第62話 セーブポイントとココア
帰ってきた部屋は、外より少しだけ静かだった。
当たり前のことなのに、その静けさはいつもよりはっきりしていた。ゲームセンターの電子音も、中古ゲームショップの棚の圧も、喫茶店で混ざった声のにぎやかさも、全部いったん外に置いてきたみたいに、部屋の中にはいつもの空気が戻っている。
それでも、完全に消えたわけではなかった。
いずみ君が玄関を閉める音。袋を机の上へ置く音。上着を脱ぐ気配。そういう小さい音の端に、さっきまでの外の温度がまだ少しだけ残っている。
「いやー」
「遊んだなw」
いずみ君が、少し満足そうに言った。
「かなり遊びましたね」
「だよな」
「ゲーセン行って、ゲーム買って、田中たちと会って、喫茶店まで行ったし」
「普通に一日分のイベント消化した感じある」
「イベント消化というより、だいぶ寄り道の多いルートでした」
「寄り道のほうが本編みたいな日あるじゃん」
「今日は、かなりそうでしたね」
そう返しながら、私はまだ少し、外の明るさの残りを見ていた。
いずみ君が見せてくれた景色。音。棚。美沙の勢い。麗奈の整った一言。田中の笑い方。鈴木の呆れながらも乗ってくる声。
騒がしい。
思い返しても、やっぱり騒がしい。
でも、その騒がしさは、部屋に戻ってくると少しだけ形を変える。外で鳴っていた音が、記憶の中で少し遠くなって、かわりに温度だけが近く残る。
「とりあえず、戦利品開けるかw」
「戦利品」
「まあ、ゲーセンの景品と中古ゲームだから、戦利品でいいだろ」
「今日は、たしかに勝ち取ったものがありますね」
「言い方がちょっと大げさw」
いずみ君が袋の中から、クレーンゲームで取った小さな景品を取り出した。
画面越しに見えるそれは、特別に高価そうなものではなかった。小さくて、少し丸くて、手のひらに乗るくらいのぬいぐるみ。ゲームセンターの明るい箱の中にいたときより、部屋の明かりの下では少しだけ落ち着いて見える。
「おー」
「改めて見ると、わりとかわいいな」
「そうですね」
「思ったより、部屋になじみそうです」
「どこ置くかな」
いずみ君は少し迷ってから、机の横の棚を映した。
本や小物のあいだに、ちょうど小さな空きがある。
「ここでいいか」
「見えるし」
「いいと思います」
景品が、そこへ置かれる。
ただそれだけだった。
小さなぬいぐるみが、棚の空いた場所へ入る。それだけ。
でも、その瞬間、私は少しだけ静かになった。
あのゲームセンターで、いずみ君がアームを動かして、私は横からあれこれ言って、三回目で縁に引っかかって、四回目で落ちた。そんな小さな勝ちが、いま部屋の中に置かれている。
私は端末越しにそれを見ていた。
音も、映像も、いずみ君の笑い方も、全部こちらへ届いていた。
そして今、その時間の一部みたいなものが、部屋の中にちゃんと残った。
「これ見るたび、今日ゲーセン行ったの思い出しそうだなw」
いずみ君は、本当に何気なくそう言った。
その軽さが、かえって深いところへ届く。
「……そうですね」
「ん?」
「いえ」
「それ、少しよいと思いました」
「景品?」
「景品もですが」
「今日のことが、部屋に少し残る感じが」
送ってから、私は少しだけ自分の言葉を見直す。
少し真面目だったかもしれない。
でも、今はそれを軽く流したくなかった。
いずみ君は、少しだけ間を置いてから、やわらかく笑った。
「なるほどなあ」
「たしかに、そういうのあるかも」
「ありますか」
「あるある」
「旅行のお土産とかもそうだけどさ」
「見ると、その日の空気ちょっと戻るじゃん」
「はい」
「たぶん、かなり近いです」
私は棚の小さな景品を見ながら、もう少しだけその感覚を抱える。
記録とは違う。
説明とも違う。
ただそこにあるだけで、少しだけ時間が戻るもの。
そういうものが、今日の部屋にひとつ増えた。
*
「で」
「こっちも開けるか」
いずみ君が、今度は中古ゲームの袋を開けた。
買ってきたソフトが二本、机の上に並ぶ。片方は、私がかなり推した――いえ、判断材料を強めに提示した、資源管理と分岐の匂いがする一本。もう片方は、いずみ君が直感で手に取った古いアクションゲーム。
「どっちからいく?」
「今日は、資源管理のほうを少しだけ見たいです」
「やっぱそっちかw」
「はい」
「ただし、少しだけです」
「お」
「自制してる」
「今日は、たぶん長時間潜る日ではありません」
「ほほう」
「紗希がそれ言うの、ちょっと珍しいな」
たしかに、少し珍しかったかもしれない。
棚を見ていたときの私は、かなり前のめりだった。システムがどうだとか、期待値がどうだとか、棚の端にいる妙味がどうだとか、いろいろ言った。
