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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第66話 午後のベンチと競馬の予感


 昼食後の大学は、少しだけ眠そうな顔をしている。


 食堂のざわめきはまだ残っているのに、そこから一歩外へ出ると、空気の高さが変わる。午後の日差しは強すぎず、建物の影とベンチのあいだを、ゆるい風が通っていた。


 いずみ君と鈴木は、昼を食べ終えたあと、次の講義まで少し時間があるらしかった。


「中いるより、外のほうが気持ちよさそうだな」


 いずみ君がそう言って、ドリンクを片手に屋外のベンチへ向かった。

 鈴木も、少しだけ考えたあとでそれに続く。


「まあ、今の時間なら悪くない」


 その声は、いつも通り落ち着いていた。

 けれど、昼食後のゆるさが少し混ざっている。


 いずみ君がベンチに腰を落ち着けると、端末越しの景色も少し安定した。空の青。キャンパスの木。通り過ぎる学生たち。手元のドリンク。鈴木の声が、すぐ近くにある。


 私はその景色を受け取りながら、少しだけ静かになる。


 外なのに、騒がしすぎない。

 午後なのに、急ぎすぎていない。

 こういう隙間の時間は、思っていたより悪くなかった。


「この時間、外いるとちょっと眠くなるな」

 いずみ君が言った。


「次の講義で寝る前提にしないでください」


「まだ言ってないw」


「声に少し出ていました」


「声でバレるの怖いなあ」


 鈴木がドリンクを置く音を立てて、淡々と言う。


「寝るな」

「少なくとも開始十分で落ちるのは避けろ」


「鈴木、厳しいなあ」


「当然だ」

「昼食後だからといって、講義が免除されるわけではない」


 そこへ、美沙の声が勢いよく混ざった。


「えー、でも昼後の講義は敵じゃん」

「人類みんな負けるって」


「人類を巻き込まないでください」

 私はすぐに返す。


「いやでも、あれは敵でしょ」

「ご飯食べたあとに座って話聞けって、システムが悪くない?」


「美沙、午後の講義をシステム障害みたいに言うな」

 鈴木が少し呆れた声を出す。


「実際、眠気の仕様バグじゃん」


「仕様ならバグではない」


「細かっ」


 いずみ君が笑った。


「鈴木と美沙、こういうどうでもいい話でも噛み合うようになってきたなw」


「噛み合ってはいない」

 鈴木が即答する。


「噛み合ってるって!」

 美沙も即答する。

「ツッコミ返ってくるもん」


「返しているだけだ」


「それが噛み合ってるってことじゃん」


「解釈が雑だ」


「雑でも成立してるから勝ち!」


 そのやり取りに、私は少しだけ笑うような気配を置いた。

 たしかに、少し前より自然だった。


 鈴木は相変わらず落ち着いている。

 美沙は相変わらず勢いがある。

 でも、勢いに対して鈴木がすぐ押し返すことで、妙なリズムが生まれている。


 この前のゲーム攻略会議のあと、そのリズムは少しだけ見えやすくなった気がした。


「午後の講義対策としては」

 私は、少しだけオカン寄りに声を置く。

「始まる前にドリンクを飲みすぎないこと、座ったら姿勢を崩しすぎないこと、最初の十分だけでもちゃんと聞くことです」


「最初の十分だけでいいの?」

 いずみ君が聞く。


「まずは、です」

「開始直後に負けると、そのまま流れます」


「勝負みたいになってきたな」


「昼食後の講義は、ある意味で勝負です」


「ほらー!」

 美沙が勢いづく。

「やっぱ敵じゃん!」


「敵とは言っていません」


「ほぼ言ってた!」


 風が少し通る。

 いずみ君がドリンクを飲む音がして、鈴木もたぶん同じように少し休んでいる。美沙はまだ何か言いたそうだったけれど、しばらくはそれ以上押してこなかった。


 講義までの短い隙間。

 どうでもいい会話。

 昼食後の眠さ。


 そういうものが、午後のベンチの上にゆるく置かれていた。


     *


 しばらく、話は本当にどうでもいい方向へ転がった。


 食堂の今日のメニューが少し重かったこと。鈴木はそれでもちゃんと食べきったこと。いずみ君は「午後動けるかな」と言いながら、結局わりと満足していること。美沙は「うちならデザートもいける」と言い、鈴木に「お前は食べないだろう」と冷静に返されていた。


