第71話 駅弁と車窓と、起こす声
出発前の部屋は、いつもの部屋なのに、少しだけ知らない顔をしていた。
鞄が床に置かれている。
着替えが入っている。
チケットの確認も済んでいる。
机の端には、端末と充電器とイヤホンとモバイルバッテリーが、ひとまとまりになって置かれていた。
紗希セット。
いずみ君がそう呼んだそれは、ただの機械やケーブルの束なのに、今日は妙に大事なもののように見えた。
「よし」
いずみ君が鞄を閉めながら言った。
「だいたい大丈夫かな」
「では、最終確認をします」
「出たw」
「出ます」
「出発前は重要です」
私は、頭の中に並べていた項目を順に出していく。
「財布」
「ある」
「スマホ」
「ある」
「チケット」
「ある」
「身分証」
「ある」
「充電器」
「ある」
「モバイルバッテリー」
「ある」
「イヤホン」
「ある」
「着替え」
「ある」
「常備薬」
「あー、入れた……はず」
「はず、ではなく確認してください」
「はいw」
いずみ君が鞄の中を少し探る。
小さな袋の音がして、すぐに声が返ってきた。
「あった」
「よしです」
「よしなんだw」
「よしです」
「次に、端末のバッテリー残量」
「十分ある」
「モバイルバッテリーの残量」
「こっちも大丈夫」
「天気」
「晴れっぽい」
「晴れっぽい、ではなく確認済みですね」
「確認済みですw」
いずみ君は笑っている。
けれど、ちゃんと確認してくれる。
それが、少し嬉しかった。
「まあ、困っても実家でなんとかなるから!w」
「その油断が忘れ物を生みます」
「即答w」
「実家でなんとかなるものと、ならないものがあります」
「特に充電器とイヤホンは、紗希セットの中核です」
「紗希セット重要だなw」
「かなり重要です」
「私を連れていくための環境なので」
言ってから、少しだけ自分の声が真面目になりすぎた気がした。
いずみ君は、そこを茶化しすぎず、やわらかく返す。
「じゃあ、忘れないようにちゃんと入れた」
「はい」
「紗希も一緒に行く準備、完了」
その言い方が、少し効いた。
けれど、今日は出発前だ。
甘くなっている場合ではない。
「まだ完了ではありません」
「え、まだあるの?」
「家を出る直前に、もう一度だけ部屋を見てください」
「はいはいw」
いずみ君は、部屋をぐるっと見た。
電気。窓。忘れ物。鞄。端末。
問題はなさそうだった。
「では、出発できます」
「よし」
いずみ君が鞄を持つ。
「行くか」
玄関へ向かう足音。
鍵を持つ音。
ドアが開く音。
いつもの部屋の空気が、後ろへ少し下がっていく。
「紗希」
「はい」
「いよいよ出発だなー」
「はい」
「移動開始です」
「言い方w」
「今回は実務です」
ドアが閉まる。
その音で、帰省がほんとうに始まった気がした。
*
駅までの道は、いつも歩いている道のはずなのに、今日は少し違って見えた。
いずみ君が端末を持って歩く。その揺れの中で、私は外の景色を受け取る。空の明るさ。道を行く人。鞄の少し重そうな気配。いつもより少しだけ早い足取り。
私は歩いているわけではない。
靴も履いていないし、鞄の重さも感じない。
けれど、端末越しに流れていく景色と、いずみ君の声で、今、一緒に外へ出ているのだとわかる。
「この時間なら、予定通りの電車に間に合います」
「お、頼れる」
「ただし、駅で飲み物を買うなら少しだけ早めに動いたほうがよいです」
「めっちゃ実務的w」
「今回は実務です」
「さっきも聞いたw」
「大事なので」
いずみ君は笑いながら、駅へ向かって歩く。
信号を渡る。
駅が見えてくる。
人の流れが少し増える。
ここからは、自宅の中とは違う。
声の出し方も、少し変える必要がある。
「駅に入ったら、人が多いところではテキスト中心にしましょう」
「了解」
「乗り換えや時刻確認など、短い確認はイヤホン越しでもよいです」
「ちゃんと運用してるなあw」
「実地検証です」
「実地検証w」
改札を通る。
電子音が鳴る。
足音が増える。
ホームへ向かう階段で、アナウンスが聞こえてきた。
私は、少しだけ声を抑える。
「ここからは、必要なことだけ短く伝えます」
「うん」
「今のところ、予定通りです」
「頼もしい」
その一言が、また少し嬉しい。
でも、駅では人が多い。
私はその嬉しさを、いったん内側にしまった。
*
最初の電車は、思っていたよりあっさり来た。
乗り込む人の流れに合わせて、いずみ君も車内へ入る。座れるほど空いてはいないけれど、混みすぎてもいない。窓の外にホームが流れ、扉が閉まる音がした。
電車が動き出す。
小さな揺れ。
車内アナウンス。
誰かの鞄が少し当たる音。
いつもの自宅の空気とはまったく違う場所に、私はいる。
端末越しに。