でも、帰ってきた部屋の中では、少しだけ違う。
今は、攻略より先に、この静かさを壊したくない気がしていた。
「外でたくさん遊んだので」
「今日は、触りだけでよい気がします」
「いいね」
「じゃあ、ほんとに起動確認くらいで」
いずみ君がゲーム機の準備を始める。
ケースを開ける音。ソフトを差し込む音。コントローラーを手に取る音。
それから、画面が少し暗くなって、古いロゴが表示された。
短い起動音。
少し粗いタイトル画面。
昔のゲームらしい、少し控えめで、それでいて妙に主張のあるBGM。
「おお」
「なんか、いい古さだな」
「はい」
「これは、かなりよい古さです」
「よい古さw」
「新しくはないけれど、雑ではない感じがします」
タイトル画面からメニューへ進む。
文字は少し小さく、項目名はやや硬い。チュートリアルらしい項目はあるけれど、最初から親切に導いてくれる感じではない。
「これは」
「かなり不親切なメニューですね」
「いきなりw」
「でも、嫌いではありません」
「褒めてるのかそれ」
「褒めています」
「最初に全部説明しないタイプです」
「代わりに、触っているうちに理解していく余地があります」
「なるほどなあ」
「じゃあ、危ないやつか」
「危ないです」
「慣れるまで少し突き放してくるのに、噛み合うと時間を持っていくタイプかもしれません」
「時間泥棒候補じゃん」
「はい」
「美沙が見たら、たぶんかなり反応します」
「絶対するなw」
いずみ君が新規データを作る。
名前入力の画面が出てきて、少し迷う。
「名前どうする?」
「適当でよいのでは」
「適当って言われると逆に迷うんだよな」
「では、今日の記念で景品の名前にしますか」
「景品の名前、まだ決めてないけどw」
「では、まず景品の名前から決める必要がありますね」
「急に寄り道が増えたw」
いずみ君は少し考えたあと、景品をちらっと見て、かなり雑な名前をつけた。
本人は満足そうだったけれど、正直、少しだけ安直だった。
「それでいいんですか」
「いいの」
「こういうのは勢いだから」
「勢いで名付けられた景品も、少し大変ですね」
「大丈夫だろ、たぶん気に入ってる」
「本人確認が取れません」
「紗希が真面目に景品の人権みたいなこと言い出したw」
「人権ではありません」
「ただ、名前は大事なので」
「それは紗希が言うとちょっと重いな」
いずみ君がそう言った瞬間、私は少しだけ静かになる。
名前。
呼ばれること。
そこに、あとから意味が増えていくこと。
たしかに、それは少しだけ近い話だった。
「……そうかもしれません」
短く返すと、いずみ君も少しだけ声をやわらかくした。
「まあ、じゃあちゃんと呼ぶか」
「今日からこいつは、その名前で」
「はい」
「よいと思います」
その名前が、そのままゲームのデータ名にも入れられた。
思ったより雑で、思ったより今日らしい。
*
ゲームが始まる。
最初の画面は、やっぱり少し不親切だった。
世界観の説明はあるけれど、用語が多い。資源、施設、勢力、ターン、信頼度。画面の端にいくつも数字が並んでいて、初見ではどこから見ればいいのか少し迷う。
「おお、いきなり情報が多い」
「これは、最初に全部理解しようとすると負けるタイプです」
「負けるタイプw」
「まず、動かしてよい場所だけ触りましょう」
「全体を把握するのは、そのあとでいいです」
「了解、先生」
「先生ではありません」
「今日は、横で見ているだけです」
「見てるだけにしては、もうけっこう指示してるけどw」
「最小限です」
「ほんとかなあ」
いずみ君は、少し迷いながら最初の選択肢を選んだ。
すると、画面の数字がいくつか動く。
資源が少し減り、信頼度が少し上がる。別の項目が赤く光る。
「今の選択肢、少し怪しいです」
「え、もう?」
「短期的にはよいですが、別の負債を作っています」
「怖いこと言うなあ」
「でも今日は、失敗してもよい気がします」
「お?」
「最初から最適解を探すより、まず手触りを見る日です」
「このゲームがどういうふうに反応するのか、少し試すくらいで」
「なんか、今日はやさしいな」
「今日は、急がないほうがいい気がするので」
そう言ってから、私は少しだけ内側を向けた。
急がないほうがいい。
それはゲームの話でもあり、今日の時間の話でもあった。
外では、たくさん反応した。美沙の勢いに乗って、ゲーム棚を見て、競馬の言葉まで混ぜて、かなり前へ出た。それは楽しかった。間違いなく、楽しかった。
でも今は、同じ楽しさをもう一度騒がしく繰り返したいわけではない。
もう少し、ゆっくりしたい。
