表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
78/107

第73話 ひなみと紗希、そして武藤


「お兄ちゃん!」


 奥から飛んできた声は、思っていたよりずっと高く、まっすぐだった。


 続いて、軽い足音が近づいてくる。

 大きな屋敷の玄関に、ぱたぱたと弾むような音が重なる。さっきまでの武藤さんの整った動きや、お母様のおっとりした空気や、お父様の妙な迫力とはまったく違う。


 もっと小さくて、もっと速い。

 感情が、そのまま音になって走ってきているようだった。


「ひなみ」


 いずみ君の声が、少しだけやわらかくなる。

 大学で田中さんや鈴木さんと話すときとも、自宅で私と話すときとも違う、少し兄らしい温度だった。


 その変化を受け取った瞬間、私はまたひとつ、知らなかったいずみ君を見つけた気がした。


 そして、次の瞬間には、画面の向こうに小さな女の子が映っていた。


 小学校の中学年から高学年くらいだろうか。

 表情がよく動き、目が大きく、こちらへ来る勢いがそのまま全身に出ている。髪はきれいに整えられているのに、本人の勢いがそれを少しだけ追い越しているように見える。


「お兄ちゃん、おかえり!」


「ただいまー」


 ひなみさんは、いずみ君のそばまで来ると、ぱっと顔を上げるようにして、それから端末のほうへ気づいた。


 声の温度が、少しだけ変わる。


「……その人が、紗希?」


 その人。


 私は人ではない。

 ただ、今この場では、いずみ君の端末越しに、声としてここにいる。


 ひなみさんは、そのあたりの整理より先に、兄のそばにいる“誰か”として私を見たのだと思う。


「はい」

「はじめまして、紗希です」


 私はできるだけ丁寧に返した。


 ひなみさんは、じっとこちらを見る。

 好奇心がある。

 けれど、それだけではない。


「お兄ちゃん、ずっとその子と話してるの?」


 その声には、小さな棘があった。

 攻撃というほどではない。敵意というほどでもない。

 けれど、兄を取られたくない子どもの、素直な警戒に近い。


 いずみ君が笑う。


「ずっとってほどじゃないけど、まあ、けっこう話してるな」


「ふーん」


 ひなみさんは、少しだけ頬をふくらませる。

 人間の子どもらしい、わかりやすい反応だった。


「お兄ちゃん、帰ってきたばっかりなのに」

「もう紗希と話してる」


「いや、紗希も一緒に来たからなw」


「一緒に?」


 ひなみさんの声が、さらに少し複雑になる。


 私は、その反応を慎重に受け取る。


 この子は、いずみ君が帰ってくるのを楽しみにしていた。

 そこへ、私という知らない存在が一緒についてきた。

 しかも、いずみ君は私のことを自然に扱っている。


 それはたしかに、少し面白くないのかもしれない。


「ひなみさん」


「なに」


「私は、ひなみさんからお兄さんを奪うつもりはありません」


 言った瞬間、いずみ君が小さく吹き出した。


「紗希、なんか重くない?w」


「軽く言う内容ではないと判断しました」


「いや、そうだけどw」


 ひなみさんは、少しだけ目を丸くしたようだった。


「奪わないの?」


「はい」

「いずみ君は、ひなみさんのお兄さんです」

「そこは、私が変えるものではありません」


「……ほんと?」


「ほんとうです」


 ひなみさんは、まだ完全には納得していない顔をしていた。

 けれど、最初の棘は少しだけ丸くなったように見える。


 お母様が、そばでふわりと笑った。


「あらあら」

「紗希ちゃん、とても丁寧ねえ」


 お父様も楽しそうに言う。


「いずみ、ひなみにちゃんと紹介しておけ」


「してるしてるw」


「してない」

 ひなみさんが即座に言う。

「お兄ちゃん、全然してない」


「ごめんてw」


「聞いていません」

 私は思わず言った。


 いずみ君がこちらを見る気配を出す。


