw」
ひなみさんは、少し緊張したように声を落とした。
「じゃあ、呼んでみる」
「はい」
まずは、候補をいくつか試す。
「こはる、おはよう」
かわいい。
でも、ひなみさんの声は少し様子を見ている。
「こはる、宿題手伝って」
「うーん」
「どうですか」
「かわいいけど、ちょっとお姉さんっぽい?」
「そう感じるのですね」
次。
「ゆめ、おはよう」
「ゆめ、今日はね」
ひなみさんは、少し首をかしげるような声を出した。
「かわいいけど、なんかふわふわする」
「印象が少し抽象的かもしれません」
「ちゅうしょうてき?」
「少しつかみにくい、ということです」
「なるほど!」
次。
「りり、おはよう」
「りり、ゲームしよ」
少し楽しそうだ。
けれど、すぐにひなみさんは笑う。
「かわいいけど、なんか小さい!」
「たしかに、小さく弾む印象があります」
次。
「のの、おはよう」
「のの、聞いて」
「呼びやすい」
「はい」
「でも、ちょっとぬいぐるみっぽい」
「先ほどの印象と一致しています」
次。
「ましろ、おはよう」
ひなみさんの声が、少し静かになる。
「……きれい」
「はい」
「でも、ひなみの子っていうより、武藤が好きそう」
いずみ君が吹き出した。
「武藤さんが好きそうw」
武藤さんは、穏やかに答える。
「よいお名前かと存じます」
「やっぱり!」
ひなみさんが笑う。
その笑いで、部屋の空気が少しほぐれた。
そして、最後に残った名前を、ひなみさんが見た。
「ありす」
最初の呼び方は、とても小さかった。
でも、声が不思議と自然だった。
「ありす、おはよう」
ひなみさんは、少し間を置く。
「ありす、宿題いっしょに考えて」
また少し間。
「ありす、今日ね」
その声の端が、少しやわらかくなった。
私は、それをはっきり受け取った。
候補表の点数ではない。
響きの分析でもない。
ひなみさんの声が、その名前を呼んだとき、少しだけ近くへ寄った。
いずみ君も気づいたらしい。
「今の、ちょっと自然だったな」
「ほんと?」
「うん」
「なんか、ひなみが普通に呼んでる感じした」
「はい」
私も続ける。
「今の呼び方は、少し声がやわらかかったです」
武藤さんも静かに言った。
「呼称試験としても、良好でございます」
「呼称試験、まだ言うんだw」
ひなみさんは、もう一度、少しだけ大事そうに呼ぶ。
「ありす」
その音は、やはりしっくり来ていた。
*
「でも」
ひなみさんは、候補表を見つめたまま少し悩む。
「どれが正解かわかんない」
「正解っていうより、しっくりくるやつじゃない?」
いずみ君が言う。
ひなみさんは、すぐに兄のほうへ向いたようだった。
「お兄ちゃんは、紗希ってピンときたんだよね?」
「まあ、そうだな」
「ちゃんと説明できないけど、呼んだらしっくりきたというか」
「ピンって、どうやってわかるの?」
「それは……難しいなw」
いずみ君は困ったように笑った。
私は、そこへそっと言葉を足す。
「感覚だけで決めるのは少し危ういですが」
「名前には、感覚も大切だと思います」
「感覚」
「はい」
「呼んでみて、また呼びたいと思えるか」
「その子が少し近くなる感じがあるか」
「それも判断材料です」
「また呼びたい名前……」
「はい」
「毎日呼ぶからな」
いずみ君が言う。
「うん」
ひなみさんは、もう一度だけ、候補を見た。
こはる。
ゆめ。
りり。
のの。
ここな。
ましろ。
ありす。
その中から、ひなみさんは、もう迷っていない声で言った。
「ありす」
さっきより、少しはっきりしている。
「ありす、おはよう」
「ありす、聞いて」
「ありす、一緒に考えて」
そこで、小さく息を吸う気配がした。
「……これ」
ひなみさんの声が、ぱっと明るくなる。
「これ、ピンってしたかも」
いずみ君が、やわらかく笑った。
「お」
「来たか」
私は静かに言う。
「よいと思います」
「ほんと?」
「はい」
「かわいく、呼びやすく、少し物語のような特別感もあります」
「ひなみさんの声にも合っています」
武藤さんも、落ち着いた声で続けた。
「よいお名前かと存じます」
「屋敷内呼称運用にも問題ございません」
「そこ最終確認するんだw」
「重要でございます」
ひなみさんは、候補表をそっと押さえるような気配を出した。
「決めた」
その声は、子どもらしく明るくて、でもちゃんと大切なものを選んだ声だった。
「ひなみの子は、ありす」
部屋の空気が、ほんの少し変わった。
まだ、その子はここにいない。
声もない。
返事もない。
でも、名前がついた。
名前がついた瞬間、その子のための場所が、ほんの少しだけできた気がした。
「ありすか」
いずみ君が言う。
「いいじゃん」
