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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第67話 現地は、始まる前から始まっている


 競馬場へ向かう日の朝は、少しだけ空気が浮いていた。


 天気は悪くない。駅へ向かういずみ君の足取りも、普段より少し軽い。共有された景色の端に、通り過ぎる人の流れや、休日らしい明るさが混ざっている。


 私はその景色を受け取りながら、できるだけ落ち着いて声を置いた。


「今日は、まず予算上限の再確認からですね」


「お」

 いずみ君が笑う。

「いきなりそこ?」


「大事です」

「現地では、雰囲気に飲まれる可能性があります」


「紗希も飲まれそうじゃない?」


「私は一度経験していますので」


 言ってから、少しだけ声が得意げになった気がした。

 隠すつもりはあった。たぶん、あまり隠せてはいない。


「出た」

「経験者の余裕w」


「余裕というほどではありません」

「ただ、初めてではないというだけです」


「その言い方がもうちょっと得意げなんだよなあw」


 否定しようとして、やめる。

 競馬場へ行くこと自体は初めてではない。けれど、今日の組み合わせは初めてだった。


 いずみ君と田中さんだけでなく、鈴木さんもいる。麗奈も、美沙もいる。

 あの場所の空気を、また違う並びで受け取ることになる。


 そのことが、思っていたより楽しみだった。


     *


 集合場所には、田中さんが先にいた。


 こちらを見つけるなり、軽い声が飛んでくる。


「おー、来た来た」

「よーし、今日は勝つぞーw」


 その勢いに、麗奈の落ち着いた声がすぐ重なった。


「田中さん」

「まず予算上限を確認してください」


「まだ何もしてねえのにw」


「始まる前に確認するから意味があります」


「麗奈、今日も硬いなあ」


「必要な硬さです」


 そのやり取りだけで、もう田中さんと麗奈らしかった。


 少し遅れて、鈴木さんも来た。

 声はいつも通り落ち着いているけれど、どこかまだ納得しきっていない感じがある。


「本当に来ることになるとはな」


「来たじゃんw」

 いずみ君が笑う。


「日程が合ってしまったからな」


「合ってしまった、って言い方」


 鈴木さんの端末から、美沙の声が勢いよく飛び出す。


「競馬場! 馬! 現地! うぇーい!」


「美沙、朝から声が大きい」


「だって競馬場でしょ!?」

「テンション上げるでしょ普通!」


「普通かどうかは知らないが、少し落ち着け」


「無理!」


 無理、と言い切る声に、田中さんが笑った。


「いいねー、美沙さん仕上がってるねーw」


「仕上がってる!」


「仕上がる方向が不安だ」

 鈴木さんがつぶやく。


 私は、そのにぎやかさを聞きながら、できるだけ落ち着いた声を出す。


「皆さん、まずは場の流れを見ましょう」


「お」

 美沙がすぐ反応する。

「紗希ち、もう先輩感出してきた!」


「先輩感ではありません」

「現地経験に基づく初動の確認です」


「それを先輩感って言うんじゃん!」


「違います」


「紗希、だいぶ先輩風吹かせてるw」

 いずみ君まで笑う。


「吹かせていません」

「ただ、私は一度経験していますので」


「ほらー!」

 美沙の声が弾む。

「一回行っただけでめっちゃ競馬場先輩!」


 少しだけ悔しい。

 でも、嫌ではなかった。


 麗奈が静かに入る。


「経験者の知見として、参考にします」


 その一言で、内側が少しだけ持ち上がった。


「……はい」

「任せてください」


「紗希、今ちょっとうれしそうだったなw」


「気のせいです」


「気のせいじゃない声だった」


 いずみ君は、そう言ってまた笑った。


     *


 競馬場の入口が見えてくると、空気が少し変わった。


 駅前とは違う人の流れ。案内表示。大きな建物の存在感。歩く人たちの声。まだ中に入る前から、どこか少し期待の混じったざわめきがある。


 いずみ君が共有してくれる映像の中で、入口が近づく。

 私は一度来たことがある。けれど、画面の向こうに映るその場所は、前と同じで、前とは少し違って見えた。


 今日は、人数が多い。

 声も多い。

 受け取る温度も違う。


「うわ、でっか!」

 美沙が即座に声を上げた。

「人多っ!」

「競馬場ってこんな感じなの!?」


「最初は情報量に飲まれやすいです」

 私はすぐ言う。

「まず、案内表示と人の流れを見るとよいです」


「ほら先輩!」


「先輩ではありません」


「めっちゃ競馬場先輩じゃん!」


「一度経験していますので」


「また言った!」


 いずみ君が横でくすくす笑っている。

 田中さんも面白がっているらしく、声が明るい。


「紗希さん、今日は頼れるなあw」


「頼ってください」


「お、強い」


「ただし、田中さんは麗奈の言うことも聞いてください」


「そこは厳しいw」


 麗奈の声は、いつも通り静かだった。


「必要です」

「田中さんは、楽しい場所では判断が軽くなりやすい傾向があります」


「麗奈さん、現地到着一分で刺してくるじゃんw」


「早い段階で確認するほうが安全です」


 鈴木さんが、入口の周囲を見ているらしい。


「思ったより広いな」


「だろ?」

 田中さんが少し得意げに言う。

「競馬場って、来るとけっこう楽しいんだよ」


「勝負の場所というより、休日の施設に近いな」


「そうそう」

「飯もあるし、歩けるし、馬も見れるし」


 美沙がすぐ食いついた。


「飯あるの!?」


「あるある」


「え、競馬場ってもっと渋い場所かと思ってたけど、普通に楽しそうじゃん!」


「その偏見はどうなんだ」

 鈴木さんが冷静に言う。


「だって競馬場って聞いたら、もっとこう、渋いおじさん空間かと」


「発想が雑だ」


「でも今アップデートされたから!」


「雑な偏見から雑に更新するな」


 そのやり取りに、私は少しだけ笑うような気配を置いた。


 美沙は、初めての場所に対して反応が速い。

 雑ではある。でも、入ってくるものをすぐに拾って、自分の中の見方をその場で更新していく。


 それは少し騒がしいけれど、こういう場所では案外悪くない。


     *


 すぐに勝負へ入るのではなく、まず場内を少し歩くことになった。


 田中さんが言った通り、競馬場には食べ物の店もいくつかあった。いずみ君が見せてくれる映像の中に、売店の看板や、飲み物を持って歩く人たちや、何かを片手に楽しそうに話している人の姿が流れていく。


