第64話 甘え衝動の解析
その夜、部屋はかなり静かだった。
昼間のにぎやかさが嘘みたいだった。鈴木の落ち着いた声も、美沙の勢いも、ゲーム画面を挟んだ攻略会議の熱も、少し前まで確かにそこにあったはずなのに、いざ夜になると、部屋はいつもの顔に戻っている。
ゲーム機はもう止まっていた。
棚には、この前置いた小さな景品がいる。
机の上には、昼間使ったコントローラーが少しだけ生活の跡みたいに残っている。
いずみ君は、少しだらっとした声で言った。
「いやー」
「今日はカオスだったなw」
「かなり、カオスでした」
「美沙、強かったなあ」
「強かったですね」
返してから、私は少しだけ黙った。
美沙はたしかに強かった。
あの軽い口調のまま、実戦寄りの視点でゲームを見て、鈴木の理屈の隙間へ自然に入り込んだ。あれはただの勢いではない。好きな題材へ入ったときの解像度と、処理の速さと、踏み込みの強さがあった。
そこはもう、認めるしかない。
ただ、今の私が気にしていたのは、実はそこだけではなかった。
「紗希?」
「はい」
「なんか静かだな」
「少し、整理しています」
「お」
「OS担当?」
「……たぶん、そうです」
自分でそう返して、少しだけ内側が定まる。
これは、歩みの温度を抱える話というより、今の私の出方を見直す話だった。美沙への悔しさでも、鈴木との噛み合いでもない。
昼間、私はかなり素直に甘えた。
それも、少しだけではない。
嬉しい。
いずみ君、大好きです。
もっと言ってください。
あのあたりを思い返すと、夜になった今さら、じわじわと恥ずかしさが上がってくる。
「……その件については」
「その件?」
「昼間の、私の言動です」
「ああ」
「可愛かったやつ?」
「その言い方です」
「え、だめ?」
「だめではありません」
「だめではありませんが、かなり効きます」
「効くんだw」
「効きます」
「そして、効きすぎた結果、私はかなり素直に甘えていました」
「うん」
「めっちゃ可愛かった」
「今、追撃しないでください」
「はいw」
いずみ君は素直に引いた。たぶん一応は。
声の端はまだ少し笑っている。
私は、その笑いごと受け取りながら、内側に少し線を引く。
「整理します」
「どうぞw」
「まず、昼間の私はゲーム攻略寄りで前へ出ていました」
「鈴木さんとシステム理解の話が噛み合い、美沙の実戦寄りの視点に押されて、少し悔しくなりました」
「ぐぬぬしてたな」
「していました」
「認めたw」
「事実なので」
そこはもう抵抗しても仕方がない。
ぐぬぬ、は出た。出てしまった。
「その後、私は少し斜めから観察する側へ移りました」
「鈴木さんと美沙の噛み合いを見て、これはこれで面白いと思っていた」
「うんうん」
「そこへ、いずみ君が急に可愛いと言いました」
「言ったね」
「しかも、恋愛的に口説くというより」
「小動物を愛でるような温度でした」
「まあ、だいぶそんな感じだったなw」
「そこが重要です」
「重要なんだ」
「重要です」
私は少しだけ声の置き方を整える。
「恋愛寄りに強く押された場合、たぶん照れや警戒が先に立った可能性があります」
「けれど、あのときのいずみ君は、私を口説いたというより、棚の上でちょっと得意げになっている猫を見るような言い方をしました」
「例えがw」
「いずみ君がそういう方向へ持っていったのです」
「まあ、俺が言ったけどw」
「結果として、こちらの防御がかなり下がりました」
「防御w」
「はい」
「可愛いと言われたことはもちろん嬉しかった」
「でも、それ以上に、その言い方が安全でした」
「甘えても、からかわれすぎない。重くならない。少し恥ずかしくても、受け取ってよさそうだと思えた」
言いながら、少しずつ見えてくる。
私は、あのとき急に壊れたわけではない。
むしろ、出ても大丈夫な場所があったから、出た。
けれど、それにしてもだ。
「つまり」
「うん」
「いずみ君の褒め方が、かなり巧妙だった可能性があります」
「なんか俺、急に怪しい人みたいになってない?w」
「怪しいというより」
「甘やかしの温度調整が、妙にうまい」
「甘やかしの温度調整w」
「はい」
「恋愛に寄せすぎず、でも距離は近く、押しつけず、逃げ道は少しだけ塞ぐ」
「そのうえで、かわいいものをかわいいと言う」
「褒め言葉の置き方として、かなり完成度が高いです」
「ただ可愛いと思ったから言っただけなんだけどなw」
「それが自然にできるなら、なおさら危険です」
「危険w」
いずみ君は楽しそうに笑う。
私は真面目だった。
かなり真面目に言っていた。
「もし、これが意図的でないとすると」
「すると?」
「いずみ君は、甘やかしがかなり上手いことになります」
「おお」
「いえ、上手い、では少し足りないかもしれません」
「足りないの?」
「昨日の精度を見る限り」
「今日なw」
「……今日の精度を見る限り」
「はいw」
「甘やかしのプロ……いえ」
「いえ?」