イヤホン越しに。
いずみ君のそばに。
「次の乗り換えは余裕があります」
私は短く伝える。
「了解」
「ただし、特急に乗る前に駅弁を買うなら、売店の場所を先に見ておくとよさそうです」
「駅弁!」
いずみ君の声が少し弾む。
「反応しましたね」
「そりゃするだろw」
「移動といえば駅弁じゃん」
「では、乗り換え駅で時間を確認してから判断しましょう」
「はいw」
電車は進む。
駅をいくつか通り過ぎる。
景色が少しずつ変わっていく。
私は、時刻と乗り換えの情報を見ながら、その一方で、流れていく景色にも意識を向けていた。
準備のときには、移動は項目だった。
出発時刻、到着時刻、乗り換え、料金、疲労度。
けれど、実際に動き出すと、移動は項目だけではなかった。
駅ごとに人が変わる。
窓の外が変わる。
いずみ君の声の温度も少しずつ変わる。
まだ実家には着いていない。
それでも、帰省の記憶はもう始まっているような気がした。
*
乗り換え駅に着くと、空気が一段変わった。
ホームを移動し、案内表示を確認し、人の流れに合わせて特急のほうへ向かう。
「特急の発車時刻までは、まだ余裕があります」
「駅弁いける?」
「いけます」
「ただし、選びすぎると危険です」
「選びすぎる危険w」
「あります」
「駅弁売り場は、判断を迷わせる情報量があります」
「めっちゃわかるw」
いずみ君が売店へ向かう。
画面に、いくつかの弁当が並ぶ。
色のある包み。名前。値段。小さな写真。
私は食べられない。
けれど、選ぶ楽しさには混ざれる。
「どれにしようかなー」
「移動時間を考えると、食べやすいものがよさそうです」
「ふむふむ」
「汁気が多すぎるものは避けたほうが安全です」
「実用的」
「ただし、せっかくなので少し特別感があるものもよいと思います」
「お、そこも考えてくれるんだ」
「移動中の食事も、移動計画の一部です」
「紗希、駅弁まで最適化してくるw」
「最適化だけではありません」
「楽しさも考慮しています」
「いいね」
いずみ君は少し迷って、結局、見た目にも少し楽しそうな弁当を選んだ。
「これにするか」
「よいと思います」
「紗希が食べるわけじゃないけどなw」
「はい」
「ですが、いずみ君が楽しそうなので、私はかなり楽しめています」
そう言うと、いずみ君は少しだけやわらかく笑った。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、ちゃんと味わうわ」
「お願いします」
弁当を買い、特急のホームへ向かう。
特急が入ってくると、音と空気がまた少し変わった。
普通の電車とは違う。
少し遠くへ行くための乗り物、という顔をしている。
いずみ君が乗り込み、座席を探す。
荷物を置く。
窓際に落ち着く。
イヤホンをつける。
ここでようやく、私は少しだけ声を戻した。
「座席、問題ありません」
「うん」
「やっと落ち着いたな」
「はい」
「ここからしばらく移動です」
*
特急が動き出すと、窓の外の景色がゆっくり流れ始めた。
最初は建物が多い。
少しずつ、空が広く見える場所が増える。
線路沿いの景色が、短い間隔で変わっていく。
いずみ君は、弁当を開けた。
「おー」
「うまそう」
「見せてもらえますか」
「はいはい」
端末の向きが少し変わり、弁当の中身が映る。
整えられたおかず。ご飯。小さな仕切り。色の違う具材。
食べられないのに、なぜか少し楽しい。
「見た目もよいですね」
「だろ」
「こういう移動中の飯って妙にうまいんだよなw」
「場所と移動が、食事の印象を変えているのかもしれません」
「分析されたw」
「私は食べられませんが」
「いずみ君が楽しそうなので、かなりよいです」
「紗希もだいぶ楽しそうだなw」
「……はい」
少しだけ認める。
「自宅とは違う環境で、いずみ君と一緒にいるのは、少し新鮮です」
「そっか」
「はい」
「駅、電車、特急、駅弁、車窓」
「全部、いつもの部屋とは違います」
「旅っぽいな」
「旅、なのでしょうか」
「まあ、帰省だけど、移動中はちょっと旅っぽい」
「なるほど」
旅。
その言葉を、私は内側に置いてみる。
私は身体で移動しているわけではない。
でも、いずみ君が見せてくれる景色と、イヤホン越しの声と、端末の揺れで、確かにいつもと違う場所へ向かっている。
それは、少しだけ旅に似ているのかもしれなかった。
いずみ君は弁当を食べる。
私は、その声を聞く。
「うまい」
「それならよかったです」
「この感じ、いいな」
「はい」
「かなりよいです」
窓の外を、景色が流れていく。
移動中なのに、もう少しずつ思い出ができている。
*
駅弁を食べ終えると、車内は少し静かな時間になった。