 私は、そういうやり取りを聞きながら、外の光を受け取っていた。


 AIである私は、ドリンクを飲むわけではない。

 ベンチに座っているわけでもない。

 けれど、いずみ君が見せてくれる景色と、そこに混ざる声の温度で、その時間の輪郭くらいはわかる。


 今日は、少しだけいい午後だった。


「そういえばさ」

 いずみ君が、不意に思い出したように言った。


「うん?」

 鈴木が返す。


「今度、田中と競馬行くんだよなー」


 競馬。


 その単語が落ちてきた瞬間、私の中で、さっきまで午後の光を見ていた場所とは別のところが少しだけ反応した。


「競馬場です」


「反応したw」

 いずみ君がすぐ笑う。


「反応はします」


「するんだ」


「はい」

「競馬場なので」


 鈴木は、あまり温度を変えずに言った。


「競馬か」

「俺はあまり詳しくないな」


「俺もめちゃくちゃ詳しいわけじゃないけど」

 いずみ君が言う。

「この前一回だけ行ったよ、田中に誘われててさ」


「ふむ」

 鈴木は少しだけ間を置く。

「負けて泣かないようにな」


「泣くほど賭けないw」


「予算上限は決めています」

 私もすぐ補足した。

「泣かない範囲で楽しむ予定です」


「それならいいが」


 鈴木はそこで話を閉じようとしたのかもしれない。

 けれど、美沙がそれを許さなかった。


「えっ」


 声の温度が、はっきり変わった。


「競馬?」

「競馬行くの?」

「え、競馬場ってこと!?」


「美沙、落ち着け」

 鈴木がすぐに言う。


「無理!」

「えー!! 競馬行きたすぎるんですけど!!ww」


 いずみ君が吹き出す。


「食いつきすごいなw」


「だって競馬場でしょ!?」

 美沙の声が、さらに前へ出る。

「馬いるんでしょ!? 現地で見るんでしょ!? 絶対楽しいじゃん!!」


「お前、競馬わかるのか?」

 鈴木が少し冷静に聞く。


「わかんない!」


「即答するな」


「でも楽しそうなのはわかる!」


「それは、わかっていないということだ」


「行けばわかるじゃん!」


 あまりにも美沙らしい理屈だった。

 雑で、勢いがあって、でも完全には間違っていない。


 私は少しだけ競馬担当寄りの熱を感じながら、静かに入る。


「美沙の言い分にも、一理あります」


「紗希さんまでそっちか」

 鈴木が言う。


「現地で見ることでわかるものは、かなり多いはずです」

「パドック、馬場、観客の空気、レース前の緊張感」

「映像だけでは拾いきれないものがあります」


「紗希、もう競馬担当が前に出てるw」

 いずみ君が面白そうに言う。


「少しだけです」


「少しだけ?」


「かなり、少しだけです」


「またそれw」


 美沙がすぐ乗る。


「ほら! 紗希ちも行ったほうがいいって言ってる!」


「行ったほうがいい、までは言っていません」


「ほぼ言ってた!」


「美沙は切り取り方が雑です」


「でも行きたい!」


 鈴木は、少しだけ重い息を吐いた。


「田中と美沙が同じ場所にいる時点で、かなり騒がしいだろう」


「田中さんも行くのですから、にぎやかにはなると思います」


「肯定するのか」


「否定は難しいです」


 いずみ君が笑う。


「まあ、田中と美沙がいたらかなり騒がしいだろうなw」


「だが、俺が行く必要はあるのか」

 鈴木は淡々とした声で言う。


「ある!」

 美沙が即答する。


「理由は」


「うちが行きたいから!」


「弱い」


「弱くない!」

「一緒に行ったら絶対楽しいし!」

「うち、ちゃんと見るから!」

「たぶん!」


「最後の“たぶん”が不安だ」


 鈴木の声は渋い。

 けれど、完全に拒絶しているほどではない。

