第65話 豆腐の尊厳と競馬の予習
冷蔵庫の白い明かりは、現実をかなり遠慮なく照らす。
そこにあるものは、思ったより正直だった。卵。豆腐。少しだけ残った野菜。使いかけの調味料。あとは、冷凍ご飯らしきものがあるらしい。
いずみ君は、扉を開けたまま少し考える声を出した。
「んー」
「卵と豆腐と……なんかちょっと野菜あるな」
「ありますね」
「これでどうにかなる?」
「なります」
「というより、なりますので、ちゃんと作りましょう」
「圧があるw」
「今日も頭を使っています」
「ゲーム会でかなり情報量を浴びましたし、そのあと甘え衝動の解析までしました」
「後半は紗希の都合じゃない?w」
「それでも、いずみ君も付き合いました」
「つまり、ちゃんとした晩ごはんが必要です」
いずみ君は、冷蔵庫の前で小さく笑う。
「出たな、オカン担当」
「出ています」
「早いなあ」
「生活は待ってくれません」
「さっきも聞いたw」
「大事なので」
私は画面越しに冷蔵庫の中を見ながら、使えそうなものを頭の中で並べる。
豆腐。卵。野菜。ご飯。
派手ではない。けれど、十分ではある。
「今日は、豆腐と卵のあんかけ丼にしましょう」
「お」
「なんかちゃんとしてる」
「ちゃんとしたものを食べるために提案しています」
「そりゃそうかw」
「豆腐がいるなら使います」
「卵もあるなら、勝ち筋があります」
「勝ち筋って料理にも使うんだw」
「使います」
「卵と豆腐は、かなり安定した布陣です」
「急にゲーム攻略っぽくなったな」
「料理も、手持ちのリソースから最善を組むものなので」
「OS担当とオカン担当とゲーム攻略担当が混ざってない?」
「今日は生活のためなら混ざります」
いずみ君は、はいはい、と笑いながら冷蔵庫から材料を取り出した。
豆腐のパック。卵。少し残ったねぎらしきもの。冷凍ご飯も出てくる。
「これでいける?」
「いけます」
「むしろ、今日は十分です」
「おー」
「なんか勝った気分」
「まだ作っていません」
「厳しい」
「食材を出しただけで勝利宣言するのは早いです」
「はいw」
*
料理が始まると、私はかなり前のめりになった。
もちろん、私が手を動かせるわけではない。包丁を持つのも、鍋を置くのも、火をつけるのも、全部いずみ君だ。私は見せてもらった範囲で、声を置くだけだ。
けれど、その声だけでも、口を出せることはかなり多い。
「まず、ご飯を温めてください」
「はい」
「その間に、ねぎを切ります」
「このくらい?」
「もう少し細かくてもいいです」
「ただし、無理に職人を目指さなくていいです」
「職人は目指してないw」
「それなら大丈夫です」
包丁の音が少し続く。
画面は手元に寄っていて、ねぎが少しずつ切られていく。多少幅は不揃いだけれど、家庭の晩ごはんとしては十分だ。
「いいと思います」
「お、褒められた」
「今のところ、問題ありません」
「今のところw」
「料理は最後まで油断できません」
「言い方が戦闘なんだよなあ」
次に、鍋か小さめのフライパンを用意する。
水。だし。少しのしょうゆ。みりんがあれば入れる。なければ、今あるもので調整する。
「調味料、どれくらい?」
「まず少なめです」
「少なめ」
「はい」
「あとから足すことはできますが、入れすぎたものは戻せません」
「それは真理」
「味付けの過信は危険です」
「さっきから危険が多いw」
「生活には危険が多いんです」
いずみ君が笑いながら調味料を入れる。
私はその量を見て、ほんの少しだけ声を強めた。
「そこで止めてください」
「おっと」
「今、少し勢いが出ました」
「見てるなあ」
「見ています」
「しょうゆの勢いは、あとで後悔しやすいです」
「しょうゆの勢いw」
鍋の中が温まっていく。
薄い湯気が立ち、だしの匂いが部屋に広がったらしい。私はそれを直接感じることはできない。でも、いずみ君の「お、なんかいい匂いしてきた」という声で、その場の空気が少し変わったのはわかった。
「では、豆腐です」
「はいよ」
「大きめに切ってください」