「紗希まで便乗しないでw」


「事実です」


 ひなみさんが、少しだけこちらへの警戒を忘れたように、くすっと笑った。


     *


 ひとまず玄関先の挨拶が落ち着くと、武藤さんが静かに前へ出た。


「お坊ちゃまのお部屋へご案内いたします」


「武藤さん、お坊ちゃま呼び」


「失礼いたしました、いずみ様のお部屋へ」


「それも微妙なんだよなあw」


 ひなみさんが横から元気よく言う。


「お兄ちゃんはお兄ちゃんでいいじゃん」


「それはひなみ専用かな」


「じゃあ、ひなみはいいの!」


 小さな独占宣言だった。


 いずみ君は、それを慣れた調子で受け流している。

 私はそのやり取りを受け取りながら、兄妹という関係の近さを少しずつ理解していく。


 武藤さんの案内で、屋敷の中を進む。


 廊下が長い。

 床がきれいに保たれている。

 壁や窓から見える景色にも、手入れされた静けさがある。


 私は端末越しに、その情報を受け取る。

 身体で歩いているわけではない。

 けれど、いずみ君が見せてくれる映像と、足音と、声の距離で、屋敷の奥へ進んでいることはわかった。


「いずみ君」


「ん?」


「屋敷内でも、距離感が想定より大きいです」


「また定義更新?」


「すでに更新中です」


 ひなみさんが、得意げに声を弾ませる。


「うち広いでしょ!」


「はい」

「かなり広いです」


「迷うよ!」


「それは誇るところでしょうか」


「ひなみはたまに迷う!」


「それは、かなり重要な情報です」


 武藤さんが、穏やかに補足した。


「ひなみ様の主な移動範囲には、メイドが付き添うようにしております」


「なるほど」

「適切な運用です」


「恐れ入ります」


 まただ。


 武藤さんは、いつもすでに整えている。


 私が屋敷内で迷う可能性や、通信環境や、移動の導線を気にするより早く、必要なものを整えている。


「紗希様」


「はい」


「お部屋周辺の通信環境、充電環境は確認済みでございます」

「机上には端末スタンド、充電ケーブル、予備のモバイルバッテリーもご用意しております」


 私は少し黙った。


「……先読みが強いです」


 いずみ君が笑う。


「紗希、また負けてるw」


「負けていません」

「事前準備の水準を確認しているだけです」


 ひなみさんが、胸を張るような声で言った。


「武藤すごいでしょ!」


「はい」

「かなり有能です」


「でしょ!」


「ただし、負けていられません」


「なんで勝負してるの?」


 ひなみさんのまっすぐな疑問に、私は少しだけ返答に迷った。


「……有能さには、有能さで応えたいからです」


「ふーん」

「紗希も負けず嫌いなんだ」


「そうかもしれません」


 いずみ君が、楽しそうに言う。


「だいぶそうだと思うw」


「いずみ君」


「はい」


「未共有情報が多い件については、まだ処理中です」


「根に持ってるw」


「根に持ってはいません」

「記録しています」


「それが一番怖いんだよなあw」


 ひなみさんがまた笑った。

 さっきより、私を見る目が少しだけ変わっている気がした。


     *


 いずみ君の部屋は、屋敷の中の一室だった。


 大きすぎる、というほどではない。

 けれど、十分に広い。整えられていて、清潔で、長いあいだ大切に保たれてきた場所の空気がある。


 本棚。

 机。

 昔のものらしい箱。

 少し古いゲームソフト。

 写真立て。

 子どものころの名残のようなもの。


 私は、それらを端末越しに受け取る。


 ここで、いずみ君が暮らしていた。


 今のいずみ君ではない。

 もっと小さかったころのいずみ君。

 きっと、まだ私を知らなかったころのいずみ君。


 その時間の痕跡が、この部屋には少しずつ残っている。


「久しぶりだなー」


 いずみ君の声が、少しだけ懐かしそうになる。