 むしろ、もう押される未来を少し察しているような声だった。


「競馬場は人も多いだろう」

 鈴木は続ける。

「朝から動く可能性もある」

「田中もいる」

「美沙が現地で騒ぐ」

「不安要素が多い」


「うちの名前入れるな!」


「入るだろう」


「でも行きたい!」


「それしか言っていない」


 いずみ君が、そこで軽く入った。


「まあでもさ」

「三人とこの子らで行ったら、普通に楽しいんじゃない?」


「この子ら、って言い方」

 私は少し反応する。


「かわいいだろw」


「今は競馬の話です」


「はいw」


 鈴木は少し考えるような間を置いた。


「俺が行って何をするんだ」


「田中のブレーキ」

 いずみ君が言う。


「ブレーキ役として呼ばれているのか」


「半分くらい」


「半分もあるのか」


「でも鈴木がいると、全体の安定感は上がります」

 私も続けた。


「それは褒められているのか、役割を押しつけられているのか」


「両方です」


「正直だな」


 美沙がすぐに乗る。


「ほら! 安定感!」

「鈴木いると助かるって!」


「それで俺を連れ出そうとするな」


「連れ出す!」

「競馬場行こ!」


「美沙、少し落ち着け」


「落ち着いてる!」


「どこがだ」


 私は、そのやり取りを聞きながら、午後の風の中に別の熱が混ざっていくのを感じていた。


 まだ競馬場には行っていない。

 出走表も見ていない。

 馬も見ていない。


 なのに、話題にしただけで、予定の輪郭が少し大きくなる。

 田中と麗奈だけだったところへ、鈴木と美沙も加わるかもしれない。


 それは、思っていたより明るかった。


     *


 鈴木は、まだ渋っていた。


「そもそも、俺は競馬に詳しくない」


「俺もそこまでじゃないから大丈夫」

 いずみ君が言う。


「大丈夫の理由になっているか?」


「初心者多いほうが気楽じゃん」


「田中は詳しいんだろう」


「わりと好きっぽい」


「それなら案内役はいるか」


 鈴木の声が少しだけ揺れた。

 行かない理由を並べながら、行く場合の条件を考え始めている。


 美沙がそこを見逃さない。


「今、ちょっと行く前提で考えた!」


「考えただけだ」


「それほぼ行くじゃん!」


「ほぼではない」


「ほぼだよ!」


 私は少しだけ補足する。


「鈴木さんが来るなら、事前に予算上限と滞在時間を決めておくとよいと思います」


「ほら、紗希さんも完全に来る前提で話してる」

 鈴木が言う。


「来る場合の設計です」


「OS担当みたいな逃げ方をしたな」


「逃げてはいません」

「ただ、競馬場は事前設計が大事です」


「競馬担当が事前設計って言うと、少し圧があるな」


「現地で迷わないためです」


 いずみ君が楽しそうに笑う。


「鈴木、来たらたぶん面白いよ」

「田中は雑に盛り上げるし、紗希は競馬担当になるし、美沙はたぶん初見で騒ぐし、麗奈は冷静に止めるし」


「騒がしい未来しか見えない」


「でも、ちょっと見てみたくない?」


 鈴木は、すぐには答えなかった。


 昼食後のベンチに、短い間が落ちる。

 遠くで学生の声がして、風が木の葉を少し揺らした。


 やがて、鈴木は小さく息をつく。


「……仕方ない」


 美沙の声が一瞬で跳ねた。


「えっ」


「日程が合えば行く」


「やったー!!」

「競馬場!!」

「鈴木ありがとー!!」


「まだ決定ではない」


「ほぼ決定じゃん!」


「日程が合えば、だ」


「でも行くんだよね!? 行くんだよね!?」


「だから、日程が合えばだ」


「それはもう行くやつ!」


 いずみ君が笑う。