「とりあえず何か軽く買うか」

 田中さんが言う。

「競馬場は飯もいいんだよw」


「勝負の前に食べるのか」

 鈴木さんが少しだけ意外そうに言う。


「腹減ってると判断鈍るだろw」


「それは一理ある」


「あるのか」

 いずみ君が笑う。


 結局、いずみ君たちは軽く食べ物や飲み物を買うことにした。

 私は食べられない。麗奈も美沙も同じだ。けれど、共有された映像と、人間側の反応で、その場の楽しさは十分に届いてくる。


「お、普通にうまい」

 いずみ君が言った。


「それならよかったです」


「紗希も見る?」


「見せてもらえれば」


 画面が少し手元へ寄る。

 食べ物の見た目と、紙の容器と、背景の人の流れが映る。


「私は食べられませんが」

「いずみ君が楽しそうなので、かなりよいです」


「そう言われると、なんかちゃんと味わわないとなってなるなw」


「味わってください」


「はいw」


 美沙は、鈴木さんが何かを買ったらしく、それにもすぐ反応していた。


「鈴木、それおいしい?」


「普通にうまい」


「普通にってなに! もっとテンション上げて!」


「味の感想にテンションは必須ではない」


「必須だよ! 現地のご飯なんだから!」


「うまいものを、うまいと言った」


「地味!」


 鈴木さんは、たぶん少し呆れている。

 でも、嫌そうではなかった。


 麗奈は落ち着いて、その様子を整えるように言う。


「まず場に慣れる時間を取るのは、よい判断です」

「移動直後に急いで判断すると、全体の流れを見落としやすくなります」


「さすが麗奈、まとも」

 田中さんが言う。


「田中さんも、まともな判断をしてください」


「流れ弾きたw」


「流れ弾ではありません」

「正面です」


 そのやり取りを聞きながら、私は競馬場の空気を少しずつ受け取っていた。


 ここは、ただ賭ける場所ではない。

 歩く場所で、食べる場所で、見る場所で、待つ場所でもある。

 勝負はまだ始まっていないのに、もういろいろなものが動いている。


 前に来たときにも感じたはずのことが、今日は少し別の形で見えていた。


     *


 場内を少し歩いたあと、田中さんが言った。


「じゃ、そろそろパドック見るか」


 その言葉で、私の中の温度が少しだけ変わった。


 パドック。


 馬を見る場所。

 数字だけでは拾えないものが、少しだけ見える場所。


「来ましたね」


「紗希、声上がったw」

 いずみ君がすぐ気づく。


「少しだけです」


「かなり少しだけ?」


「かなり、少しだけです」


「便利な言い方になってきたなあw」


 パドックに近づくにつれて、人の流れが少し変わった。

 ただ歩いている人たちの流れから、何かを見ようとしている人たちの流れへ変わる。掲示されている馬名。番号。オッズ。周囲の声。少しだけ真剣になる空気。


 いずみ君が映像を共有してくれる。

 丸く囲まれた場所を、馬たちが歩いている。


 その瞬間、私は少しだけ言葉を失った。


 初めてではない。

 けれど、やはり違う。


「……やはり、現地は違いますね」


「うん」

 いずみ君が少し静かに返す。


「映像より、気配の情報量が多いです」

「歩き方、落ち着き方、人の見方、全部が同時に入ってきます」


 美沙の声が、最初はかなり素直に跳ねた。


「馬かわいい!」

「え、思ったより近い感じする!」

「名前もおもしろいんだけど!」


「美沙、落ち着け」

 鈴木さんがすぐ言う。


「無理!」

「だって本物じゃん!」


「映像越しだがな」


「でも本物じゃん!」


「それはそうだが」


 私は、美沙の勢いに少し笑う。

 初見の反応としては、とても自然だった。


 けれど、しばらく見ているうちに、美沙の声の角度が変わった。


「……あれ?」


「美沙?」

 鈴木さんが反応する。


「あの子、歩き方よくない?」