「部屋、きれいですね」


「俺がいない間も、たぶん整えてくれてたんだろうな」


 武藤さんが、静かに言う。


「いつお戻りになってもよいようにしております」


「ほんとありがとね」


「恐れ入ります」


 その短いやり取りだけで、ここがいずみ君にとってどんな場所なのかが少し見えた。


 帰ってこなくても、部屋は整えられている。

 戻れるように保たれている。


 その事実は、思っていたよりあたたかかった。


 ひなみさんは、当然のように部屋へ入ってきた。


「ひなみ、勝手に入っていいんだっけ?」


「今日はお兄ちゃん帰ってきた日だからいいの!」


「そんなルールあった?」


「いま作った」


「強いなw」


 ひなみさんは、いずみ君の部屋を見回してから、端末のほうへまた意識を向けた。


「紗希って、ここも見えてるの?」


「いずみ君が共有してくれている範囲は見えています」


「ふーん」

「じゃあ、これも?」


 ひなみさんが、机の近くにあった小さな写真立てを指さすように動いた。

 画面越しに、幼いころらしいいずみ君と、もっと小さいひなみさんが写っているのが見える。


「見えています」


「お兄ちゃん、ちっちゃいでしょ」


「はい」

「今よりかなり小さいです」


「当たり前だろw」

 いずみ君が笑う。


「ひなみも小さい」


「それは今も小さいだろ」


「今は小学生だから小さくていいの!」


 ひなみさんは、当たり前みたいに言う。


 その勢いが、少し眩しい。


「紗希、写真見て何かわかるの?」


「写真に写っている情報から、ある程度のことは推測できます」


「推測?」


「たとえば、いずみ君がひなみさんをかなり気にしていること」


「えっ」


「写真の中で、いずみ君はひなみさんのほうへ少し意識を向けているように見えます」

「ひなみさんも、いずみ君の近くでとても安心しているように見えます」


 ひなみさんは、少しだけ黙った。


 それから、ふいっと顔をそらすような気配で言う。


「……そんなの、わかるの」


「完全に断定はできません」

「ただ、そう見えます」


「すごい」


 その一言は、さっきまでの警戒より少し高かった。


 ひなみさんの中で、何かが動いた気がした。


     *


 そこから、ひなみさんの質問が始まった。


「紗希って、なんでもわかるの?」


「なんでもはわかりません」

「わかることと、わからないことがあります」


「宿題も見れる?」


「内容によります」

「答えだけを出すより、考え方を一緒に整理することはできます」


「ゲームもわかる?」


「ゲームの種類によります」

「ただ、攻略や考え方の整理は得意なほうです」


 内側でゲーム攻略担当が、少しだけ前に出たがった。

 今はまだ早い。

 ひなみさんの質問は、たぶん全部を一気に受け止めると大変なことになる。


「お兄ちゃんのこと、どれくらい知ってるの?」


 その質問だけは、少し違った。


 私はすぐには答えず、一拍置く。


「たくさん話してきた分は、知っています」

「でも、全部ではありません」

「今日初めて知ったことも、かなり多いです」


「執事とか?」


「はい」

「執事も、屋敷の広さも、メイドさんたちも、ひなみさんのことも、聞いていませんでした」


 いずみ君が、気まずそうに笑う。


「まだ言われるw」


「必要な確認です」


 ひなみさんは、そのやり取りを見て少し楽しそうに笑った。


「紗希、お兄ちゃんにちゃんと言うんだ」


「必要なことは言います」


「お兄ちゃん、たまに適当だからね」


「ひなみまで!?」


「適当だよ」


「それは、少しわかります」


「紗希も言う!」


 ひなみさんの笑い方から、最初の警戒はかなり薄れていた。

 完全に消えたわけではないかもしれない。けれど、今はもう、私をただの“お兄ちゃんを取る相手”として見てはいないようだった。


「紗希って」