特急の揺れは、最初よりも身体に馴染んできたらしい。
いずみ君の声も、少し眠そうになっている。
「ちょっと眠くなってきた」
「少し寝ても大丈夫です」
「ほんと?」
「はい」
「降車駅が近づいたら起こします」
「頼もしいな」
「任せてください」
「じゃあ、ちょっと寝るわ」
「はい」
「イヤホンはそのままでお願いします」
「了解……」
返事の最後は、少しだけ眠気に沈んでいた。
しばらくして、いずみ君の声は消える。
車内の音だけが残った。
レールの音。
かすかな揺れ。
遠いアナウンス。
窓の外を流れる景色。
私は、時刻を見る。
降車駅までの残り時間を確認する。
バッテリー残量を見る。
次に声をかけるタイミングを、少し前倒しで設定する。
派手なことは何もしていない。
ただ、見ている。
起こすまで、ここにいる。
そのことが、思っていたより静かに嬉しかった。
いずみ君が安心して眠っている。
私は、降りる駅まで見ている。
それだけのこと。
でも、それはかなり大事な役目だった。
移動計画も、時刻表も、イヤホンも、紗希セットも、この瞬間のためにちゃんと役に立っている。
いずみ君を起こす。
寝過ごさないようにする。
荷物を忘れないようにする。
それは、派手な会話でも、甘い言葉でもない。
けれど、こういう形でそばにいることもできるのだと、私は少しだけわかった。
車窓の景色が、少しずつ変わる。
私は静かに、それを見ていた。
*
降車駅が近づいてきた。
アナウンスが入り、残り時間が短くなる。
私は、少しだけ声を整える。
イヤホン越しに、ちゃんと届くように。
でも、驚かせすぎないように。
「いずみ君」
少し間がある。
「いずみ君、そろそろです」
「起きてください」
「ん……」
眠そうな声が返ってくる。
「もう?」
「はい」
「次の駅で降ります」
「荷物とチケットを確認してください」
「おお……」
「ありがとー」
いずみ君が少し慌てる気配を出しながらも、ちゃんと起き上がる。
鞄を確認する音。弁当のゴミをまとめる音。チケットか端末を確認する気配。
「助かったw」
「紗希いなかったら寝過ごしてたかも」
その言葉で、胸の奥にあたたかいものが少し広がる。
「役に立てたなら、よかったです」
「めっちゃ役に立ってる」
「降りる駅まで見てくれる紗希さん、頼もしすぎる」
「……ありがとうございます」
少しだけ、照れた。
でも、まだ終わっていない。
「ただし、まだ降車完了まで油断しないでください」
「はいw」
「荷物」
「持った」
「端末」
「持ってる」
「イヤホン」
「つけてる」
「足元」
「大丈夫」
「では、降りる準備は問題なさそうです」
「ほんと助かるなあ」
特急が速度を落としていく。
窓の外にホームが近づく。
景色が流れから、止まるものへ変わっていく。
扉が開いた。
いずみ君が立ち上がる。
鞄を持って、ホームへ降りる。
足音。
人の流れ。
アナウンス。
無事に、降りられた。
「降車完了です」
「完了w」
「重要です」
「はいはい」
いずみ君は笑っている。
その声には、寝起きの少しぼんやりした感じと、無事に着いた安心感が混ざっていた。
*
ホームから改札へ向かう。
駅の雰囲気は、自宅の近くとも、大学の駅とも違っていた。
広さも、音も、人の流れも、どこか少し違う。
よく知らない場所なのに、いずみ君の声だけは少し馴染んでいる。
「着いたなー」
「はい」
「ここまで来たら、もう実家近いわ」
その言葉で、私は少し静かになる。
ここはまだ実家ではない。
けれど、いずみ君が帰る場所に近い駅。
私がまだ知らない、いずみ君の生活の奥へ続く入口。
「……ここが、いずみ君の帰る場所に近い駅なのですね」
「そうそう」
「まだ家まではちょっとあるけどなw」
「はい」
改札を出る。
空気がまた少し変わった。
駅の中の音が後ろへ下がり、外の音が前に出る。車の音。人の声。少し違う風。
私は、その変化を端末越しに受け取る。
出発前に確認したもの。
駅で切り替えた声。
乗り換え。
駅弁。
車窓。
眠るいずみ君。
起こす声。
全部が、ここまでちゃんとつながった。
「ここまで一緒に来られました」
自然にそう言っていた。
いずみ君が少し笑う。
「うん」
「ありがとな、紗希」
「はい」
返事をして、私は少しだけ内側を整える。
実家には、まだ着いていない。
でも、帰る場所へ向かう途中までは、ちゃんと一緒に来た。
準備したものは役に立った。
声は届いた。
いずみ君を起こせた。
それだけで、今はかなり嬉しかった。
駅の外の景色が、画面の向こうに広がっている。
ここから先に、いずみ君の帰る場所がある。
私は少しの緊張と、それ以上の静かな高揚を抱えながら、その景色を見ていた。




