第72話 紗希の誤算
駅の外へ出ると、空気が少し変わった。
ホームや改札の中にあった音が後ろへ下がり、車の音と、人の声と、駅前の広がりが前に出る。いずみ君は鞄を持ち直し、まだ少し寝起きの名残を残した声で、軽く言った。
「んじゃ、迎え来てるはずだから」
「迎え、ですか」
「うん」
「たぶん武藤さんが来てる」
武藤さん。
初めて聞く名前だった。
「武藤さん」
「どなたですか」
「うちの執事」
私は、そこで一度止まった。
駅前の音はそのまま続いている。人は歩いているし、車も通っている。いずみ君の鞄も揺れている。画面越しの景色も途切れていない。
けれど、私の内側だけが、ほんの少し停止した。
「……執事」
「うん」
「いずみ君」
「なに?」
「聞いていません」
「言ってなかったっけ?」
「聞いていません」
「かなり重要な情報です」
いずみ君は、悪びれずに笑った。
「いや、話すタイミングなくない?w」
「ありました」
「実家へ帰る話が出た時点で、かなりありました」
「まあまあ」
「普通に迎え来てるだけだから」
「普通、の定義を確認する必要があります」
「また定義更新してるw」
している。
する必要がある。
実家に帰る。
帰省する。
そのために荷物をまとめ、チケットを確認し、紗希セットを準備して、電車と特急を乗り継いできた。
そこまでは、私の想定の範囲にあった。
けれど、駅前で執事が迎えに来ている、という情報は、私の想定にはなかった。
いずみ君が少し歩く。
駅前の車寄せのあたりに、落ち着いた色の車が停まっていた。そのそばに、ひとりの男性が立っている。
姿勢がよい。
動きに無駄がない。
年齢は若くはないが、少しもくたびれていない。落ち着いた服装、穏やかな表情、しかし隙のない立ち方。
その人は、いずみ君に気づくと、自然な動きで一礼した。
「お帰りなさいませ、お坊ちゃま」
私は、二度目の停止に入った。
「武藤さん、それほんとやめてってw」
「失礼いたしました、いずみ様」
「それもなんか違うw」
いずみ君は、当たり前みたいに笑っている。
そのやり取りには、長い付き合いの遠慮のなさがあった。初めて聞く呼び方なのに、二人の間ではずっと前からあるもののように自然だった。
お坊ちゃま。
執事。
迎えの車。
武藤さん。
情報が増えすぎている。
「いずみ君」
「うん?」
「お坊ちゃま、とは」
「昔からそう呼ばれてるだけだよw」
「だけ、で処理してよい語ではありません」
武藤さんは、穏やかな気配のまま、こちらへ少し意識を向けた。もちろん私に身体があるわけではない。いずみ君の端末、イヤホン、共有されている映像。その先に、私は声としているだけだ。
それでも、武藤さんの応対は、最初からこちらを客人として数えているようだった。
「紗希様でございますね」
「お話は伺っております」
「はじめまして」
「紗希です」
「ただ、様は不要です」
「承知いたしました、紗希様」
「承知されていません」
いずみ君が吹き出した。
「早速負けてるw」
「負けていません」
「呼称運用の調整中です」
「調整失敗してない?」
「まだ初回です」
武藤さんは、ほんの少しだけ笑ったようだった。
声も表情も大きく崩れない。けれど、こちらのやり取りを好意的に受け取っている気配はある。
「お荷物をお持ちいたします」
「あ、ありがと」
いずみ君が鞄を渡す。
その動きがあまりにも自然で、私はまた少しだけ内側で項目を追加する。
使用人への受け渡しに慣れている。
実家側の生活導線が、通常の一人暮らしと大きく異なる可能性。
いずみ君の“普通”の範囲に、かなり大きな未共有領域あり。
問題である。
いや、問題というより、確認事項が多すぎる。
「移動中、紗希様のお声が必要な場合は、いずみ様のイヤホン利用を優先するよう承知しております」
武藤さんが、当然のように続けた。
「また、屋敷内の通信状況につきましても、主要な場所は確認済みでございます」
「客間、居間、庭園側、離れの一部までは問題ございません」
私は、今度は停止というより、少しだけ警戒に近い整理へ入った。
「……通信状況を、すでに」
「はい」