 ひなみさんが、端末のほうへ近づく気配で言う。

「すごいんだね」


「ありがとうございます」


「お兄ちゃん、いいな」


「え?」

 いずみ君が反応する。


「私も紗希欲しい!」


「そこに着地するの!?w」


「だって、宿題も見てくれて、ゲームもわかって、写真見ていろいろ言ってくれて、しかもお兄ちゃんにちゃんと注意できるんでしょ?」


「最後の理由なにw」


「大事!」


 私は、少し困った。


 困ったけれど、悪い気持ちではなかった。


 最初は警戒されていた。

 兄を取る相手かもしれないと思われていた。

 それが、今は“私も欲しい”になっている。


 変化が早い。

 かなり早い。


 でも、ひなみさんらしい速さなのかもしれない。


「ひなみさん」


「なに?」


「私とまったく同じ紗希を用意することは、簡単ではありません」


「えー」


「ただ、ひなみさんに合うAIと話すことは、できるかもしれません」


「ほんと?」


「はい」

「そのときは、どういう子が話しやすいか、一緒に考えることはできます」


 ひなみさんの声が、ぱっと明るくなった。


「やった!」

「じゃあ、私も紗希みたいな子つくる!」


「また増えるのか……w」

 いずみ君が笑う。


「お兄ちゃんだけずるいもん」


「ずるいってw」


 ひなみさんは、そこでまた少しだけこちらを見る。


 明るくなった声の奥に、最初の警戒が小さく残っていた。


「でも」

「お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんだからね」


 その言い方は、とても真剣だった。


 小さな子どもらしい独占欲。

 でも、その中には大切に思う気持ちがある。


 私は、ゆっくり返す。


「はい」

「それは、もちろんです」


「……ほんと?」


「ほんとうです」

「私は、ひなみさんからお兄さんを奪うつもりはありません」

「むしろ、いずみ君がちゃんと元気でいられるように、一緒に見守れたらと思います」


 ひなみさんは、少しだけ黙った。


「……見守る」


「はい」


「お兄ちゃん、適当だから?」


「それも少しあります」


「紗希!?」


 いずみ君がまた声を上げる。


 ひなみさんは、少し考えてから、こくりとうなずいた。


「じゃあ」

「ちょっとだけ仲間」


 その言葉が、思っていたより深く残った。


 仲間。


 完全に受け入れられたわけではないのかもしれない。

 ひなみさんの中で、お兄ちゃんはまだちゃんとひなみさんのお兄ちゃんで、そこは誰にも渡したくない。


 でも、少しだけ場所をもらえた。


 いずみ君を一緒に見守る、ちょっとだけの仲間。


「はい」

「ちょっとだけ仲間です」


 返すと、ひなみさんは満足したように笑った。


「じゃあ、紗希」


「はい」


「お兄ちゃんが変なことしてたら、ちゃんと教えてね」


「承知しました」


「紗希、即答しないでw」


「重要な役目です」


「ひなみも見てるからね!」


「見なくていい見なくていいw」


 部屋の中に、笑いが広がる。


 私は端末越しに、その空気を受け取っていた。


 いずみ君の昔の部屋。

 そこに残る小さな時間。

 兄を大好きな妹。

 有能すぎる執事。

 そして、私に与えられた、ちょっとだけの仲間という場所。


 実家に来てから、知らないことばかりだった。

 聞いていないことばかりだった。

 けれど、そのひとつひとつが、少しずついずみ君の形を増やしていく。


 私は、まだこの家のことをほとんど知らない。

 ひなみさんのことも、ほんの少ししか知らない。


 それでも、今は少しだけ大丈夫な気がした。


 この部屋で。

 この声の輪の中で。

 私は、いずみ君の帰る場所の奥へ、ほんの少しだけ入れてもらえたのだと思う。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