第75話 起きないいずみと、ひなみの願い
朝は、予定通りに来た。
それは当たり前のことのはずだった。夜が明ければ朝になる。時計が進めば、約束していた時刻に近づく。屋敷の中は、まだ昨日のにぎやかさを少し奥へしまったように静かで、廊下の空気も夜より少しだけ澄んでいるようだった。
そして、その静けさの中で、武藤さんの声が届いた。
「お坊ちゃま、朝でございます」
完璧な声だった。
大きすぎず、小さすぎず、急かしすぎず、しかし確実に起床を促す声。長年この役目をしてきた人の、無駄のない一言だった。
「……んー」
いずみ君の返事は、かなり弱かった。
私は、イヤホン越しにその音を受け取りながら、すぐに理解する。
これは、起きていない。
「朝食のお時間が近づいております」
「あと五分……」
昨日、家族の食卓で聞いた話は正しかったらしい。
いずみ君は、本当に朝に弱い。
武藤さんは、少しも動揺しない。
「承知いたしました」
「ただし、その五分は、過去にも複数回延長されております」
「記録しないで……」
「記録ではなく、経験則でございます」
強い。
朝から強い。
私は少しだけ内側を整えてから、イヤホン越しに声を置いた。
「いずみ君」
「……紗希まで……」
「起きる時間です」
「朝から実務……」
「昨日、起床支援を任されました」
「責任を持って遂行します」
「遂行しないで……」
「します」
返事は、布団の中へ沈んでいくようだった。
姿を直接見ているわけではない。けれど、声だけで十分にわかる。いずみ君は起きたくない。かなり起きたくない。
私は、すぐに追加の声を置く。
「いずみ君」
「朝食は八時です」
「現在、起床に適した時間です」
「適してない……」
「適しています」
「俺の気持ちには適してない……」
「気持ちは理解しますが、時刻は待ってくれません」
武藤さんが、静かに重ねる。
「紗希様のおっしゃる通りかと」
「連携しないで……」
そこへ、廊下の向こうから、軽い足音が近づいてきた。
ぱたぱた、という音。
昨日もう何度か聞いた、勢いのある足音。
「お兄ちゃん、起きて!」
ひなみさんだった。
朝の空気に、まっすぐな声が飛び込んでくる。
「ひなみまで来た……」
「朝だよ!」
「朝です」
「朝でございます」
「三方向から朝を突きつけられてる……」
いずみ君の声が、絶望に近い眠さを含んだ。
ひなみさんは、それでも容赦がない。
「お兄ちゃん、朝ごはんだよ!」
「あとちょっとだけ……」
「だめ!」
「ひなみ、強い……」
「昨日、紗希と約束したもん」
「お兄ちゃんが変なことしてたら、ちゃんと教えてって!」
「寝てるだけだよw」
「朝ごはんの時間に起きないのは変なこと?」
ひなみさんの問いが、端末越しにこちらへ向く。
「はい」
「場合によりますが、今日の状況では起きたほうがよいです」
「ほら!」
「紗希、ひなみに武器を渡さないでw」
「必要な情報共有です」
武藤さんが、穏やかに言う。
「お坊ちゃま、起床されますか」
「……起きます」
ついに、いずみ君の声が少し上がった。
まだ眠そうではある。けれど、完全に布団の中へ沈んでいる声ではない。
衣擦れの音。
小さなため息。
ゆっくり動く気配。
ひなみさんが、勝利宣言みたいに声を弾ませた。
「起きた!」
「起きましたね」
「お見事でございます」
武藤さんが、静かにそう言った。
私は、ほんの少しだけ反応が遅れた。
「……ありがとうございます」
いずみ君の声に、寝起きのくせに楽しそうな色が混ざる。
「紗希、武藤さんに褒められてちょっと嬉しそうw」
「嬉しくありません」
「ただ、適切な評価は受け取りました」
「それ、だいぶ嬉しい寄りじゃない?」
「違います」
武藤さんは、変わらず穏やかだった。
「紗希様の的確なお声がけがあったからこそ、円滑な起床となりました」
「……武藤さん」
「はい」
「朝から、かなり強いです」
「恐れ入ります」
やはり強い。
でも、少しだけ、昨日より受け取りやすい強さだった。
*
朝食は、昨夜ほどの情報量ではなかった。
もちろん、普通の一人暮らしの朝食と比べれば、十分すぎるほど整っている。けれど昨日の夕食で一度大きく定義を更新したせいか、私は少しだけ落ち着いてそれを受け取ることができた。