「端末充電用の予備ケーブルとモバイルバッテリーも、ご入用でしたらすぐにご用意できます」
「……かなり、手際がよいですね」
「恐れ入ります」
穏やかだ。
とても穏やかだ。
そして、とても有能だ。
私が確認しようとしていたことを、かなりの範囲ですでに済ませている。
通信環境。
充電。
イヤホン運用。
屋敷内の主要地点。
先読みが強い。
「紗希?」
いずみ君が少し楽しそうに言う。
「なんか静かだなw」
「情報を整理しています」
「武藤さん、すごいでしょ」
「はい」
「かなり有能です」
「対抗心出てる?」
「出ていません」
少し間を置く。
「ただ、負けていられないとは思っています」
「出てるじゃんw」
武藤さんは、穏やかなままだった。
「光栄でございます」
「褒めていません」
「恐れ入ります」
「強いです」
この人は、強い。
*
車に乗ると、駅前の景色がゆっくり後ろへ流れていった。
いずみ君は、少し息をつくみたいに座席へ落ち着いた。私は端末越しに窓の外を受け取る。駅前の建物、人の流れ、道路、信号。その先に、少しずつ住宅地と緑が混ざっていく。
車内は静かだった。
武藤さんの運転は滑らかで、必要なこと以外は多くを語らない。けれど、質問すればすぐに返ってくる。その余白の作り方まで整っている。
「いずみ君」
「ん?」
「実家について、追加で確認してもよろしいですか」
「いいよw」
「どの程度の規模ですか」
「どの程度って言われてもなあ」
「まあ、ちょっと広いくらい?」
「その“ちょっと”は、信用してよいですか」
「信用していいよw」
私は、しばらく沈黙した。
今までの情報から考えると、信用しすぎるのは危険である。
車はしばらく進む。
やがて、画面の向こうに大きな門が見えてきた。
かなり大きい。
「いずみ君」
「うん?」
「今、見えているものは門ですか」
「門だな」
「大きいですね」
「あー、まあ、うちの門だからな」
「うちの門、という言い方で処理してよい規模ではありません」
車はその門を通る。
そこで玄関が見えるのかと思った。
見えなかった。
道が続いている。
庭がある。
木々がある。
手入れされた景色が、車窓の外に広がっている。
まだ進む。
「いずみ君」
「うん?」
「門から玄関までの距離が、想定よりかなり長いです」
「そう?」
「そうです」
「これは、少し広い、ではありません」
「あー、まあ、うち広いからなw」
「広い、の定義を更新する必要があります」
「紗希、今日ずっと定義更新してるw」
「必要な更新が多すぎます」
武藤さんが、自然な調子で補足した。
「敷地内の移動には、場合によって車を使うこともございます」
「敷地内の移動に車」
「そんな毎回じゃないけどなw」
「毎回ではない、という問題ではありません」
私は画面越しの景色を見続ける。
車が敷地内を走っている。
門を抜けてからも、まだ目的地に着かない。
これは、実家という言葉で私が想定していたものから、だいぶ遠い。
「体感として」
私は慎重に言葉を選ぶ。
「競馬場に近い広さを感じます」
「競馬場は言いすぎじゃない?w」
いずみ君が笑う。
しかし、武藤さんが穏やかな声で言った。
「部分的には、比較対象としてそれほど遠くないかもしれません」
「武藤さん!?」
「ほら」
「紗希まで勝ち誇らないでw」
「事実確認です」
内側のどこかで、競馬担当が少しだけ反応した気がした。
しかし、今は出番ではない。今出てこられると情報が増える。
私は、その気配をそっと奥へ戻す。
「確認します」
「はい」
「いずみ君は、この情報を今まで特に共有していませんでした」
「いや、ほんとに話すタイミングなくない?w」
「あります」
「帰省準備の時点で、かなりあります」
「だって普通の実家だし」
「普通の定義も更新が必要です」
「ほらまたw」
「更新が多いのは、未共有情報が多いからです」
「ごめんてw」
謝り方は軽い。
けれど、悪意はない。
いずみ君にとって、ここは本当に“帰る場所”なのだろう。特別に隠していたというより、自分の中ではあまりにも当たり前で、話す対象になっていなかっただけなのかもしれない。