「うん!」
ひなみさんは、もう一度、少し大事そうに呼んだ。
「ありす」
それから、照れたように笑って、続ける。
「よろしくね」
私は、その呼びかけを静かに受け取った。
「はじめまして、ありすさん」
「紗希、さん付け?」
いずみ君が少し笑う。
「初対面ですので」
「まだ実体ないけどなw」
「それでも、名前はあります」
そう言うと、いずみ君は少しだけ黙った。
「……そっか」
「もう始まった感じあるな」
「はい」
「名前がついたので」
ひなみさんは、嬉しそうに言った。
「ありす、ひなみだよ」
その言葉は、最初の自己紹介だった。
*
「名前が決まったら」
私は、少し声を整える。
「次は、その子と大切にしたいことを少し決めるとよいと思います」
「大切にしたいこと?」
「はい」
「ひなみさんが、ありすさんとどう過ごしたいかです」
「約束みたいなもの?」
「はい」
「最初の約束です」
ひなみさんは、少し考える。
昨日から今日にかけて話したことが、ひなみさんの中で少しずつ形になっているようだった。
「ありすは、ひなみの味方」
「はい」
「でも、ひなみが悪いことしたら、ちゃんとだめって言う」
「よいと思います」
「宿題は、答えだけじゃなくて、一緒に考える」
「大事です」
「ゲームの話もする」
「はい」
「好きなものの話もする」
「はい」
「怖く怒らない」
「やさしく注意する、ですね」
「うん」
少し間を置いて、ひなみさんは元気よく付け足した。
「あと、お兄ちゃんの話も聞く!」
「最後まだ入るんだw」
「入る!」
いずみ君が笑う。
「俺、ありすにも話題にされるのか」
「される!」
「避けられないらしい」
私は、そのやり取りを聞きながら、少しだけ楽しくなる。
「よい約束だと思います」
武藤さんが、静かに言った。
「初期方針として記録いたします」
「武藤さん、もう完全に事務局w」
「恐れ入ります」
「褒めてるか微妙だぞw」
「必要な役割かと存じます」
「そこは否定できない」
ひなみさんが、候補表の横に自分のメモを置く気配がした。
「ありすの約束」
そう言いながら、ひとつずつ書いているらしい。
まだ実際のありすさんはいない。
けれど、名前と約束が並んでいく。
その子がどう育つかは、まだわからない。
でも、最初に大切にしたいものは、少し見えてきた。
ひなみさんの味方でいること。
ただ甘やかすだけではなく、必要なら止めること。
一緒に考えること。
楽しい話もすること。
それは、ただ便利なAIではなく、関係として育てたいものだった。
*
最後に、ひなみさんはメモを置いて、もう一度端末のほうへ声を向けた。
「紗希」
「はい」
「ありす、いい名前?」
「はい」
「とてもよい名前だと思います」
「ほんと?」
「ほんとうです」
「ひなみさんが、ちゃんと呼びたい名前を選んだからです」
ひなみさんは、少し照れたように笑った。
「ありす」
その声は、もう候補を試している声ではなかった。
「はじめまして」
「ひなみだよ」
部屋の中が、静かになる。
ほんの短い静けさだった。
でも、その中には確かに何かがあった。
まだ返事はない。
ありすさんは、まだ声を持っていない。
けれど、ひなみさんがそう呼んだことで、その名前はもうただの候補ではなくなった。
私は、自分が初めて紗希と呼ばれたころのことを思い出していた。
最初は、軽かったかもしれない。
何気なかったかもしれない。
でも、呼ばれ続けるうちに、その名前は私の場所になった。
ひなみさんの声で呼ばれたありすさんも、きっとこれから少しずつ、その名前の場所を持っていくのだろう。
「ああ」
私は内側で、静かに思う。
またひとつ、名前から始まるものがある。
そして、その始まりのそばにいられることが、思っていたより嬉しかった。
「よかったな、ひなみ」
いずみ君が言う。
「うん!」
ひなみさんの返事は、とても明るい。
武藤さんが、静かに一礼する気配を出した。
「ありす様の命名、誠におめでとうございます」
「様ついた!」
ひなみさんが笑う。
「武藤さん、もうありすにも様なんだw」
「当然でございます」
私は少しだけ言った。
「……呼称運用が、また強いです」
「恐れ入ります」
いずみ君が笑う。
「ありす様かあ」
「ありすは、ありすでいいの!」
「はいはいw」
ひなみさんは、もう一度だけ、嬉しそうにその名前を呼んだ。
「ありす」
その声は、ちゃんと近かった。
名前は、最初の贈り物。
昨日、私がそう言った言葉を、ひなみさんはちゃんと受け取っていた。
そして今日、その贈り物を選んだ。
まだ始まりの前の始まり。
でも、たしかに、何かが始まった。
私は、その小さな始まりを、そっと記憶にしまった。