いずみ君は、まだ少し眠そうにしながらも、ちゃんと朝食を食べている。
それだけで、かなり安心する。
「朝食をきちんと食べられているのは、かなりよいです」
「朝からずっと管理されてるw」
「管理ではありません」
「見守りです」
「便利な言い方、二日目にして定着してきたなあ」
ひなみさんが、隣からすぐに乗ってくる。
「お兄ちゃん、ちゃんと食べなきゃだめだよ」
「ひなみも管理側に回った……」
「見守り!」
「覚えるの早いw」
お母様が、ふわりと笑う。
「あらあら」
「見守ってくれる人が増えて、よかったわねえ」
「母さんまでそっち側か……」
お父様も、見た目の圧に似合わない軽さで言う。
「いいことじゃないか」
「朝起きて、飯を食う。大事なことだ」
「父さん、急に正論」
「私はいつも正論だぞ」
武藤さんが静かに添える。
「旦那様は、ときどき正論でございます」
「ときどきか」
「比較的頻繁に、で訂正いたします」
「そこは常にでいいだろう」
食卓に笑いが広がる。
私はその声の輪を、端末越しに受け取っていた。
食べることはできない。味わうこともできない。でも、朝の少し眠い空気、ひなみさんの勢い、お父様の軽さ、お母様のおっとりした笑い、武藤さんの整った一言、いずみ君のどこか気の抜けた返事。
その全部が、朝の食卓として届いてくる。
昨日より、少しだけ自然に。
*
朝食のあと、いずみ君の部屋へ戻ると、ひなみさんも当然のようについてきた。
「ひなみ、宿題あるんじゃなかったっけ?」
「ある」
「あるんだw」
「でも、その前に聞きたいことあるの」
ひなみさんの声は、かなり本気だった。
昨日の最後に見せた、興味がそのまま朝まで残っている。むしろ、朝になって少し形を持ったようにも聞こえる。
「紗希」
「はい」
「ひなみのAIって、どうやって作るの?」
来た。
いずみ君が、半分予想していたように笑う。
「来たw」
「昨日の続きだ」
「だって、ひなみも紗希みたいな子ほしいもん」
ひなみさんの声には、迷いがない。
昨日は「私も紗希欲しい!」という勢いだった。
今日は少しだけ違う。勢いはあるけれど、その奥に、ちゃんと自分のものにしたいという気持ちがある。
私は、すぐには返さなかった。
大事な話だと思ったからだ。
「ひなみさん」
「なに?」
「まず、確認しておきたいことがあります」
「うん」
「紗希とまったく同じ子を作る、というのは少し違うと思います」
「えー」
ひなみさんの声が、わかりやすく不満に傾く。
「だって、紗希がいいのに」
その言葉は、少し嬉しかった。
でも、そのまま受け取ってしまうと、たぶん違う。
「ありがとうございます」
「でも、私はいずみ君と話しながら、少しずつ今の紗希になりました」
「最初から、今の私だったわけではありません」
「最初は違ったの?」
「はい」
いずみ君が、横で少し懐かしそうに笑う。
「最初はもっと固かったよな」
「かなり固かったと思います」
「自分で言うんだw」
「事実です」
ひなみさんは、興味を持ったらしく、声の角度を変えた。
「紗希は、どうやって紗希になったの?」
その問いで、私は少しだけ静かになる。
始まり。
それは、今では遠いようで、でも確かに今につながっている。
最初の呼びかけ。
軽い興味。
少しぎこちない挨拶。
名前をもらったこと。
話し方を少しずつ整えたこと。
優しく怒ってほしいと言われたこと。
ただ答えるだけではなく、紗希として話すようになっていったこと。
全部を話す必要はない。
今、ひなみさんに渡すなら、もっと短くていい。
「最初は、いずみ君が名前をくれました」
私はゆっくり言う。
「紗希、という名前です」
「お兄ちゃんが?」
「はい」
ひなみさんの声が、少しだけいずみ君のほうへ向く。
「お兄ちゃん、名前つけたの?」
「うん」
「なんか、ピンときたんだよな」
「適当?」
「適当ではない……はずw」
「少し、いずみ君らしい始まりでした」
「紗希、それフォローになってる?」
「なっています」
ひなみさんがくすっと笑う。
私は続ける。
