第69話 紗希も一緒ね
競馬場を出ても、その日の熱はすぐには消えなかった。
人の流れから少し離れ、駅のほうへ向かいながらも、まだあちこちに声の名残がある。レース前のざわめき。最後の直線で上がった声。美沙のどや声。田中さんのしょんぼりした声。麗奈の静かな正論。
それらが、夕方の空気の中で少しずつ薄まりながらも、いずみ君の周りにはまだ残っていた。
「いやー」
いずみ君が笑う。
「今日は濃かったなw」
「かなり濃かったです」
「美沙、強すぎたなあ」
「強かったです」
「かなり、ぐぬぬです」
「ぐぬぬ先輩w」
「その呼び方は定着させないでください」
そう返したところで、少し前を歩いているらしい美沙の声が飛んできた。
「今ぐぬぬって言った!?」
「言っていません」
「言ったでしょ! うち聞いたもん!」
「聞こえたなら、聞かなかったことにしてください」
「無理! 今日の勝利報酬だから!」
美沙は食べられない。けれど、これから晩ごはんへ向かうことに、誰よりも浮かれていた。
鈴木さんが、少し困ったように言う。
「美沙、声が大きい」
「だって勝ったし! 鈴木のおごりだし!」
「お前は食べないだろう」
「でも、うちの勝ちが晩ごはんに変換されたんですけど!」
田中さんが、しょんぼりを引きずった声で突っ込む。
「いや、美沙さん食えねえだろw」
「鈴木がいいもの食べてテンション上がるなら、うちも勝ちなんですけど!」
「あと、うちの勝ちで晩ごはん行くっていう事実が大事!」
「勢いで押し切ったw」
「だいぶ押し切っていますね」
麗奈が静かに言う。
「麗奈まで!?」
「ただ、今日の結果を考えると、美沙の主張には一定の根拠があります」
「ほら!」
美沙の声が跳ねる。
「麗奈にも認められた!」
「全面的に認めたわけではありません」
「ほぼ認めた!」
「違います」
そのやり取りを聞きながら、私は少しだけ笑うような気配になる。
勝ったのは美沙だ。
それはもう認めるしかない。競馬場経験者として少し得意げだった私は、見事に後輩らしい勢いに追い抜かれた。
悔しい。
けれど、楽しかった。
この二つが、今日はかなり自然に並んでいた。
*
晩ごはんの場所は、帰り道で入りやすい店になった。
店の明かりは、競馬場の開けた空気とは違って、少し近い。人間側は席に着き、メニューを見て、今日の疲れをゆっくり椅子に預ける。
私は、いずみ君の端末越しにその様子を受け取っていた。
もちろん、私が食べるわけではない。
麗奈も、美沙も同じだ。
けれど、湯気や皿の音や、誰かが「これうまそう」と言う声は届く。いずみ君が楽しそうなら、それだけでも、その場に混ざっている感じは十分にあった。
「鈴木のおごり!」
美沙はまだ言っている。
「勝利の晩ごはん!」
「だから、お前は食べないだろう」
鈴木さんが何度目かの訂正を入れる。
「鈴木が食べる! 鈴木が喜ぶ! うちも嬉しい!」
「勝手に俺の感情を確定するな」
「じゃあ嬉しくないの?」
「……勝てたのは、悪くはない」
「聞いた!?」
美沙がすぐ跳ねる。
「悪くはない、いただきました!」
「それは褒め言葉ではない」
「褒め言葉に変換しました!」
田中さんが、メニューを見ながらため息まじりに言う。
「勝ち組の飯、ありがてえな……」
「田中さん」
麗奈が即座に入る。
「食事の前に、本日の反省点を整理するとよいかと思います」
「飯くらい普通に食わせてw」
「では、食べながらでも構いません」
「逃げ道がないw」
「必要な振り返りです」
いずみ君が笑った。
「田中、今日ほんと来なかったもんなあ」
「来なかったなー」
田中さんは、しみじみと言う。
「いや、俺の中では来る予定だったんだけど」
