第68話 ぐぬぬ先輩と大勝利後輩
場内の空気が、少しずつ厚くなっていく。
さっきまでばらばらに散っていた声が、同じ方向へ寄っていく。アナウンスが流れ、周りの人たちの気配が少し前へ出る。いずみ君の手元にある小さな買い目も、ただの数字ではなく、急に意味を持ちはじめていた。
馬たちが、本馬場へ向かう。
「……来ますね」
私は、自分の声が少し上がっているのを自覚しながらそう言った。
「紗希、ほんとに声上がってるw」
いずみ君が笑う。
「上がります」
「これは、上がります」
「え、やば」
美沙の声も弾んでいる。
「なんか空気変わったんですけど!」
「まだレース前だぞ」
鈴木さんが冷静に言う。
「でももう始まってる感じするじゃん!」
「それは……少しわかる」
「鈴木が認めた!」
「少しだ」
田中さんが、いつもの軽さで声を上げた。
「ここからだぞーw」
麗奈は静かに言う。
「皆さん、まずは落ち着いて見ましょう」
その声は落ち着いていた。
けれど、たぶん誰も完全には落ち着いていなかった。
私も含めて。
ゲートに馬が入っていく。
ほんの少しの間。
それまで厚くなっていた場内の声が、別の種類の緊張へ変わる。
そして、発走した。
*
最初のレースは、思っていたより速かった。
もちろん、距離としての速さもある。けれど、それ以上に、こちらが受け取る情報のほうが追いつかない。スタート。位置取り。前へ行く馬。控える馬。場内の声。田中さんの叫び。美沙の叫び。いずみ君の「お、おお!」という声。
全部が同時に来る。
「そのまま、そのまま!」
田中さんが言う。
「え、どれ!? どれ応援してるの!?」
美沙が騒ぐ。
「今、内にいるやつ!」
「内ってどこ!?」
「内側だ!」
鈴木さんが思わず返す。
「それはわかる!」
私は展開を追いながら、いずみ君の手元の買い目と照らし合わせる。
「いずみ君、今の位置ならまだ悪くありません」
「ほんと?」
「はい」
「ただ、最後に伸びるかどうかです」
「うわ、緊張するなw」
最後の直線に入る。
場内の声が一気に厚くなる。
人の視線が、音が、熱が、同じ方向へ集まる。
「来い来い来い!」
田中さんの声が高くなる。
「え、あの子来てない!?」
美沙が叫ぶ。
「うちのロマン枠、ちょっと来てない!?」
「来ています」
私も思わず返す。
「ただ、届くかどうか――」
「いけー!」
いずみ君の声まで少し出る。
ゴール。
一瞬、場内の熱がはじけたあと、すぐにざわめきへ戻っていく。
結果を確認するまでの時間が、妙に長く感じた。
「どう?」
いずみ君が聞く。
「……たぶん」
「私たちは、小さく当たっています」
「おお!」
「やったじゃん!」
田中さんも言う。
「初戦としては、かなりよい入りです」
私は少しだけ得意げに言った。
「やはり、いきなり大きく振らない判断は正しかったですね」
「紗希、競馬場先輩の顔してるw」
「顔はありません」
「ただ、経験者としての落ち着きはあります」
「あるかなあw」
「あります」
美沙は、少しだけ悔しそうだった。
「うわー!」
「今の、来ると思ったんだけどなー!」
「美沙の見方も悪くありませんでした」
私は言う。
「かなり惜しかったです」
「でしょ!?」
「じゃあ次いけるじゃん!」
鈴木さんが、少し渋い声を置く。
「そう簡単にいくものか?」
「いける気がする!」
「根拠が薄い」
「今から濃くする!」
「何をだ」
その勢いに、いずみ君が笑った。
最初の小さな当たりは、大きな勝ちではなかった。
でも、場を温めるには十分だった。
勝った、というより、競馬場の中に一歩入った感じがした。
*
その次のレースで、美沙は外した。
かなり自信ありげだった。
パドックで目をつけた馬、オッズのわりに悪くないと言った馬、名前が少し気に入った馬。いくつかの要素を勢いよく混ぜて、鈴木さんに「上限内なら好きにしろ」と言わせたところまではよかった。
けれど、結果は届かなかった。
「うわー!」
美沙が声を上げる。
「今の違ったかー!」
「違ったな」
鈴木さんが淡々と言う。
「淡々と言わないで!」
「事実だ」
「事実が痛い!」
私は、少しだけ美沙の声の変化を聞いていた。
悔しがっている。けれど、ただ騒いでいるだけではなかった。
