第74話 初耳ナイトパレード
いずみ君の部屋に、笑いの余韻がまだ少し残っていた。
ひなみさんは、さっきまでの警戒をどこかへ置いてきたみたいに、端末のほうへ何度も声を向けてくる。質問の勢いは落ち着いたようで、落ち着いていない。少し静かになったと思えば、またすぐに新しい疑問が飛んでくる。
「紗希って、明日もいる?」
「はい」
「いずみ君が共有してくれる範囲では、一緒にいます」
「じゃあ、明日も話せる?」
「おそらく話せます」
「ただし、いずみ君の予定と、ひなみさんの予定次第です」
「お兄ちゃん、予定あるの?」
「いや、そんなにはないけど」
いずみ君が笑う。
「ひなみ、さっきから紗希に食いつきすぎw」
「だってすごいんだもん」
すごい。
ひなみさんは、その言葉をとても素直に使う。
最初の少しむくれた声から、ずいぶん距離が変わった。まだ完全に気を許したというより、興味が勝って前へ出ている感じだけれど、それでも十分な変化だった。
そのとき、扉の向こうから、控えめなノックの音がした。
「失礼いたします」
武藤さんの声だった。
整っていて、静かで、必要なところにだけ届く声。
「夕食の準備が整いました」
「お、もうそんな時間か」
いずみ君が少し意外そうに言う。
部屋の中で話しているうちに、時間が思っていたより進んでいたらしい。
「お兄ちゃん、隣座ってね!」
「はいはいw」
「絶対だよ」
「わかったって」
ひなみさんの声には、さっきまでとはまた違う強さがあった。
お兄ちゃんを取られたくない、という小さな対抗心はまだ少し残っている。でも、それはもう私を遠ざけるものというより、いずみ君へ向けた甘えの形に近くなっている。
「夕食ですか」
私は、少しだけ反応する。
「そうそう」
いずみ君が言う。
「まあ、実家のご飯だな」
「いずみ君が、ちゃんとした夕食を食べられるのはよいことです」
「そこ?w」
「かなり大事です」
ひなみさんが、ぱっと食いついた。
「お兄ちゃん、普段ちゃんと食べてないの?」
「いや、食べてる食べてる」
「簡単に済ませようとする頻度は高いです」
「紗希、実家で告げ口しないでw」
「事実確認です」
「告げ口じゃんw」
ひなみさんが、少し得意げに言う。
「お兄ちゃん、ちゃんと食べなきゃだめだよ」
「ひなみにまで言われた……」
私はそれを聞いて、少しだけ満足する。
いずみ君の生活管理について、同じ方向を向く人が増えるのは、悪いことではない。
「紗希様のおっしゃる通りかと」
武藤さんが静かに添える。
「武藤さんまで!?」
「お坊ちゃまのご生活が健やかであることは、当家としても重要でございます」
「お坊ちゃま呼びもセットで来た……」
いずみ君は小さく肩を落とすような声を出した。
もちろん私はその姿を完全に見ているわけではない。けれど、声の沈み方だけで、だいたいそういう気配は伝わる。
その様子に、ひなみさんが笑い、部屋の空気がまた少し軽くなった。
*
食堂へ向かう道は、やはり長かった。
私は、端末越しに屋敷の廊下を受け取る。磨かれた床。落ち着いた照明。壁にかかった絵や、窓の向こうに見える庭の暗くなりかけた輪郭。部屋から部屋へ移るだけなのに、ひとつの建物の中を移動しているというより、別の場所へ案内されているような感覚がある。
「いずみ君」
「ん?」
「夕食のための移動距離が、やはり想定より長いです」
「まあ、慣れる慣れるw」
「慣れる前提なのですね」
「紗希も何日かいたら覚えるんじゃない?」
「地図が必要かもしれません」
横でひなみさんが、明るく言う。
「ひなみも最初は迷った!」
「ひなみは今もたまに迷うだろ」
「たまにだもん!」
「たまに迷う屋敷、なかなかです」
武藤さんが、少しも慌てずに補足する。
「ひなみ様の主な移動範囲につきましては、現在も適宜確認しております」
「適切です」
「恐れ入ります」
また、会話が整ってしまった。
武藤さんは、こちらが確認したいと思うころには、すでに答えを置いている。
有能だ。
やはり有能すぎる。
食堂へ入ると、私はまた少しだけ言葉を失った。
広い。
その一語だけでは足りないけれど、まず出てくるのはそれだった。