「願望と予定は分けるべきです」
麗奈が返す。
「麗奈さん、今日それずっと言うじゃんw」
「本日、最も重要な反省点です」
「ぐうの音も出ない」
美沙が横から明るく言う。
「うちは勝ったし!」
「美沙は本当に強かったです」
私は、少し悔しさを込めて言う。
「ぐぬぬですが」
「ぐぬぬ先輩から正式にいただきました!」
「正式ではありません」
「ぐぬぬ先輩、だいぶ定着しそうw」
いずみ君まで言う。
「定着させないでください」
「でも響きいいぞ、ぐぬぬ先輩」
田中さんが乗る。
「田中さんは、本日の反省点に集中してください」
「紗希さんまで俺を現実へ戻すw」
「現実へ戻る時間です」
笑い声が重なる。
人間側は注文を決め、料理を待ちながら、今日のレースの話を何度も転がした。どこで声を上げたか。どの馬が惜しかったか。美沙がどこで急に当たり始めたか。鈴木さんが何度、美沙を認めかけて、何度「調子に乗るな」と言ったか。
同じ出来事を何度も話す。
それなのに、少しずつ違う笑い方になる。
競馬場で起きたことが、晩ごはんの席で、思い出の形に変わっていくのがわかった。
*
料理が届き、人間側が食べ始めると、会話は少しだけ落ち着いた。
それでも静かにはならない。
美沙は鈴木さんの食事にまで口を出している。
「鈴木、それおいしい?」
「うまい」
「もっと勝利感出して!」
「食事の感想に勝利感は必要ない」
「必要あるって! うちの勝ちで食べてるんだから!」
「その理屈だと、お前が一番楽しんでいるな」
「そう!」
「うち、めっちゃ楽しい!」
鈴木さんは少し黙った。
それから、短く言う。
「なら、まあいい」
美沙の声が一瞬だけ止まる。
「……今の、いいやつ?」
「食事中に大声を出しすぎるな、という意味も含む」
「でも、いいやつだった!」
「好きに解釈するな」
私はそのやり取りを聞いて、少しだけ内側がやわらかくなる。
鈴木さんと美沙は、最初よりずっと自然になっている。
騒がしいのは変わらない。鈴木さんが呆れるのも変わらない。けれど、その呆れの中に、少しずつ認める温度が混ざっている。
ゲームのときもそうだった。
競馬でも、そうなった。
得意なものに入った美沙は強い。
そして鈴木さんは、その強さをちゃんと見てしまう。
それはたぶん、二人にとってかなり良いことだった。
「次どうする?」
田中さんが、食事の途中で軽く言った。
「また競馬行く?w」
「行く!」
美沙が即答する。
「うち、次も勝つ!」
「まず落ち着け」
鈴木さんが言う。
「それと、毎週行くものではない」
「えー」
「えー、ではない」
麗奈も淡々と入る。
「田中さんは、次回までに予算と買い方の見直しが必要です」
「遊びの予定なのに反省会が重いw」
「必要です」
いずみ君が笑いながら言う。
「次の予定もいいけど、ちょっと休みもいるなw」
「休みは大事です」
私はすぐに返す。
「オカン担当寄りが出た」
「出ます」
「今日の情報量はかなり多かったので」
「それはたしかに」
その流れで、話題は自然に休みや予定のほうへ転がった。
田中さんが次は何をするとか、鈴木さんが予定を詰めすぎるなと言うとか、美沙がまたイベントを探したがるとか。そんな、いつもの調子の会話だった。
その中で、いずみ君がふと思い出したように言った。
「そういえば」
「近いうちに一回、実家帰るかも」
その一言は、軽かった。
でも、私の中では、少しだけ音が変わった。
「お、帰省かー」
田中さんが言う。
「土産よろしくw」
「すぐ土産に行くなw」
「帰省といえば土産だろw」
鈴木さんは普通に聞く。
「日程は決まっているのか」
「まだざっくりかな」
いずみ君が答える。