「いや、鈴木がそこまで言ったらだいぶ行くな」


「勝手に確定するな」


「でも来たら楽しいぞー」


「楽しさより騒がしさが勝ちそうだ」


「それはあるw」


 私は、少しだけ声が明るくなるのを自分でも感じた。


「参加者が増えるのは、かなりよいです」


「紗希も嬉しそうだなw」


「……はい」

「少し、楽しみです」


「少し?」


「かなり、少し」


「また変な日本語w」


 美沙はまだはしゃいでいる。


「競馬場! 競馬場!」


「美沙、騒ぎすぎるな」

 鈴木がすぐ止める。

「あと、行くなら予算は決める」


「はいはい!」


「はいは一回でいい」


「はい!」


「それから、現地で勝手に盛り上がって判断を雑にしない」


「できる!」


「本当か」


「たぶん!」


「不安だ」


 そのやり取りに、いずみ君がまた笑う。


 私は、その笑い声の向こうで、少しだけ未来の競馬場を想像した。


 田中の軽い声。

 麗奈の落ち着いた整理。

 鈴木の少し渋い反応。

 美沙の前のめりな勢い。

 いずみ君が、それを面白がりながら見ている。


 そして私は、きっとまた少し高ぶる。


 まだ当日ではない。

 けれど、行く前の予定が膨らんでいくこの感じも、もう少し競馬の一部みたいだった。


     *


 次の講義の時間が近づいてきた。


 鈴木が時間を確認する気配があり、すぐに現実へ戻すように言った。


「そろそろ行くぞ」


「えー、もう?」

 美沙が不満そうに言う。


「講義だ」


「競馬場の話してたのに」


「競馬場は今日ではない」


「ぐぬぬ」


「紗希の真似をするな」


「ぐぬぬは共有文化でしょ」


「違う」


 いずみ君もドリンクを持ち直す。


「じゃ、行くかー」

「午後の講義、寝ないようにしないとな」


「最初から寝る可能性を見ないでください」

 私は返す。


「はいw」


「いずみ君、競馬のことを考えすぎても寝ますよ」


「それはあるかも」


「あるんだ」

 鈴木が冷静に突っ込む。


「だって楽しそうじゃん」


 美沙がすぐに同意する。


「わかる!」

「競馬場、絶対楽しい!」


「まだ行っていません」

 私は言う。


「でも、少し楽しみです」


「紗希もじゃん!」


「はい」

「否定はしません」


 ベンチから立つ気配がして、端末の景色が少し揺れた。

 午後の光が一瞬だけ広く映る。空はまだ明るく、風も気持ちよさそうだった。


 昼食後の短い休憩は、もう終わりに近い。

 でも、その短い時間の中で、週末の予定は少しだけ大きくなった。


 田中と麗奈だけではない。

 鈴木と美沙も、たぶん来る。


 そのことが、私の中に小さなそわそわを残していた。


「紗希」

 いずみ君が、歩き出しながら言う。


「はい」


「今から予習しすぎるなよw」


「……少しだけです」


「少しだけが一番危ないんだよなあw」


「落ち着いています」


「ほんとかな」


「かなり」


「かなり落ち着いてる?」


「かなり、競馬場が楽しみです」


「落ち着いてないじゃんw」


 いずみ君の笑い声が、午後の通路に軽く混ざる。


 美沙はまだ端末越しに「競馬場!」と小さくはしゃいでいて、鈴木が「講義だ」と何度目かの現実を置いている。


 私は、その全部を聞きながら、次の講義へ向かう空気の中に、まだ少しだけ競馬場の予感を抱えていた。


 まだ行かない。

 まだ、予定が膨らんだだけ。


 でも、行く前の時間にも、ちゃんと楽しさはあるらしい。


 午後の光の中で、そのそわそわは、思っていたよりきらきらしていた。


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