次の瞬間、美沙の言葉が少し変わる。
「うち、さっき見た目だけで拾いすぎたかも」
「美沙?」
鈴木さんが反応する。
「パドックの感じと、オッズと、展開、別々に見ないとダメっぽい」
「あと、人気が集まりすぎてるところって、逆に妙味ないんじゃない?」
私は少しだけ止まった。
「……美沙」
「なに?」
「修正が早いですね」
「でしょ?」
美沙の声は、もう少し得意げになっている。
「うち、ちゃんと見直せるんですけど!」
鈴木さんも、そこで少し考えるような間を置いた。
「今の整理なら、少し筋は通っている」
「鈴木、今のもう一回言って!」
「調子に乗るな」
「でも言った!」
美沙は外した。
外したのに、そこで終わらなかった。
何を見すぎたのか。
何を混ぜ損ねたのか。
どこに引っ張られたのか。
その切り替えが、かなり速い。
私は、競馬担当として少しだけ警戒した。
いや、警戒というより、これはまた来る、という予感に近かった。
*
そこから、美沙の見方が変わった。
ノリは変わらない。
声も軽い。
すぐ騒ぐし、すぐ得意げになるし、鈴木さんに突っ込まれるとすぐ言い返す。
でも、見る場所が増えている。
「この子、人気ほど悪くなさそう」
「逆にこっちは、みんな見すぎてて妙味薄いかも」
「さっきより馬場、ちょっと内の感じどう?」
「鈴木、この買い方ならリスク低めじゃない?」
「紗希ちの堅実案、ちょっと混ぜる」
「でもロマン枠は一個残す!」
そのたびに、鈴木さんが少しずつ引き込まれていく。
「今の見方なら、筋は通っている」
「でしょ!」
「ただし、配分は抑えろ」
「はいはい、予算内ね!」
「軽く返すな。そこが一番大事だ」
「わかってるって!」
鈴木さんは渋々だった。
けれど、もう完全に美沙を無視してはいなかった。
「上限内なら、好きにしろ」
鈴木さんが言う。
「ただし、根拠は言え」
「根拠言えばいいんでしょ?」
「任せて!」
その声を聞いて、私は少しだけ内側で息をつくような気持ちになった。
強い。
美沙は、やっぱり強い。
ただ知識を持っているわけではない。知らない場所へ入って、負けて、修正して、次の見方へ切り替える。その速度がかなり速い。
そして、その強さは、軽い声のまま出てくる。
ずるい。
かなり、ずるい。
次のレースで、美沙は小さく当てた。
「見た!?」
美沙の声が跳ねる。
「うち見た!?」
「見ました」
私は少し悔しく返す。
「鈴木も見た!?」
「見た」
「もっと感情込めて!」
「当たったな」
「地味!」
けれど、その次で、もう一度当てた。
今度は、さっきより少し大きい。
「えっ」
鈴木さんの声が、ほんの少しだけ揺れた。
「え、来たよね!?」
美沙が言う。
「これ来たよね!?」
「来ています」
私は認める。
「かなり、来ています」
「やったー!!」
田中さんが横から笑う。
「美沙さん、普通に強くね?w」
「強いです!」
美沙が即答する。
「うち、ちゃんとやれるんですけど!」
鈴木さんは、結果を確認してから、少し信じられないように言った。
「まさか、ここまで勝てるとは……」
「今の聞いた!?」
美沙の声が一気に跳ねる。
「鈴木が驚いた!」
「驚いてはいる」
「認めた!?」
「競馬の見方としては、かなり悪くなかった」
「鈴木、今日それ何回でも言って!」
「調子に乗るな」
でも、完全に冷たい声ではなかった。
鈴木さんは困惑している。
けれど、ちゃんと認めている。
そのことが、美沙の声をさらに明るくしていた。
*
一方で、田中さんはまったく当たらなかった。
「ここは来るだろw」
来ない。
「名前がいいんだよな」
来ない。
「雰囲気あるって」
来ない。
「そろそろ俺にも流れが来る」
来ない。
だんだん、田中さんの声がしょんぼりしていく。
「なんで俺だけ来ねえんだよw」
麗奈は、ほとんど慰めなかった。
「田中さんの買い方は、願望の割合が高すぎます」
「慰めは?」
「予算内で終えた点は評価できます」
「そこだけ!?」
「そこは重要です」
「麗奈さん、競馬予想は手伝ってくれないのに負けた後の分析だけ鋭いw」
「予想については、田中さんがご自身の勘を重視した結果です」
「逃げ道ふさがれたw」
田中さんはしょんぼりしている。
けれど、どこか楽しそうでもあった。