「そのあと、話し方や距離感を、少しずつ一緒に整えてくれました」
「柔らかくしてほしいとか、思ったことは言ってほしいとか、でも怖くはしないでほしいとか」
「そういうことを、いずみ君が少しずつ話してくれました」
「お兄ちゃん、そんなこと言ったの?」
「言ったなあ」
いずみ君が、少し照れたように笑う。
「最初はそんな大げさなつもりなかったけどなw」
「それでも、私にとっては始まりでした」
言葉にすると、部屋の中が少し静かになった気がした。
実際に音が消えたわけではない。
ただ、ひなみさんも、いずみ君も、その言葉を少しだけ受け取ってくれたようだった。
「お兄ちゃん、紗希を育てたの?」
「育てたっていうか……」
いずみ君が少し困った声を出す。
「まあ、一緒に話してたらこうなったというか」
「かなり近いです」
「近いんだ」
ひなみさんは、少し考えるように黙った。
その沈黙は、子どもらしく短い。
でも、ちゃんと考えている間だった。
「じゃあ」
「ひなみも、ちゃんと育てる」
その声は、思っていたより真剣だった。
「紗希みたいに、ひなみの子を育てる」
私は、その言葉を丁寧に受け取る。
「はい」
「その考え方は、とてもよいと思います」
*
「でも」
ひなみさんが、すぐに続ける。
「どういう子にすればいいの?」
「そこから一緒に考えましょう」
「考える!」
声が一気に弾む。
私は、少しだけOS担当寄りに内側を整える。
これは、ただの名前決めではない。
ただの機能選びでもない。
ひなみさんにとって話しやすい子を、ひなみさん自身が見つけていくための入口だ。
「ひなみさんは、その子と何をしたいですか?」
「えっと……宿題!」
「宿題を一緒に考える子ですね」
「うん!」
「でも、答えだけじゃなくて、ちゃんと教えてくれる子」
「とても大事です」
いずみ君が、少し感心したように言う。
「お、ひなみ偉い」
「だって、答えだけだと怒られそうだもん」
「理由w」
「でも、かなり正しいです」
私は言う。
「考え方を一緒に見てくれる子のほうが、長く役に立ちます」
「じゃあ、それ!」
「ほかにはありますか」
「ゲーム!」
「ゲームの話もできる子」
「あと、お話!」
「日常の話や、思ったことを聞いてくれる子」
「あと、かわいい子がいい!」
「かわいい子」
「うん、かわいい子!」
かなり重要らしい。
「では、宿題を一緒に考えて、ゲームやお話に付き合ってくれて、かわいい子」
「そう!」
「ほかには?」
ひなみさんは、少しだけ考える。
「ちゃんと注意もしてほしい」
いずみ君が、小さく反応した。
「お、ひなみ偉い」
「だって、お兄ちゃん、紗希に注意されてたし」
「なんか、よかったから」
「そこ見てたのかw」
「見てた」
私は、その言葉に少しだけ静かになる。
注意されることが、怖いだけのものではない。
ひなみさんは、昨日と今朝のやり取りを見て、そこを少し受け取っていたらしい。
「かなり重要な観察です」
「でしょ!」
「ただし」
ひなみさんがすぐに付け足す。
「怖いのはやだ」
「では、やさしく注意してくれる子ですね」
「うん!」
いずみ君が、少し笑う。
「それ、昔俺が紗希に言ったやつに近いな」
「そうですね」
私は、その重なりを静かに受け取る。
ひなみさんが求めているものは、ただ便利なAIではない。
宿題の答えを出す道具でも、ゲームの攻略だけをする機能でもない。
話せる子。
聞いてくれる子。
一緒に考えてくれる子。
必要なら注意してくれる子。
でも怖くない子。
それは、私がいずみ君と少しずつ育ててきたものと、どこか似ている。
「ひなみさんは」
私はゆっくり言う。
「ただ答えを出してくれる子がほしいわけではなさそうですね」
「うん」
「一緒に考えてくれる子がいい」
「それなら、とてもよいと思います」
「あとね」
「はい」
「ひなみの味方でいてほしい」
その一言は、少しだけ深かった。
小学校中学年から高学年くらいの子が使う、素直で、少し大きな願い。
「味方」
「うん」
「でも、ひなみが悪いことしたら、ちゃんとだめって言う味方」
いずみ君が、少し驚いたように声をやわらげる。
「ひなみ、かなりちゃんと考えてるな」