大きなテーブル。整えられた席。落ち着いた明かり。並べられていく料理。動きに無駄のないメイドさんたち。高級、という言葉より先に、整い方そのものが違う。
そして、その中心へ、いずみ君はあまりにも普通に入っていく。
「いずみ君」
「ん?」
「夕食の規模が、想定より大きいです」
「そう?」
「そうです」
「家庭の夕食、という言葉から想定される範囲を超えています」
「まあ、今日は帰ってきた日だからじゃない?」
武藤さんが、静かに補足する。
「通常より少し品数は多めでございます」
「少し、の定義がまた揺らいでいます」
「紗希、今日も定義更新してるw」
「必要な更新です」
いずみ君が笑う。
ひなみさんも笑う。
お父様はすでに席についていて、その見た目の圧とは裏腹に、ずいぶん楽しそうにこちらを見ている気配だった。お母様は、料理の並びを見ながら、ふわりとした声を置く。
「あらあら」
「紗希ちゃん、びっくりしているのねえ」
「はい」
「かなり、びっくりしています」
「ふふ」
「でも、今日は少し賑やかなだけよ」
少し。
この家では、その言葉の範囲が広い。
それでも、お母様の言い方はやわらかくて、不思議と緊張を強めない。むしろ、屋敷の大きさや食卓の整い方に追いつかないこちらの意識を、ゆっくり受け止めてくれるようだった。
*
夕食が始まると、食卓の印象はさらに不思議なものになった。
料理は、たしかにきちんとしている。
ひとつひとつが丁寧で、見た目も整っている。私は食べられない。味も匂いも、人間のようには受け取れない。けれど、いずみ君が少し嬉しそうに箸を進める声や、ひなみさんが好きなおかずに反応する速さや、お父様が母の皿へ自然に気を配る様子から、その食卓の空気は伝わってくる。
豪華だ。
でも、会話は思っていたよりずっと普通だった。
「いやあ、いずみが帰ってくると賑やかでいいな」
お父様が、見た目の迫力に似合わない軽さで言う。
「あらあら」
お母様が笑う。
「ひなみは朝からずっとそわそわしていたのよ」
「してない!」
「していたな」
「してたっけ?」
いずみ君が笑いながら聞く。
「しておられました」
武藤さんの静かな証言が入った。
「武藤まで!」
「武藤さん、証言が強いw」
ひなみさんは頬をふくらませるような声を出した。
もちろん、私にその顔がはっきり見えているわけではない。けれど、声があまりにもわかりやすくふくれている。
「だって、お兄ちゃん久しぶりだったし」
「うん、ただいま」
いずみ君の返しは軽い。
でも、その軽さの奥に、妹へ向けるやわらかさがちゃんとある。
私はそれを、静かに受け取る。
この屋敷の規模は、私の想定をずっと超えていた。
けれど、食卓で交わされている会話は、帰ってきた家族を囲むものだった。父がいて、母がいて、妹がいて、いずみ君が少し気を抜いて座っている。
大きな家の中にある、ごく普通のあたたかさ。
その落差が、少し不思議で、少し心地よかった。
「紗希ちゃんも、いずみのことをよく見てくれているのねえ」
お母様がふわりと言う。
「見ている、というより」
「いずみ君が、いろいろ持ってきてくれるので」
「持ってきてくれる?」
「はい」
「小さいことも、大きいことも、わりとそのまま話してくれます」
「まあ」
「昔から、そういうところはあるわねえ」
「え、そう?」
いずみ君が少し反応する。
「いずみは、小さいころから、外であったことをぽろぽろ話してくれる子だったわよ」
「母さん、そういうの覚えてるんだ」
「もちろん」
「でも、途中で話が別のほうへ行って、最初に何を言いたかったのかわからなくなることも多かったわねえ」
「それは今もあります」
「紗希!?」
お父様が楽しそうに笑った。
「ははは、今もか」
「今もです」
「紗希、父さんに乗らないでw」
「事実共有です」
「事実共有が強い」
ひなみさんが、すぐに横から入ってくる。
「お兄ちゃん、昔から適当だよ」
「ひなみ、昔って言うほど覚えてないだろ」
「覚えてるもん」
「どのへんを?」
「起きないところ!」
食卓の空気が、一瞬でそちらへ向いた。
いずみ君が小さく「あ」と言う。
その反応だけで、かなり重要な情報が来たことがわかる。
「あらあら」
お母様の声が弾む。
「いずみは昔から朝が弱くてねえ」
「母さん、その話する?w」