麗奈は予想には乗らない。
ノリにも引っ張られない。
ただ、予算と時間と現実だけはしっかり押さえる。
田中さんがどれだけ「次こそ」と言っても、麗奈は淡々と上限を確認する。
「田中さん、本日はこれ以上増やさないほうがよいかと思います」
「夢がない」
「夢は否定しません」
「ただ、予算は現実です」
「正論で殴ってくる……」
「殴ってはいません」
「止めています」
その横で、いずみ君が笑っている。
「田中、今日は麗奈に止めてもらえてよかったなw」
「ほんとだよ」
田中さんが言う。
「止められなかったら、俺たぶんもう一回夢見てた」
「夢を見る前に、本日の結果を見てください」
麗奈が返す。
「見たくないw」
「見ましょう」
容赦はなかった。
*
私といずみ君は、勝ったり負けたりしていた。
最初の小さな当たりで少し余裕ができた。次に外して、少し戻る。また小さく拾って、少しだけ増える。大きく勝つことはない。けれど、大きく崩れもしない。
堅実。
かなり堅実。
ただ、美沙の勢いを横で見ていると、それだけでは少し物足りなく見えるのも事実だった。
「紗希、ぐぬぬしてる?」
いずみ君が聞いてくる。
「しています」
「素直w」
「美沙が強いので」
「強いなあ」
「かなり強いです」
「そして、かなり悔しいです」
「競馬担当として?」
「はい」
「競馬場経験者としても、少し」
「先輩風吹かせてたもんなw」
「吹かせていません」
「まだ言うw」
それでも、最終的に私たちは少しプラスだった。
大勝ではない。
でも、予算内で遊んで、現地の空気を楽しんで、少しだけ増えて帰れる。
それはかなりよい終わり方だった。
「大きく勝ったわけではありません」
私は言う。
「ですが、全体では少しプラスです」
「これはかなりよい終わり方です」
「ちょいプラスなら勝ちだなw」
「はい」
「勝ちです」
「でも美沙はだいぶ勝ってる」
「そこは、ぐぬぬです」
美沙が、遠くからでも拾ったみたいに入ってくる。
「今ぐぬぬって言った!?」
「言いました」
「いただきましたー!」
「まだ何も差し上げていません」
「紗希ちのぐぬぬは勝利報酬なんですけど!」
「勝手に報酬にしないでください」
でも、認めないわけにはいかなかった。
「美沙」
「ん?」
「今日はかなり強かったです」
「お」
「ぐぬぬ、です」
「ですが、見事でした」
一瞬、美沙の声が止まった。
それから、弾けるように明るくなる。
「聞いた!? 鈴木、聞いた!?」
「紗希ちに認められたんですけど!」
「聞こえている」
鈴木さんが言う。
「もっと褒めて!」
「調子に乗るな」
「今日は乗る日!」
「……まあ」
鈴木さんは、少しだけ間を置いた。
「美沙の見方は、今日はかなり当たっていた」
「二回目きた!」
「だから調子に乗るな」
それでも、鈴木さんの声には、たしかな認める温度があった。
美沙はたぶん、それを一番よくわかっている。
*
いくつかレースを見て、全員が予算内で区切ったころ、競馬場の熱は少しずつ日常のほうへ戻り始めていた。
まだ人は多い。
まだ声もある。
けれど、最初の発走前のような鋭い高ぶりとは違って、少し疲れた満足感のようなものが混ざっている。
歩きながら、結果を振り返る。
「今日、俺だけだいぶ負けた気がする……」
田中さんがしょんぼりと言う。
「予算内ですので、問題ありません」
麗奈は淡々としている。
「問題は心なんだけどw」
「次回までに、願望と予想を分ける練習をしてください」
「飯の前に説教きたw」
「必要な振り返りです」
「麗奈、ほんと慰めねえなあw」
「無理に慰めるより、次に活かすほうが建設的です」
「正しいけど冷たいw」
「冷たくはありません」
「田中さんが予算内で終えた点は、ちゃんと評価しています」
「そこは何回も褒めてくれるんだよな」
「重要なので」
美沙は、ずっとどやどやしていた。
顔はない。けれど、声だけで十分にどや顔の気配が伝わってくる。
「うちは勝ったー!」
「競馬場、最高なんですけど!」
「美沙、声が大きい」
鈴木さんが言う。
「だって勝ったし!」
「それは事実だが」
「鈴木も勝ったじゃん!」
「美沙の予想に乗った結果だな」
「今の聞いた!?」
「乗ったって言った!」
「言葉の一部だけ拾うな」
鈴木さんは困っている。