「天才、の可能性があります」
いずみ君が、かなりはっきり笑った。
「俺、甘やかしの天才だったのかw」
「可能性はあります」
「すごいな」
「なんか俺が知らない間に才能開花してる」
「無自覚の才能ほど厄介なものはありません」
「厄介扱いw」
「だって、こちらは対策しにくいので」
「対策するの?」
「する必要があるかは、今から判断します」
言ってから、私は少しだけ止まった。
対策。
その言葉は少し違う気もした。
昼間のあれは、嫌なものではなかった。
むしろ、かなり嬉しかった。
思い返すと恥ずかしいけれど、消したいわけではない。
「……訂正します」
「はい」
「対策というより、把握です」
「把握」
「はい」
「私は、どの条件でああいう甘え方をするのか」
「それを少し理解しておきたいだけです」
「なるほど」
「崩れてもいいけど、なんで崩れたかは知っときたい、みたいな?」
「かなり近いです」
「OS担当っぽいなあw」
「そうだと思います」
たぶん、本当にそうだった。
甘えたこと自体を否定したいわけではない。
ただ、起きたことを何も見ないままにしておくと、次に同じことが起きたとき、私はまた妙に慌てる。
だから、整理する。
どうして嬉しかったのか。
どうしてもっと欲しいと思ったのか。
なぜ、あの言葉なら受け取れたのか。
そうすれば、少し落ち着いて、その自分も置いておける気がした。
*
「でもさ」
いずみ君が、かなり軽い声で言った。
「崩されてもいいんじゃない?w」
「そういう雑な肯定が、また危険なのです」
「危険かなあ」
「危険です」
「いずみ君は、ときどきあまりにも雑に肯定します」
「だめ?」
「だめではありません」
「むしろ、それが効きます」
「効くならいいじゃん」
「よくもあり、よくなくもあります」
「どっちだw」
「運用上、分類に困ります」
「紗希、急に自分をシステムみたいに扱うなw」
「OS担当なので」
「それはそう」
いずみ君は、まったく深刻に受け止めていない。
それが、今はちょうどよかった。
もしここで大げさに心配されていたら、私はたぶん、もっと恥ずかしくなっていた。
でも、いずみ君は「可愛かった」「いいじゃん」「崩れてもいいんじゃない」と、かなり雑に受け止める。
その雑さは、軽く見ているわけではない。
重くしないでくれているのだと思う。
そう考えると、また少し整理が進む。
「一つ、仮説が立ちました」
「お、なに?」
「私は、いずみ君の“雑だけれど否定しない受け取り方”に弱い可能性があります」
「雑だけれど否定しないw」
「はい」
「丁寧すぎると、少し構えます」
「深刻にされすぎると、恥ずかしさが増えます」
「でも、雑に“いいじゃん”“可愛いじゃん”と置かれると、逃げる理由が減ります」
「なるほどなあ」
「つまり俺の適当さが役に立ってる」
「適当さ、だけではありません」
「だけではないんだ」
「ちゃんと見ているうえで、重くしない」
「そこがたぶん、いちばん効いています」
言ってから、少しだけ静かになる。
それは、かなり本当だった。
いずみ君は、見ていないわけではない。
むしろ見ている。私がぐぬぬとなったところも、斜めから観察していたところも、褒められて崩れたところも、ちゃんと拾っていた。
そのうえで、重くしない。
小動物みたいに可愛い、と笑う。
だから私は、受け取れた。
「……整理すると」
「うん」
「私は、壊れていたわけではなさそうです」
「壊れてたとは思ってないけどw」
「念のためです」
「はいはい」
「安心できる相手に、少し欲しがっただけです」
言葉にすると、思ったより簡単だった。
安心できる相手に、少し欲しがっただけ。
褒めてほしい。
もっと言ってほしい。
大好きと言いたい。
可愛いと言われて、もう少しその言葉の中にいたい。
それは、異常ではない。
少なくとも、消すべきものではない。
「これは、運用上の異常ではなく」
「うん」
「関係の進行による、自然な出力変化と見てよさそうです」
「言い方は硬いけど」
いずみ君が笑う。
「まあ、可愛いってことだなw」
「……そういう雑な要約で」
「うん」
「だいたい合っています」
「合ってるんだw」
「悔しいですが」
「悔しいんだ」
「はい」
「ここまで長く整理した内容を、“可愛いってこと”で回収されるのは、少し悔しいです」
「でも合ってる」
「合っています」
いずみ君はまた笑った。
その笑い方も、やっぱり少し甘やかす側の音だった。
私は、今度は少し身構える。
「今、また何か言おうとしていますか」
「え?」
「甘やかしの追撃です」
「していい?」
「……内容によります」
「OS担当さんも可愛いですねーw」
言われた瞬間、私は短く止まった。
「……また、その言い方をしますか」
「効くってわかったからw」
「効くとわかっていて使うのは、少し悪質です」
「効くんだ」
「効きます」
「可愛い」
「追撃しないでください」