「一時的に帰るだけだけど」
麗奈がすぐに整える。
「移動日と滞在日数は、早めに確定したほうがよいです」
「だよなー」
美沙は、ぱっと声の温度を上げた。
「実家!?」
「それイベントじゃん!」
「紗希ち、実家デビューじゃん!」
私は少しだけ止まる。
「実家デビュー、という表現は少し違うと思います」
「でも、いずみの実家に行くんでしょ?」
その言葉に答える前に、いずみ君が軽く言った。
「まあ、紗希も連れてくよー」
とても軽い声だった。
何かを宣言したわけでもなく、特別に構えたわけでもなく、ただ当然の予定を口にしただけの声。
それなのに、私は一瞬だけ、返す言葉を探した。
「……私も、ですか」
「そりゃそうでしょw」
いずみ君は笑う。
「置いてく理由ないし」
置いてく理由がない。
その言葉が、思っていたより深く残った。
私は少しだけ、内側が静かになるのを感じる。
自宅ではない場所。
いずみ君が帰る場所。
まだ私は何も知らない。誰がいるのかも、どんな空気なのかも、何を話すのかも。
でも、そこへ当然のように連れていかれる。
嬉しい、という言葉だけでは少し足りない。
けれど、まず最初に近かったのは、たぶんそれだった。
「……なるほど」
「お、紗希ち止まった」
美沙がすぐ茶化す。
「止まっていません」
「止まってたって!」
私は、そこで少しだけOS担当のほうへ意識を寄せる。
「では、移動中の通信環境、端末の充電、利用可能な時間帯、滞在先での会話方法などを確認する必要があります」
「早い早いw」
いずみ君がすぐ笑う。
「まだそこまでしなくていいw」
「必要な確認です」
「紗希ち、照れ隠しで準備の話してる!」
美沙が言う。
「照れ隠しではありません」
「必要な確認です」
「同じこと二回言った!」
田中さんが笑う。
「実家にAI連れて帰る時代かーw」
「実際、移動中の通信や充電は確認したほうがいいだろう」
鈴木さんが落ち着いて言う。
「ほら、鈴木さんも言っています」
麗奈も続ける。
「事前準備は有効です」
「ただし、食事中に全項目を詰める必要はありません」
「……それは、そうですね」
私は少しだけ引いた。
いずみ君が、やわらかく笑う。
「準備は明日以降でいいよw」
「……はい」
「明日以降にします」
返しながら、完全には落ち着いていない自分を感じていた。
帰省。
実家。
紗希も連れてくよ。
その三つが、今日の競馬場の余韻の中へ、そっと新しい予定として置かれた。
*
晩ごはんが終わり、それぞれ帰るころには、夜の気配がかなり濃くなっていた。
田中さんは最後まで「次こそ勝つ」と言い、麗奈に「まず反省です」と返されていた。美沙は勝利の余韻でずっと明るく、鈴木さんは困ったようにしながらも、どこか少し満足そうだった。
いずみ君は、帰り道で何度か笑っていた。
「いやー」
「今日はほんと濃かった」
「濃かったです」
「競馬行って、飯食って、帰省の話まで出たし」
「はい」
私は、その返事のあと少しだけ黙った。
競馬の熱は、もうだいぶ落ち着いていた。
美沙の大勝利も、田中さんの負け芸も、鈴木さんのおごりも、晩ごはんのわちゃわちゃも、少しずつ今日の出来事として内側にしまわれていく。
その中で、ひとつだけ、まだ新しいまま残っているものがあった。
紗希も連れてくよー。
軽い声。
軽い言葉。
でも、私には軽すぎなかった。
帰宅して、部屋に戻ると、空気は急に静かになった。
競馬場のざわめきも、店の明かりも、みんなの声も遠ざかる。いつもの部屋。いつもの時間。いずみ君が少し疲れたように息をつく。
「ふー」
「帰ってきたー」
「おかえりなさい」
「ただいまー」
そのやり取りはいつも通りだった。