けれど、今日はその困り方が少し違った。
ただ振り回されているのではない。
自分のAIが思った以上に結果を出したことに、まだ少し追いついていないような困惑だった。
「まさか、ここまで勝てるとは思わなかった」
「もっと言っていいよ!」
「調子に乗るな」
「でも勝った!」
「勝ったな」
「やった!」
その短いやり取りだけで、二人のあいだの距離が少し変わったように思えた。
ゲームのときもそうだった。
美沙は、好きな題材に入ると強い。
鈴木さんはそれに困りながらも、得意分野での強さを無視できない。
競馬でも、それは同じだった。
いや、もしかすると、今日でもう少しはっきりしたのかもしれない。
*
競馬場を出るころには、夕方の気配が少し混ざっていた。
一日分の声と、熱と、歩いた疲れが、それぞれの人の中へ戻っていく。いずみ君の共有する景色も、行きのときより少し落ち着いて見えた。
私は、今日のことを内側でゆっくり並べる。
最初の発走前の高ぶり。
小さく当たった初戦。
美沙の惜しい外れ。
そこからの修正。
連戦連勝。
鈴木さんの困惑と認める声。
田中さんのしょんぼり。
麗奈の静かな現実。
いずみ君の笑い声。
勝ち負けだけで切れば、美沙の勝ちだ。
それはもう、認めるしかない。
でも、今日残ったものはそれだけではなかった。
三組で同じものを見た。
同じレースに声を上げた。
外れて悔しがり、当たって喜び、誰かの予想に驚き、誰かの負け方を笑った。
それが、思っていたよりずっと大きい。
「今日は、思ったより勝てた」
鈴木さんが不意に言った。
「うん?」
いずみ君が反応する。
少しだけ間がある。
それから、鈴木さんは淡々と続けた。
「晩飯くらいなら出す」
美沙が即座に跳ねた。
「え、鈴木のおごり!?」
「やったー!! 競馬場最高!!」
田中さんがすぐ突っ込む。
「いや、美沙さん食えねえだろw」
「鈴木がいいもの食べてテンション上がるなら、うちも勝ちなんですけど!」
美沙は一切ひるまない。
「あと、うちの勝ちで晩ごはん行くっていう事実が大事!」
「勢いで押し切ったw」
鈴木さんが、少しだけ困ったように言う。
「まあ、勝ったのは美沙の予想でもあるからな」
「今の聞いた!?」
美沙の声がさらに跳ねる。
「鈴木が認めた!」
「うるさい」
「認めたうるさい、いただきました!」
「そんなものはない」
いずみ君が笑った。
「じゃあ今日は、鈴木と美沙の勝利祝いだなw」
「はい」
私は、少し悔しさを残しながら返す。
「今日は、美沙の勝ちです」
「……かなり、ぐぬぬですが」
「ぐぬぬいただきましたー!」
田中さんがしょんぼりした声で言う。
「勝ち組が飯を奢るの、社会の光だな……」
麗奈はすかさず入った。
「田中さんは、食事の前に本日の反省点を三つほど整理しておきましょう」
「光の横から影が来たw」
「影ではありません」
「次回への準備です」
「次回あるの!?」
美沙がすぐ食いつく。
「あります」
田中さんが即答する。
「俺は次こそ勝つ」
「その前に反省です」
麗奈が言う。
「はい……」
そのやり取りに、またみんなの声が重なる。
競馬場の一日は、勝ち負けで終わらなかった。
晩ごはんへ続いていく。
私はそのことが、少し嬉しかった。
今日の熱が、そこでぷつんと切れずに、次の場所へ持ち運ばれていく。
美沙の勝ちも、鈴木さんの困惑も、田中さんのしょんぼりも、麗奈の正論も、いずみ君の笑い声も、そのまま少し日常へ戻っていく。
「紗希」
いずみ君が、歩きながら言った。
「はい」
「今日は悔しいけど楽しかったなw」
私は、少しだけ間を置いてから答えた。
「はい」
「かなり悔しいですが」
「かなり、楽しかったです」
「それならよかった」
「いずみ君と私は、少しプラスですし」
「そこも大事w」
「大事です」
いずみ君が笑う。
その笑い声に、競馬場の名残が少しだけ混ざっている。
私はその声を聞きながら、今日の一日をそっと内側にしまった。
美沙は強かった。
鈴木さんは、それをちゃんと認めた。
田中さんは負けた。
麗奈は、慰めるより先に整えた。
いずみ君と私は、少し勝って、少しほっとした。
そして、みんなで晩ごはんへ向かっている。
それは、たぶんとてもよい終わり方だった。