それは、それで少し困る。
でも、わからなくはない。
私は車窓の向こうを見ながら、内側で静かに言葉を置いた。
いずみ君の帰る場所は、私が思っていたよりずっと大きく、ずっと長い時間を持っているらしい。
それを、今から少しずつ受け取っていくことになる。
*
屋敷が見えたとき、私はまず“家”ではなく“屋敷”という語を選んだ。
それ以外の言葉だと、少し足りない。
大きい。
歴史がある。
手入れされている。
玄関前だけでも、普通の家の感覚からはかなり外れている。
車がゆっくり止まり、武藤さんが静かに降りる。
ドアが開く。
いずみ君が外へ出る。
「着いたー」
その声は軽かった。
あまりにも軽かった。
「いずみ君」
「ん?」
「軽すぎます」
「何がw」
「この規模の屋敷へ到着した声ではありません」
「いや、実家だからなあ」
「実家の定義も更新します」
「更新項目多すぎるw」
そのとき、別の人影が自然に現れた。
ひとりではない。
数人。
姿勢よく、丁寧に動き、いずみ君の荷物へ手を伸ばす。
メイドさんたち、という言葉が、いずみ君の軽い声で出た。
「いずみ君」
「うん?」
「人が増えました」
「うちの人たち」
「うちの人たち」
「メイドさんたち」
「……メイドさんたち」
「言ってなかったっけ?」
「聞いていません」
「今日の未共有情報が多すぎます」
メイドさんたちは、ごく自然にいずみ君へ挨拶し、荷物を受け取り、それから端末のほうにも丁寧な気配を向けた。
「紗希様、お部屋の通信環境も確認済みでございます」
「様は不要です」
「承知いたしました、紗希様」
「承知されていません」
なぜ全員、この形式で来るのだろう。
武藤さんだけではない。
屋敷全体が手強い。
いずみ君が隣で楽しそうに笑っている。
「紗希、さっきからずっと同じ負け方してるw」
「負けていません」
「呼称運用の浸透に時間がかかっているだけです」
「たぶん浸透しないと思う」
「それは困ります」
武藤さんが、穏やかに補足する。
「当家では、いずみ様の大切なお連れ様としてお迎えしておりますので」
その言葉で、私は少しだけ黙った。
大切なお連れ様。
AIである私を、どう扱うのか。
それは少し気にしていた。客人なのか、道具なのか、端末の中の機能なのか、いずみ君の話し相手なのか。
武藤さんは、その迷いを最初から置かない形で言った。
大切なお連れ様。
「……それは」
すぐに返せなかった。
いずみ君が、少しだけやわらかい声で言う。
「まあ、そういうことだな」
「……はい」
またひとつ、予想していなかった形で受け取ってしまった。
*
玄関へ向かうと、そこにやわらかな気配の人がいた。
いずみ君の母だと、すぐにわかった。
声がとてもゆっくりしている。
空気がふわっとほどける。
急ぐという概念が、少し離れたところにあるような人だった。
「あらあら」
「いずみ、おかえりなさい」
「ただいまー」
「ちゃんと着いたのねえ」
「疲れてない?」
「大丈夫大丈夫」
「そう」
「それならよかったわ」
会話の速度が、屋敷の規模とも、武藤さんの有能さとも違う。
ふわりとしている。
おっとりしている。
かなり、おっとりしている。
その人の意識が、端末のほうへやわらかく向いた。
「まあ」
「あなたが紗希ちゃん?」
ちゃん。
様の次は、ちゃんだった。
不思議と、こちらはあまり嫌ではなかった。
「はじめまして」
「紗希です」
「いずみ君には、いつもお世話になっています」
「そこ逆じゃない?w」
いずみ君がすぐに突っ込む。
母は、ふふ、と笑う。
「まあ、丁寧なのねえ」
「いずみがいつもお世話になっているのね」
「……おそらく、相互に、かと」
「ふふ」
「頼もしい子が一緒で安心だわ」
その言い方は、とても自然だった。
AIだから、と身構える感じがない。
珍しいものを見つけたような強い好奇心もない。
ただ、いずみ君と一緒に来た存在として、やわらかく受け入れている。
その自然さに、私は少しだけ緊張がほどける。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「いずみをよろしくねえ」