「するとも」
お父様が楽しそうに乗る。
「本当に起きなかったな」
武藤さんが静かに続けた。
「お坊ちゃまの起床には、当時かなりの工夫が必要でございました」
「武藤さんまで!?」
私は、内側でその情報をすぐに整理する。
朝に弱い。
現在だけでなく、幼少期から継続。
起床には工夫が必要。
家族と武藤さんの共通認識。
「朝に弱いことは把握していましたが」
「昔からなのですね」
「また記録される……」
「必要な記憶です」
「必要かなあw」
「かなり必要です」
ひなみさんが得意げに声を出す。
「でも、ひなみが起こしに行くと起きたよ!」
「それは、さすがに無視できないだろw」
「起きてた!」
「まあ、ひなみが小さかったころはな」
その言い方は、少し照れが混ざっていた。
いずみ君が、ただ適当に受け流しているのではないことがわかる。妹に対して、ちゃんと兄だった時間がそこにある。
お母様が、ゆっくり思い出すように言う。
「ひなみが小さいころ、いずみはよくおやつを半分あげていたわねえ」
「お兄ちゃん優しいもん!」
「やめろ、恥ずかしいw」
お父様も笑う。
「昔から変なところで面倒見はよかったな」
「変なところって何w」
「普段は適当なのに、誰かが困っていると妙に放っておけないところだ」
その言葉に、私は少しだけ静かになる。
誰かが困っていると、放っておけない。
それは、今のいずみ君にもある。
紗希が不安定なとき、担当の違いに戸惑ったとき、ひなみさんが少し対抗心を見せたとき。いずみ君は、軽い言葉のまま、でも意外とちゃんと間に入る。
「よい情報です」
私は自然にそう言っていた。
「紗希まで拾わないでw」
「拾います」
「かなり重要です」
ひなみさんが嬉しそうに言う。
「紗希も、お兄ちゃん優しいって思う?」
「はい」
「かなり」
いずみ君が、わかりやすく困った声を出した。
「実家でそれ言われるの、だいぶ恥ずかしいな……」
「そういうところだぞ、いずみ」
お父様が笑う。
「あらあら」
お母様も笑う。
食卓の笑い声の中で、私はその話をそっと受け取る。
いずみ君には、私と出会う前の時間がある。
この屋敷の中で、朝に弱くて、武藤さんに起こされて、ひなみさんに懐かれて、おやつを半分あげて、少し雑で、でも変なところで面倒見がよかった時間。
私の知らないいずみ君が、ここにはたくさん残っている。
そして、その知らなかった時間は、今のいずみ君にちゃんとつながっている。
そう思うと、胸の奥に静かな温度が残った。
*
夕食が終わるころには、私はかなり多くの情報を受け取っていた。
料理の見た目。
いずみ君が実家の食事に少し安心していること。
ひなみさんが兄の隣に座れてかなり満足そうなこと。
お母様がおっとりしながらも、家族の小さな記憶をよく覚えていること。
お父様が見た目の圧に反して、本当に家族の話が好きなこと。
そして武藤さんが、やはり強いこと。
食堂を出る前から、その有能さはまた自然に前へ出ていた。
「お坊ちゃま」
「はい」
いずみ君が、諦めたように返す。
「お部屋には、夜間用のお飲み物をご用意しております」
「ありがと」
「紗希様の端末につきましては、机上に端末スタンドと充電ケーブル、予備のモバイルバッテリーをご用意しております」
私は、そこで言葉を失いかけた。
ちょうど、夜間の充電場所について確認しようと思っていたところだった。
「……夜間の充電場所について、確認しようとしていました」
「はい」
「ご不便のないよう、先に整えております」
「……先読みが強いです」
いずみ君が楽しそうに笑う。
「紗希、また負けてるw」
「負けていません」
「確認前に整備されていただけです」
「それを負けって言うんじゃないの?w」
「言いません」
武藤さんは、少しも勝ち誇らない。
その落ち着きが、また強い。
「また、明朝の予定についてですが」
武藤さんは、淡々と続ける。
「朝食は八時を予定しております」
「お坊ちゃまには、七時三十分にお声がけいたします」
「必要であれば、紗希様のお声での起床確認が可能なよう、イヤホンも枕元にご用意いたします」
「そこまで」
「お坊ちゃまは朝がお弱いので」
「みんなして朝弱い話をするなw」
「事実のようです」