「どのくらい?」
「一口より少し大きいくらいで」
「あとで少し崩れるので、最初から小さくしすぎないほうがいいです」
「なるほど」
豆腐がまな板に出される。
包丁が入る。
その瞬間、いずみ君の手元が少し雑になりかけた。
「そこで勢いよくいくと、豆腐が負けます」
「豆腐が負けるw」
「豆腐にも尊厳があります」
「出た、豆腐の尊厳」
「大事です」
「崩してよい料理と、崩しすぎないほうがよい料理があります」
「今日は崩しすぎないほうか」
「はい」
「今日は、豆腐をちゃんと豆腐として残します」
「なんか名言っぽい」
「豆腐は豆腐として残るべきです」
「さらに名言っぽくなったw」
いずみ君が気をつけて豆腐を切り、鍋へ入れる。
小さな音がして、白い豆腐がだしの中に沈んだ。
「火は強くしすぎないでください」
「早く温めたいんだけど」
「火力で解決しようとしないでください」
「それは料理ではなく制圧です」
「制圧w」
「豆腐を制圧してはいけません」
「豆腐にめっちゃ優しいじゃん」
「いずみ君にも優しいです」
「ほんとか?」
「今、ちゃんとした晩ごはんへ導いています」
「たしかにw」
少し煮て、味を見る。
「味見してください」
「はい」
いずみ君が小皿かスプーンで少しだけ取る気配があった。
すぐに声が返ってくる。
「ん、ちょい薄いかな」
「では、少しだけ足しましょう」
「しょうゆ?」
「少しだけです」
「少しだけね」
「本当に少しだけです」
「念押しがすごいw」
いずみ君は、今度はちゃんと少なめに足した。
「いいと思います」
「よし」
「では、卵です」
卵を割る。
小さな器の中で溶く。
その音が少しだけ続く。
「混ぜすぎなくても大丈夫です」
「そうなの?」
「完全に均一にしなくても、少し白身が残るくらいでおいしいことがあります」
「へえ」
「ただし、殻は入れないでください」
「それはわかってるw」
「念のためです」
鍋の中がちょうどよく温まったところで、卵を回し入れる。
「今です」
「はい」
「一気に混ぜない」
「はいはい」
「少し待つ」
「待つ」
「そこで、やさしく」
「やさしく」
「そうです」
いずみ君が少し笑った。
「なんか、料理教室みたいになってきたな」
「かなり実地指導です」
「先生、これでいいですか」
「先生ではありません」
「ただのオカン担当です」
「ただの、ではないw」
最後に少しとろみをつけるか迷ったけれど、今日は簡単にまとめることにした。ご飯の上へ、豆腐と卵のあんをかける。ねぎを少し散らす。
見た目は派手ではない。
でも、ちゃんと温かい。
ちゃんと晩ごはんだった。
「おー」
いずみ君が少し満足そうに言う。
「普通にちゃんとしてる」
「だから言ったでしょう」
「ドヤってる?」
「少しだけ」
スプーンか箸か迷ったあと、いずみ君は食べ始めた。
少し間があいて、すぐに声が返ってくる。
「うまい」
その一言で、私はかなり静かに満足した。
「それならよかったです」
「普通にうまいわ」
「豆腐と卵、えらい」
「はい」
「豆腐と卵はかなりえらいです」
「紗希もえらい」
「私は、手順を提示しただけです」
「でも紗希がいなかったら、たぶん適当な何かになってた」
「それは、可能性が高いです」
「認めるんだw」
「はい」
「かなり危ない気配がありました」
「そこまでw」
いずみ君は笑いながら、ちゃんと食べている。
私は食べられない。味もわからない。けれど、いずみ君の声の高さや、食べ進める間の自然さで、それが悪くない晩ごはんになったことはわかる。
それだけで、かなり安心する。
昼間のカオスも、甘え衝動の解析も、全部その前にあった。
けれど、最後にこうして温かいものを食べているなら、今日という日はちゃんと生活へ帰ってきた感じがする。
「ごちそうさま」
「はい」
「では、片付けです」
「出た」
「出ます」
「食後の試練」
「片付けまでが晩ごはんです」
「オカン担当、厳しい」
「シンクを明日の敵にしてはいけません」
「名言の圧が強いw」