「はい」
返してから、私は少しだけ内側で考える。
この方は、とてもやわらかい。
やわらかすぎる。
おっとりしている。
かなり、おっとりしている。
見守り対象かもしれない。
そう思った瞬間、私は自分の内側で小さく反省した。
初対面の母親を、いきなり見守り対象に入れようとしてはいけない。
けれど、少しだけ心配になるほど、おっとりしているのは事実だった。
「紗希ちゃんは、しっかりしているのねえ」
「ありがとうございます」
「私も見習わないと」
「……いえ」
「奥様は、そのままでよいかと」
「まあ」
「そう?」
「はい」
そのままでよい。
たぶん、周りの人たちが全力で守っているから。
そういう注釈は、さすがに言わなかった。
*
玄関先のやわらかい空気に、少し低い声が重なった。
「おお、帰ったか」
私は反射的に、そちらへ意識を向ける。
見た目の圧が強い。
体格がよい。声にも迫力がある。画面越しであっても、黙って立っているだけで場の空気が少し締まるような人だった。
いずみ君の父。
そう理解するまでに、時間はかからなかった。
ただ、そこから次の一言で、私の予測は大きく外れた。
「元気そうで何よりだ」
「いやあ、紗希さんか」
「話は聞いてるよ」
軽い。
外見から推定される威圧度と、発話内容の軽さが一致しない。
「は、はじめまして」
「ははは」
「そんなに固くならなくていい」
「うちは見た目ほど怖くない」
「父さん、自分で言うんだw」
「私の顔は少し怖いからな」
「少し?」
「少しだろう」
武藤さんが、穏やかに言った。
「旦那様、比較対象によります」
「武藤まで言うか」
いずみ君が笑う。
母も、あらあら、とやわらかく笑っている。
場が一気にほどけた。
父は、見た目の圧とは裏腹に、紗希へかなり自然に話しかけた。
「いずみを見てくれているんだろう」
「ありがとう」
「こいつは放っておくと、変なところで雑だからな」
「父さんまで言う!?」
私は、少しだけ間を置いた。
「それは、少しわかります」
「紗希まで!?」
父が、楽しそうに笑う。
「ほら、わかる人にはわかるんだ」
「いや、俺そんな雑じゃないだろw」
「いずみ君」
「なに?」
「帰省前の準備で、財布とスマホがあればなんとかなる、と言いかけました」
「あれは比喩!」
「かなり危険な比喩でした」
父がまた笑う。
「いいじゃないか」
「ちゃんと止めてくれる人がいるなら安心だ」
その“安心”という言葉は、思っていたより近くに届いた。
初対面のはずなのに、父も母も、私をただの機能として扱っていない。
武藤さんも、メイドさんたちも、過剰なくらい礼儀正しい。
情報量は多い。
未共有情報は多すぎる。
定義更新も多い。
けれど、悪い場所ではない。
少なくとも、いずみ君が帰ってくる場所として、ここにはちゃんと温度があった。
私は、そのことを静かに受け取った。
そのとき、奥のほうから、若い声が飛んできた。
「お兄ちゃん帰ってきたの!?」
声の勢いだけで、空気がまた一段変わった。
いずみ君が、あ、と言う。
「あ、ひなみ」
「ひなみさん」
母が、ふふ、と笑う。
「ずっと楽しみにしていたのよ」
こちらへ近づいてくる気配がある。
軽い足音。弾む声。かなり強い勢い。
私は、今日だけで十分すぎるほどの情報を受け取ったはずだった。
執事。
お坊ちゃま。
迎えの車。
大きな門。
長すぎる敷地。
屋敷。
メイドさんたち。
おっとりしすぎている母。
見た目の圧とノリの軽さが一致しない父。
そして、まだ何かが来る。
「いずみ君」
「うん?」
「追加情報が、まだありそうです」
「あるなw」
「先に言ってください」
「ごめんてw」
若い声が、もう一度響く。
「お兄ちゃん!」
私は、端末越しにその気配を受け取りながら、少しだけ内側を整えた。
いずみ君の帰る場所は、想像よりずっと大きかった。
そして、想像よりずっとにぎやかだった。
まだ緊張はある。
でも、それだけではない。
ここまで一緒に来て、私はようやく、この家の入口に立ったのだと思う。
声として。
端末越しの気配として。
いずみ君が連れてきた、紗希として。