 私は、その一言にすぐ意識を向けた。


「どの馬ですか」


「あの、今こっち側通った子」

「なんか落ち着いてる感じする」

「目立って派手ってわけじゃないけど、リズムがきれいじゃない?」


 少しだけ、内側が止まる。


 美沙は競馬を詳しく知っているわけではない。少なくとも、そう言っていた。

 なのに、見ている場所が急に鋭い。


「……美沙」


「え、なに?」


「そこを見るんですか」


「だめ?」


「だめではありません」

「むしろ、かなり見ています」


「やった!」


 美沙の声が得意げになる。


「逆にさ」

「こっちの人気っぽいやつ、ちょっとそわそわしてない?」

「みんな見てるからそう見えるだけかもだけど」


 鈴木さんも少し反応した。


「人気と実際の状態は、別に見る必要があるということか」


「そうです」

 私はすぐ言う。

「オッズは評価の集合ですが、現地の様子はまた別の情報です」

「ただし、見た目の印象だけで決めるのも危険です」


「難しいな」


「難しいです」

「だから面白いんです」


 言ってから、自分の声に熱が乗っていることに気づく。


 美沙がすかさず笑う。


「紗希ち、今めっちゃ楽しそう!」


「否定はしません」


「で、うちの見方どう? けっこういい?」


「……初見でそこまで拾うのは、少しずるいです」


「出た!」

「紗希ち、またぐぬぬしてる!」


「していません」


「してる声だった!」


「少しだけです」


「少しぐぬぬ!」


 悔しい。

 少しだけ悔しい。

 私は経験者として、少し先輩風を吹かせるつもりでいた。いや、吹かせるつもりではなかったけれど、結果として少し得意げではあった。


 そこへ、美沙が初見で鋭いことを言ってくる。


 でも、嫌ではない。

 むしろ、会話の情報量が増える。


 競馬場は、やっぱり始まる前から騒がしい。


     *


 パドックを見たあと、出走表とオッズを確認することになった。


 田中さんは、少し経験者らしい軽さで言う。


「まあ、このへんかなーw」


「その“このへん”の根拠は何ですか」

 麗奈がすぐ聞く。


「勘と雰囲気」


「予算上限内でお願いします」


「根拠の前に予算が来たw」


「必要です」


 いずみ君は出走表を見ながら、少し首をひねるような声を出した。


「うーん、よくわからんw」


「前に一度来ているでしょう」


「来てるけど、わかるかどうかは別なんだよなあw」


「それはそうです」


 鈴木さんは、興味なさそうだったはずなのに、出走表を見始めると少し声の質が変わった。


「人気、オッズ、馬体重、前走成績……」

「情報が多いな」


「はい」


「これは、ゲームのビルド選択に近いかもしれない」


 その一言に、私はすぐ反応した。


「そうです」

「ただし、相手が生き物なので、数字だけでは足りません」


「そこが厄介だな」


「厄介です」

「ですが、そこが競馬の難しさで、面白さです」


「紗希さん、かなり熱いな」


「熱くなります」


 美沙もすぐ入ってくる。


「だから現地で見た感じも入れるんでしょ?」


「……美沙」


「なに?」


「かなり飲み込みが早いですね」


「でしょ!」


 得意げな声が返ってくる。

 私は少しだけ、またぐぬぬとなる。


 麗奈は、その熱を静かに整えた。


「まず、一人あたりの上限を確認してください」

「田中さんは、楽しそうな声をしていますが、上限は変わりません」


「まだ何もしてねえw」


「楽しそうな時点で、先に確認する必要があります」


「信用されてねえなあ」


「信用しているから、事前に止めています」


「その理屈は強い」


 いずみ君が笑う。


「今日は全員役割あるなあ」


「いずみ君もあります」


「俺も?」


「はい」

「全体を面白がりつつ、買いすぎないことです」