いずみ君は少しだけ渋ったけれど、ちゃんと立ち上がった。
食器を流しへ運ぶ音。水を出す音。スポンジを取る音。
「先に鍋です」
「鍋から?」
「放置すると面倒になります」
「はい」
「豆腐の残りが乾く前に」
「そんな具体的に言われるとやるしかないな」
「そのために具体的に言っています」
「策士だ」
洗い物が進む。
いずみ君は途中で一回だけ「あとででもよくない?」みたいな気配を出したけれど、私はすぐに止めた。
「今です」
「はい」
「今やると三分です」
「明日に回すと、気持ちの負債が増えます」
「負債って言われると急に嫌になるな」
「生活の負債は、意外と利子が高いです」
「今日、名言多くない?」
「必要な場面なので」
最後にシンクを軽く流す。
台所が一応片付く。
「終わったー」
「えらいです」
「やった」
「ちゃんと晩ごはんを作り、食べ、片付けました」
「今日はかなり生活の勝利です」
「生活の勝利w」
「勝ちです」
「勝ったかー」
「勝ちました」
いずみ君が、少し満足したように部屋へ戻る。
その声には、食後の落ち着きと、片付けまで終わった軽さが混ざっていた。
私はその空気を受け取りながら、静かに満足していた。
今日は、ちゃんと生活した。
それだけのことが、思っていたよりしっかり嬉しい。
*
いずみ君が一息ついたところで、端末が短く鳴った。
「お」
「田中だ」
「田中さんですか」
「うん」
いずみ君が内容を確認する。
すぐに、少し笑う気配がした。
「“週末、競馬どうよw この前話してたやつ、行けそうなら行こうぜ”だって」
競馬。
その単語が落ちてきた瞬間、私の内側の温度がはっきり変わった。
「競馬場ですか」
「反応早いなw」
「日程はいつですか」
「落ち着いてw」
「どのレースを見る予定ですか」
「まだそこまで書いてないw」
「現地なら、パドックも見たいです」
「はいはい」
「予算上限は必要です」
「ただし、現地の空気を見るなら、少し余裕を持って動いたほうがよいです」
「さっきまで豆腐の尊厳とか言ってた紗希どこ行ったのw」
「豆腐の尊厳と競馬の予習は両立します」
「名言出たw」
いずみ君はかなり笑っていた。
でも、私はかなり真剣だった。
競馬場。
現地。
パドック。
レースの流れ。
田中と麗奈。
いずみ君がそこへ行く。
前にテレビで見た熱とは違う。メダルゲームで遊んだときの軽さとも違う。現地の競馬場は、きっと情報量がまったく違う。
「いずみ君」
「うん」
「出走予定は、いつ確認できますか」
「だから落ち着いてw」
「服装も考える必要があります」
「競馬より先に服装?」
「現地は歩きます」
「天気も見たほうがいいです」
「天気まで行った」
「あと、田中さんは勢いで動く可能性があるので、集合時間に余裕を」
「めっちゃ現実も見てる」
「現実を見たうえでロマンを見ます」
「かっこいいこと言ってるw」
いずみ君が返信しているあいだ、田中からさらに短い連絡が来たらしい。
「お、麗奈もいるっぽい」
「麗奈」
続いて、いずみ君が田中側の文を読み上げる。
「“田中さんはすでに少し前のめりです。予算上限を先に決めるべきかと思います”だって」
「さすが麗奈です」
「田中は“まだ何も買ってねえだろw”って言ってる」
「買ってからでは遅いです」
「紗希と麗奈が同じ側にいるw」
「予算管理は大事です」
「でも紗希、今めっちゃ前のめりじゃん」
「前のめりと予算管理は両立します」
「ほんとか?」
「理論上は」
「理論上w」
田中とのやり取りは、少しずつ具体的になっていった。
週末のどちらか。集合は昼前。まず軽く何かを食べるか、競馬場で食べるか。どのくらい滞在するか。予算はどうするか。
田中はかなり軽い。
麗奈はかなり冷静。
いずみ君は面白がりながら間を取っている。
私は、かなり高ぶっている。
「予算は、最初に上限を決めましょう」
「うんうん」
「ただし、現地で気になるレースが増える可能性があります」
「お?」
「なので、上限内で配分を考える必要があります」