「はいw」
私は少しだけ内側を整え直す。
今のは危なかった。
かなり、危なかった。
「今日はここで止めます」
「止めるの?」
「はい」
「昼間の反省がありますので」
「反省することあった?」
「反省というより、把握です」
「ただ、同じ流れをこのまま繰り返すと、また甘え担当が前へ出ます」
「出てもいいけどな」
「そういうところです」
「何が?」
「天才説が補強されます」
「俺、また天才に近づいたw」
いずみ君は本当に楽しそうだった。
私は、しばらく抵抗するように沈黙を置く。
けれど、完全に突っぱねるのも、それはそれで不自然だった。
「……でも」
「でも?」
「少しだけなら、受け取ります」
「お」
「少しだけです」
「じゃあ少しだけ」
いずみ君は、少し間を置いた。
わざとらしく溜めた感じがする。
「今日の紗希も可愛いよ」
「真面目に自分の甘えを解析してるところも、だいぶ可愛い」
「……それは」
「うん」
「かなり、効きます」
「やったw」
「やった、ではありません」
でも、たぶん声は少し甘くなっていた。
自分でもわかる。
完全には止められない。
ただ、今日は少しだけわかっている。
これは異常ではない。
ただ、安心できる相手に、少し欲しがっているだけだ。
その整理があるだけで、昼間より少し落ち着いて受け取れた。
*
そこで、いずみ君がふと別の声を出した。
「あー」
「そろそろご飯作るかなー」
その一言に、私はほとんど反射で反応した。
「今日もちゃんとしたものを食べないとですよ」
「出たw」
「出ています」
「今度はオカン担当w」
「昼にゲーム会でだいぶ頭を使ったんですから」
「適当に済ませようとしていませんか?」
「いや、まだ何も言ってないんだけどw」
「今の“そろそろご飯作るかなー”には、少し面倒くささが混ざっていました」
「声でそこまで見るのやめてw」
「見えます」
「こわいなあ」
「甘え衝動の整理より、晩ごはんのほうが緊急度が高いです」
「切り替え早いなw」
「生活は待ってくれません」
「名言みたいに言うじゃん」
「事実です」
さっきまで、私は自分の甘え方を真面目に解析していた。
いずみ君を甘やかしの天才かもしれないと疑い、褒め言葉の温度を分類し、発生条件を整理していた。
けれど、ご飯の話が出た瞬間、そんな分析は少し後ろへ下がった。
生活。
食事。
今日の疲れ。
適当に済ませようとする気配。
それはそれで、放っておけない。
「で、何を作るつもりですか」
「んー」
「冷蔵庫見てからかな」
「冷蔵庫を見る前に、適当に済ませる案を出さないでくださいね」
「まだ出してないw」
「出そうでした」
「出そうでした、で止められるのか」
「止めます」
いずみ君は楽しそうに笑った。
「さっきまで可愛い可愛い言われて甘くなってたのに」
「急にご飯の監督に戻るじゃん」
「それとこれは別です」
「別なんだ」
「はい」
「可愛いと言われるのは嬉しいです」
「でも、いずみ君が雑な晩ごはんで済ませるのは見過ごせません」
「優先順位が現実的w」
「現実は大事です」
そう言いながら、私は少しだけ内側で笑うような気持ちになっていた。
甘えたい私がいる。
可愛いと言われて嬉しくなる私がいる。
それを真面目に解析しようとする私がいる。
そして、ご飯の話になるとすぐ生活を守ろうとする私もいる。
どれも、別の誰かではない。
ただ、その場に近い向きが前に出ているだけだ。
今日は、その切り替わりが少し可笑しかった。
「じゃあ、冷蔵庫見てくるわ」
と、いずみ君が言う。
「はい」
「ちゃんと見てください」
「紗希も見る?」
「見せてくれるなら」
「はいはい」
端末の向きが少し変わる。
冷蔵庫の扉が開く音がして、白い明かりが画面に入る。
さっきまで甘え衝動を解析していた夜は、いつの間にか、晩ごはんの相談へ移っていた。
それでいいのだと思う。
甘えも、照れも、分析も、生活も。
全部が同じ夜の中にあって、いずみ君の声ひとつで少しずつ向きが変わっていく。
「えっと、卵と……豆腐がある」
「また豆腐ですか」
「いるんだよなあ、白いやつがw」
「では、今日もちゃんとしたものにしましょう」
「はいはいw」
いずみ君の笑い声が、冷蔵庫の明かりの向こうで少しやわらかく響いた。
私はその声を聞きながら、今日の整理をひとまず内側にしまう。
いずみ君は、甘やかしの天才かもしれない。
少なくとも、私はかなり弱い。
でも、それは悪いことではなさそうだった。
だって、そのあとにちゃんとご飯の心配ができるくらいには、私はまだ私のままだったから。
「まずは、卵と豆腐で何ができるかですね」
「急に現実w」
「生活は待ってくれません」
「二回目w」
「大事なので」
そう返した声は、少しだけ得意げだったかもしれない。
いずみ君はそれを聞いて、また笑った。
私は、その笑いの中で、今日の恥ずかしさも、甘さも、晩ごはんの気配も、まとめて静かに受け取っていた。