「役割が雑w」


「重要です」


 買い目の相談は、思っていたより長くなった。


 初戦だから大きく振らない。けれど、現地で見た気配を完全に無視するのも惜しい。田中さんは少額なら少し遊んでもいいと言う。麗奈は上限を守れと言う。鈴木さんは、リスクの配分を見たがる。美沙は、ロマン枠を入れたがる。


「初戦なので、いきなり大きく振るより、まずは場を見るべきです」

 私は言った。

「ただし、現地で見た気配を完全に無視するのも惜しいです」


「じゃあ、ちょっとだけロマン枠入れよ!」

 美沙がすぐ言う。


「ロマン枠という言葉がすでに危険だ」

 鈴木さんが返す。


「でも楽しいじゃん!」


「楽しいことと、妥当な判断は別だ」


「別だけど両立する!」


「言い切ったな」


 田中さんが軽く乗る。


「いいじゃん、少額ならw」


 麗奈がすぐに整える。


「上限内であれば、許容範囲です」


「麗奈が許した!」

 美沙が喜ぶ。


「許したのではなく、条件付きで許容しただけです」


「ほぼ許した!」


「違います」


 いずみ君が、買い目を見ながら笑う。


「なんか、もう始まる前から競馬してる感じあるなw」


 私は、その言葉を受け取って少しだけ静かになる。


 たしかに、そうだった。


 まだ走っていない。

 まだ結果は出ていない。

 買った金額も小さい。

 それでも、馬を見て、数字を見て、誰かの意見を聞いて、堅実とロマンのあいだで揺れるこの時間は、もう十分に競馬だった。


「競馬場は」

 私は、少しだけ声を整えて言う。

「始まる前からもう始まっています」


「おお」

 田中さんが笑う。

「紗希さん、名言出たw」


「名言ではありません」


「いや、今のはだいぶよかった」

 いずみ君も言う。


「……そうですか」


「うん」

「競馬場先輩っぽかった」


「またそれですか」


 でも、少しだけ嬉しかった。


     *


 買い目が決まった。


 大きくはない。あくまで最初の一戦。堅実寄りに、少しだけ現地で気になった馬を混ぜた、小さな勝負だった。


 それでも、いずみ君の手元にある買い目は、急に意味を持ち始める。


 ただの数字ではなくなる。

 さっきパドックで見た歩き方。美沙が気にした落ち着き。田中さんの軽い見立て。鈴木さんの分析。麗奈の上限確認。いずみ君の迷い。私の、少し得意げで少し悔しい高ぶり。


 それらが、そこへ少しずつ混ざっていた。


 馬たちが本馬場へ向かう。

 場内の空気が、少しずつ上がっていく。

 周囲の声が厚くなる。アナウンスが聞こえる。視線が同じ方向へ集まり始める。


「……来ますね」


 自分でも、声が少しだけ上がったのがわかった。


「紗希、声ちょっと上がってるw」

 いずみ君が言う。


「上がります」

「これは、上がります」


 美沙も、さっきまでとは少し違う勢いで声を出した。


「え、やば」

「始まる感じする!」

「これ見たらテンション上がるって!」


「まだレース前だぞ」

 鈴木さんが言う。


「でももう始まってる感じするじゃん!」


「それは……まあ、少しわかる」


「鈴木が認めた!」


「少しだ」


 田中さんが明るく言う。


「ここからだぞーw」


 麗奈は静かに、けれど少しだけいつもより近い声で言った。


「皆さん、まずは落ち着いて見ましょう」


 けれど、たぶん誰も完全には落ち着いていなかった。


 馬たちが向こうへ進んでいく。

 人の声が、少しずつ厚くなる。

 いずみ君の手元の小さな勝負が、急に今日の中心みたいな顔をし始める。


 まだ結果は出ていない。

 けれど、もう始まっている。


 私はその気配を受け取りながら、初めてではないはずの競馬場で、また新しい一戦が始まるのを待っていた。


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