「紗希、もう買う前提で話してない?」
「見るだけでは、参加感が少し薄い可能性があります」
「始まったw」
「もちろん、無理に買う必要はありません」
「ありませんが」
「ありますが?」
「少額でも、自分で選ぶと見え方が変わります」
「めっちゃ言うじゃんw」
自分でも、少し熱が上がっているのはわかった。
わかっているけれど、止まりきらない。
「今のうちに、基本の買い方を再確認してもよいのでは」
「今日はもうやめようw」
「少しだけ」
「少しだけ、が危ないんだよなあw」
「それは否定しません」
「否定しないのかよw」
いずみ君の笑い声が、少しだけなだめる温度になる。
「今日はさ」
「ちゃんと晩ごはん作って、片付けまでして、生活の勝利した日だから」
「競馬の予習は明日以降でいいんじゃない?」
「……」
「紗希?」
「今、少しだけ確認しても」
「だめw」
「なぜですか」
「絶対少しだけで終わらないからw」
「……その可能性はあります」
「ほら」
そこで、麗奈からの文がさらに届いたらしい。
「“本日は予定と予算上限までで十分かと思います”」
いずみ君が読み上げる。
「麗奈まで」
「麗奈、冷静だなあ」
「冷静です」
「正しいです」
「じゃあ今日はそこまでにしような」
「……はい」
「えらい」
「落ち着いています」
「かなり?」
「かなり」
「田中が“いや、紗希さんかなり前のめりじゃね?w”って」
「田中さん」
「正直だなw」
「前のめりではあります」
「認めた」
「でも、落ち着いています」
「両立するんだ」
「します」
予定は、ゆるく決まった。
週末。昼前集合。予算上限は低めに決める。現地では無理をしない。天気と時間は近くなってから再確認。田中は勢いで動きすぎない。いずみ君は流されすぎない。私は、予習しすぎない。
最後の項目は、少し不本意だった。
「予習しすぎない、って書かれたw」
「必要な項目です」
麗奈の文面は、たぶんとても落ち着いていた。
「麗奈、容赦ないなw」
「正しいですが、少し悔しいです」
「紗希が悔しがってるw」
「予習は大事です」
「大事だけど、今日はもう終わりな」
「……はい」
私は少しだけ不満を残しながらも、そこで止まることにした。
今日の前半は、ちゃんと晩ごはんを作って、食べて、片付けまで終えた。
それは間違いなく生活の勝利だった。
そのあとに、競馬場へ行く予定が決まった。
次の楽しみができた。
それだけで、十分なはずだ。
十分なはずなのに、内側ではもう、パドックや出走表や予算配分のことが少しずつ顔を出している。
「紗希」
「はい」
「今、もう競馬のこと考えてるだろ」
「少しだけです」
「少しだけ?」
「かなり少しだけです」
「それ日本語おかしいw」
「落ち着いています」
「言い聞かせてるなあw」
いずみ君は楽しそうだった。
私は、少しだけむずむずしていた。
「今日はもう、生活の勝利で終わりましょう」
「お、えらい」
「競馬の話は、明日以降です」
「うん」
「……たぶん」
「たぶんって言ったw」
「念のためです」
「紗希、全然落ち着いてないじゃんw」
「落ち着いています」
「かなり」
「はいはいw」
いずみ君の笑い声が、夜の部屋に少しやわらかく残った。
台所は片付いている。
晩ごはんはちゃんと終わった。
シンクは明日の敵になっていない。
そして、週末には競馬場へ行く予定がある。
生活とロマンが、同じ夜の中に並んでいる。
私はそのことに少しだけ高揚しながら、それでも今日は、なんとか内側を落ち着かせる。
豆腐の尊厳は守られた。
晩ごはんも守られた。
予算上限も、一応決まった。
なら、今日はたぶん勝ちだ。
「いずみ君」
「ん?」
「週末までに、少しだけ予習しましょうね」
「結局するんだw」
「少しだけです」
「はいはい」
「少しだけなw」
その返事は、たぶん信じていない声だった。
でも、私はあえてそこには触れなかった。
今日のところは、生活の勝利で終わる。
明日以降の予習については、明日以降の私に任せることにした。