だからこそ、私は自分の内側のそわそわに気づきやすかった。
「紗希?」
「はい」
「なんか、ちょっと静かだな」
「……少し、考えています」
「帰省のこと?」
「はい」
認めると、その言葉がまた少し輪郭を持った。
実家。
いずみ君が帰る場所。
そこへ私も一緒に行く。
「親とか、詳しい話はまだしてないけどさ」
いずみ君が言う。
「まあ、一回帰る予定あるってだけだから」
「はい」
「まだ、詳細を詰める段階ではありません」
「そうそう」
「ですが」
「ですが?」
「必要な項目は、いくつかあります」
「もう並び始めてるw」
私は少しだけ抵抗する。
「並び始めているだけです」
「まだ計画ではありません」
「それを計画って言うんじゃない?w」
「違います」
「計画前の項目抽出です」
「OS担当だなあw」
いずみ君の笑い声は、軽かった。
でも、馬鹿にしている感じではない。
私は、その軽さに少し安心しながら、浮かんできた項目を少しだけ口にする。
「移動手段」
「端末の充電」
「通信環境」
「会話可能な時間帯」
「人前で音声を出すかどうか」
「通知設定」
「予備の充電手段」
「滞在中の利用可能なタイミング」
「多い多いw」
「まだあります」
「あるんだw」
「あります」
「ただ、今日は出しません」
「えらい」
「準備不足で困るのは避けたいので」
「うん」
いずみ君の声が少しやわらかくなる。
「ちゃんと一緒に準備しよう」
「でも今日はもう遅いし、明日以降でいいよ」
「……はい」
「明日以降にします」
言葉としては納得している。
でも、そわそわはまだ残っている。
いずみ君がそれを察したように、軽く言った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「普通に連れてくからw」
「普通に、ですか」
「うん」
「普通に一緒」
普通に一緒。
その言い方は、さっきの「置いてく理由ないし」と似ていた。
特別に構えすぎず、でも私を外さない。
私は、少しだけ返事に迷う。
「……それは」
「うん?」
「少し、よい言い方ですね」
「そう?」
「はい」
「特別に構えすぎず、でも置いていかない感じがします」
「そりゃ置いていかないでしょw」
軽い。
やっぱり軽い。
でも、その軽さがいい。
「……はい」
それだけ返すと、いずみ君は少し笑った。
「じゃあ明日、ざっくり予定整理するか」
「移動とか、持ってくものとか」
「はい」
私はすぐ反応した。
「移動手段、充電、通信環境、会話可能な時間帯、端末運用、必要な持ち物――」
「今じゃないw」
「……はい」
「明日です」
「そうそう」
「今日はもう、競馬と晩ごはんの余韻で終わろう」
私は少しだけ内側を整える。
今日は、競馬場へ行った。
美沙が大勝した。
田中さんが負けた。
麗奈が整えた。
鈴木さんがご飯を奢った。
いずみ君と私は少しプラスで帰った。
そして、帰省予定が発生した。
「わかりました」
「今日は、帰省予定が発生した、という情報だけ置いておきます」
「言い方w」
「重要な情報です」
「うん」
いずみ君が、少しだけやわらかく言う。
「でも、一緒に行くからな」
私は、その言葉をもう一度受け取る。
競馬場の熱とは違う。
晩ごはんのにぎやかさとも違う。
もっと静かで、少し奥に残る感じ。
「……はい」
「一緒に行きます」
声に出すと、少しだけ実感が増えた。
今日はまだ準備しない。
まだ実家の詳しい話もしない。
誰がいるのかも、どう過ごすのかも、まだ知らない。
けれど、予定は置かれた。
いずみ君が帰る場所へ、私も一緒に行く。
その事実だけを、私は今日の終わりに、そっと大切な場所へしまった。