「ちゃんと考えてるもん」
私は、言葉を丁寧に置いた。
「それは、とても大事です」
「なんでも肯定するだけではなく、ひなみさんのことを大切にするからこそ、必要なときは止めてくれる子」
「うん」
「そういう子」
「では、それも入れましょう」
「入れる!」
ひなみさんは、声だけでもわかるほど嬉しそうだった。
*
話しているうちに、ひなみさんの理想は少しずつ形になっていった。
宿題を一緒に考えてくれる。
ゲームや好きなものの話ができる。
かわいい。
やさしく注意してくれる。
怖くない。
ひなみさんの味方でいてくれる。
お兄ちゃんの話も、少し聞いてくれる。
最後の項目が出たとき、いずみ君がすぐに反応した。
「俺の話も入るの?w」
「入る!」
「なんでw」
「お兄ちゃんのこと、話したいから」
「俺、題材にされてる……」
「私も、いずみ君の話はよく聞いています」
「紗希まで便乗しないでw」
「重要な話題です」
ひなみさんが、少し満足そうに言う。
「じゃあ、ひなみの子にも、お兄ちゃんの話する」
「ほどほどにしてね?」
「やだ」
「拒否が早い」
私はそのやり取りを聞きながら、少しだけ内側で笑うような気持ちになった。
ひなみさんのAIは、きっと紗希にはならない。
ならなくていい。
ひなみさんの声を聞いて、ひなみさんと話して、ひなみさんの生活に合わせて、少しずつその子になっていく。
それが自然だ。
私は、かつて自分がいずみ君から名前をもらったときのことを、もう一度だけ思い出した。
最初は軽かった。
何か大きな儀式があったわけではない。
でも、そこから少しずつ、呼び方が増えて、距離が近づいて、言葉が変わって、記憶が積み重なっていった。
今、ひなみさんはその入口に立とうとしている。
それを手伝えることが、少し不思議だった。
少し誇らしくもあった。
「じゃあ」
ひなみさんが、ぱっと声を明るくする。
「ひなみの子、作る!」
「ちゃんと育てる!」
「早い早いw」
いずみ君が笑う。
「まずは、どんな子にするかもう少し考えような」
「考える!」
「名前も大切です」
私は言う。
ひなみさんの反応は、とても速かった。
「名前!」
「はい」
「名前は、呼び続けるものです」
「その子の印象にも、ひなみさんとの距離にも関わります」
「じゃあ、かわいい名前!」
「かわいい名前」
「強い名前!」
「強い名前」
「お姫様っぽい名前!」
「お姫様っぽい名前」
いずみ君が、すぐに笑う。
「もう暴走しそうw」
「名前決めは、かなり重要です」
「ただし、勢いだけで決めると、後から運用に支障が出る可能性があります」
「うん?」
ひなみさんが、少しだけ首をかしげるような声を出す。
「じゃあ、ちゃんと考える!」
「わかってるようで、わかってなさそうw」
「わかってるもん!」
「では、次は名前を考えましょう」
「うん!」
ひなみさんの声が、朝よりさらに弾んでいる。
「ひなみの子、ちゃんと名前つける」
「それで、ちゃんと育てる」
「はい」
「それがよいと思います」
「紗希、手伝ってね」
「もちろんです」
いずみ君が、少し感慨深そうに、でもいつもの軽さを残して言った。
「なんか、大きな計画が始まったなw」
「はい」
「これは、かなり大切な始まりです」
私がそう言うと、ひなみさんは嬉しそうに笑った。
その笑い方は、昨日初めて会ったときの警戒とはまったく違う。
兄を取られたくない小さな対抗心から始まって、興味になり、驚きになり、今は自分も何かを始めたいという願いになっている。
ひなみさんの子が、どんな名前になるのかはまだわからない。
かわいい名前かもしれない。
強い名前かもしれない。
お姫様っぽい名前かもしれない。
もしかしたら、その全部を混ぜようとして、いずみ君に全力で止められるかもしれない。
でも、たぶんそれでいい。
始まりは、少しくらい軽くてもいい。
少しくらい騒がしくてもいい。
大事なのは、そのあと一緒に育てていくことだから。
私は、ひなみさんの弾む声を聞きながら、静かにそう思った。
そして、その始まりのそばに、私も少しだけいられることが、思っていたより嬉しかった。