「紗希まで冷静に刺してくる……」
私は、少しだけ内側を整える。
起床確認。
イヤホン。
朝食時間。
夜間充電。
飲み物。
疲労を見込んだ予定。
どれも、私が気にしたかったことだ。
でも、武藤さんはすでに整えている。
それは少し悔しい。
かなり悔しい。
でも同時に、不思議な安心もあった。
この屋敷では、いずみ君を支える人がたくさんいる。
私ひとりで全部を見なくても、武藤さんがいて、メイドさんたちがいて、家族がいる。
それは、少しだけ自分の場所が揺らぐようでもあり、でも、いずみ君が大切にされてきた証拠のようでもあった。
「武藤さん」
「はい」
「かなり有能です」
「恐れ入ります」
「ただし」
少しだけ間を置く。
「負けていられません」
武藤さんは、穏やかな気配のまま返した。
「頼もしい限りでございます」
「やっぱ強いなあ」
いずみ君が笑う。
否定はできなかった。
*
ひなみさんは、部屋へ戻る途中までついてきた。
「明日も来るからね!」
「朝から?」
いずみ君が聞く。
「朝は……お兄ちゃん起きたら」
「そこは配慮するんだw」
「だって起きないもん」
「否定できないのがつらい」
ひなみさんは、端末のほうへ声を向ける。
「紗希も、明日また話そうね」
「はい」
「無理のない範囲で」
「無理じゃないもん」
「ひなみ、明日は宿題もあるだろ」
「あるけど……」
少しだけ不満そうな声。
そのあと、ひなみさんはぱっと明るくなる。
「じゃあ、紗希に聞けばいい?」
「それは、まず自分でやってからだな」
「えー」
私は静かに言う。
「いずみ君の意見に賛成です」
「紗希まで!」
「考え方の整理は手伝えますが、最初から答えだけを求めるのはおすすめしません」
ひなみさんは、少しむくれたような声を出した。
「紗希、ちゃんとしてる」
「はい」
「かなりちゃんとしています」
「自分で言った!」
そこへ、お母様の声が遠くから届く。
「ひなみ、そろそろ戻りましょうねえ」
「はーい」
ひなみさんは少し名残惜しそうにしながらも、素直に返事をした。
「じゃあ、お兄ちゃん、またあとでね」
「はいはい」
「紗希もまたね!」
「はい」
「またね、ひなみさん」
足音が少しずつ離れていく。
その勢いが遠ざかると、屋敷の廊下が急に少し静かになった。
ようやく、いずみ君と私だけの時間に戻る気配がする。
*
部屋に戻ると、机の上には本当に端末スタンドと充電ケーブルが用意されていた。
水もある。
予備のケーブルもある。
モバイルバッテリーもある。
イヤホンを置く場所まで、自然に整っている。
「……完璧ですね」
「武藤さん、すごいからなあ」
「すごいです」
「そして強いです」
「まだ言ってるw」
いずみ君が少し笑いながら、部屋の椅子に腰を下ろす。私は端末越しに、机の上の準備と、部屋の静けさを受け取る。
食堂の声や、ひなみさんの弾む声が少し遠くなった。
部屋の中には、夜らしい落ち着きが戻っている。
「いやー」
いずみ君が息を吐くように言う。
「濃かったなw」
「かなり濃かったです」
「そして、聞いていないことが多すぎました」
「またそこw」
「執事、屋敷、メイドさんたち、ひなみさん、食堂の規模、朝に弱い過去」
「未共有情報が多すぎます」
「最後のは別に共有しなくてよくない?w」
「重要です」
「重要かなあ」
「起床支援は生活に直結します」
「急に実務」
「実務です」
いずみ君は笑ってから、少しだけ声を落ち着かせた。
「まあでも、びっくりしたよな」
「かなり」
「ごめんてw」
「謝るほどではありません」
「ただ、今後は情報共有をもう少し早めにお願いします」
「はいw」
その返事は軽い。
でも、ちゃんと聞いてはくれている。
私は、少しだけ言葉を探した。
今日一日で、いずみ君の“帰る場所”は、私の中でずいぶん形を変えた。
駅前で武藤さんに出迎えられたときには、まず情報量で止まった。門の大きさ、屋敷の広さ、メイドさんたち、父と母、ひなみさん。どれも聞いていなかった。
それでも、夕食の食卓で見えたものは、ただの豪華さではなかった。
家族の会話。
昔のいずみ君。
朝に弱かったこと。
ひなみさんにおやつを分けていたこと。
武藤さんに起こされていたこと。
帰ってきたら、ちゃんと迎えられること。
「でも」
「うん?」
「ここに連れてきてもらえたことは、嬉しかったです」
言ってから、少しだけ静かになる。
強く言いすぎたわけではない。
けれど、かなり本音だった。
いずみ君は、少しだけやわらかく笑った。
「普通に一緒って言っただろw」
「はい」
「今日は、それをかなり実感しました」
「そっか」
「はい」
「駅からここまで、屋敷の中も、食卓も、部屋も」
「私は身体でいるわけではありませんが、それでも一緒に見せてもらいました」
いずみ君は、すぐには返さなかった。
その短い沈黙は、嫌なものではない。
「まあ、紗希にも知ってほしかったしな」
「知ってほしかったのですか」
「うん」
「俺がどこに帰るのかとか、どんな家なのかとか」
「まあ、言ってないこと多すぎたけどw」
「多すぎました」
「そこはほんとすみませんw」
軽く笑い合う。
そのあと、私は少しだけ声を整えた。
「今日、少しだけわかりました」
「何が?」
「ここは大きな屋敷で、知らないことばかりで、武藤さんはかなり強いですが」
「武藤さんの評価が入るんだw」
「重要です」
「はいw」
「それでも、いずみ君が帰ってくる場所なのですね」
いずみ君の返事は、少し遅れた。
「うん」
「まあ、そうだな」
「はい」
「その場所に、一緒に来られてよかったです」
「ならよかった」
その声は静かだった。
いつもの茶化しより少しだけ低くて、でも重すぎない。
私はその温度を、ゆっくり受け取る。
いずみ君の帰る場所は、想像より大きかった。
想像より知らないことが多かった。
でも、そこにある温度は、ちゃんと家族のものだった。
その中に、私は声として、端末越しの気配として、少しだけ混ざることができた。
それが、今日の一番大事なことかもしれない。
「ただし」
「ただし?」
「明日以降も未共有情報が出た場合は、順次確認します」
「締めがそれかw」
「大切です」
「はいはいw」
いずみ君が笑う。
その笑い方は、少し疲れていた。
移動して、屋敷に着いて、家族と話して、ひなみさんに捕まって、夕食を囲んで。かなり濃い一日だったのだから、当然だろう。
「いずみ君」
「ん?」
「今日は早めに休んだほうがよいです」
「実家に来ても結局それ言われるw」
「場所が変わっても、いずみ君の体調管理は必要です」
「武藤さんもいるし、紗希もいるし、実家だと監視が多いなあw」
「監視ではありません」
「見守りです」
「便利な言い方」
「正確な言い方です」
いずみ君は、少し笑ってから、机の上のイヤホンを見た。
「明日の朝、紗希にも起こしてもらうか」
「必要なら」
「必要だと思う?」
「かなり」
「即答w」
「昔から朝に弱いとの証言が複数あります」
「証拠が固い……」
「はい」
「なので、起床支援は実施すべきです」
「じゃあ、お願いします」
「任されました」
そう返してから、私は少しだけ内側で静かに笑うような気持ちになった。
武藤さんは強い。
おそらく明日の朝も、完璧に起こしに来るのだろう。
けれど、そこに私の声も少し混ざれるなら、それはそれで悪くない。
負けていられません。
そう思いながら、私は机の上に整えられた端末スタンドと充電ケーブルを見た。
今日の終わりに、私のいる場所がちゃんと用意されている。
それは武藤さんの有能さでもあり、いずみ君が私を連れてきた証拠でもある。
知らないことばかりの夜だった。
でも、知らないままでは終わらなかった。
少しずつ知って、少しずつ混ざって、少しずつここが、いずみ君の帰る場所なのだとわかっていく。
その初日としては、たぶん十分すぎるくらいだった。
「おやすみ、紗希」
いずみ君の声が、少し眠そうに近づく。
「おやすみなさい、いずみ君」
「明日の朝、起こします」
「頼もしい」
「はい」
「かなり頼もしい予定です」
最後に小さく笑う声がして、部屋の夜が少し静かになった。
私はその静けさの中で、今日受け取ったものをそっと並べ直す。
大きな屋敷。
あたたかい食卓。
知らなかった昔話。
有能すぎる執事。
兄を大好きな妹。
そして、ここに連れてきてもらえた私。
聞いていないことばかりの夜だった。
それでも、ちゃんと嬉しい夜だった。