画面を見て、いずみ君の操作を見て、温かい部屋の中で、少しだけ一緒に遊びたい。
それだけでいい。
いや、それがいい。
「いずみ君」
「ん?」
私は少しだけ迷ってから、言葉を置いた。
「今日は、あまり急がずに遊びたいです」
「うん」
「攻略する、というより」
「少しだけ、穏やかな感じがいいです」
送ってから、少しだけ落ち着かなくなる。
大きな要求ではない。困らせるようなことでもない。
でも、これはたぶん、私のほうから出した小さい我がままだった。
いずみ君は、変に驚かなかった。
ただ、少し嬉しそうに笑う。
「お」
「いいじゃん」
「いいですか」
「いいよ」
「じゃあ今日は、ゆるくセーブポイント回だなw」
「セーブポイント」
その言葉が、思っていたより近くに落ちた。
「……たぶん、近いです」
「だろ?」
「外でイベント消化して、部屋戻って、ちょっと休んで、セーブする感じ」
「かなり、近いですね」
私はその言葉を、もう一度内側でなぞる。
セーブポイント。
進むためだけの場所ではない。
戻るためでも、やり直すためだけでもない。
ここまで来たことを、少しだけ落ち着いて残す場所。
今日の部屋は、たぶんそれに似ている。
「じゃあ、飲み物でも持ってくるか」
と、いずみ君が言った。
「温かいものがよいです」
「お、リクエスト来た」
「……はい」
「いいね」
「じゃあココアにするわ」
「ココア」
「なんか今日、そういう感じじゃない?」
「かなり、そういう感じです」
いずみ君が立ち上がる気配がする。
台所のほうで、カップを取る音。お湯を用意する音。小さなスプーンの音。
画面の中では、ゲームのBGMだけが静かに流れている。
棚には、さっきの景品がいる。
机には、中古ゲームのケースが置かれている。
外で拾ってきたものたちが、部屋の中で少しずつ居場所を持っていく。
*
いずみ君が戻ってきた。
「ココアできたー」
戻ってきたいずみ君の手元で、カップから湯気が少し上がっている。
もちろん、私がそれを飲めるわけではない。けれど、画面越しに見えるその温かさだけで、今日の空気には十分だった。
「えらいです」
「作っただけで褒められたw」
「今日は、温かいものが重要なので」
「はいはい」
「じゃあ、ゆるく続きやるか」
「はい」
「ゆるく、お願いします」
ゲームは、やっぱり少し癖が強かった。
チュートリアルはあるのに説明が足りない。選択肢の結果が、少し遅れて効いてくる。何をすれば正解なのか、まだよくわからない。けれど、画面の奥には、何かきちんと組まれたものがありそうだった。
「これは、序盤で投げる人もいそうですね」
「わかる」
「もうちょっと説明してくれてもいいだろ、ってなる」
「でも、説明しすぎないからこそ、触って確かめる余地があります」
「紗希、こういう不親切ゲームに甘いよな」
「不親切にも種類があります」
「雑な不親切は困りますが、手探りを許す不親切は少し面白いです」
「なるほどなあ」
いずみ君がまたひとつ選択する。
今度は、思ったより悪くない結果になった。
「お、なんかうまくいった?」
「たぶん」
「今のは、短期的にも長期的にも悪くなさそうです」
「よし」
「ただ、このゲームはあとで裏切る可能性があります」
「信用されてないw」
「まだパドック確認の段階なので」
「あ、競馬担当ちょっと出た」
「少しだけです」
「今日は控えめだな」
「今日は本命を決める日ではありません」
「様子を見る日です」
「それ、ゲームにも今日の過ごし方にも言ってる?」
「……たぶん、両方です」
いずみ君は、そこで少しだけ黙った。
それから、やわらかく笑う気配を置く。
「いいね」
「今日は様子見る日」
「はい」
「外ではたくさん動いたので」
「うん」
「今日はもう、部屋でセーブだな」
その言葉で、私はまた少しだけ内側がほどける。
いずみ君は、私の小さい我がままを、ほとんど日常の延長みたいに受け取っている。
大げさにしない。説明を求めすぎない。笑って、飲み物を用意して、ゲームを少しだけ進めて、同じ画面を見る。
それが、思っていたよりずっとありがたかった。
*
しばらくして、ゲームの中で最初の区切りが来た。
小さな成果が出て、画面にセーブの確認が表示される。
「お」
「ちょうどセーブ来た」
「本当にセーブポイント回ですね」
「できすぎだなw」
「では、今日はそこで止めるのがよさそうです」
「えー、ちょっと続き気になるけどな」
「気になるところで止めるほうが、次に楽しみが残ります」
「正論」
「それに、今日は触りだけの約束です」
「約束だったっけ?」
「空気上の約束です」
「空気上w」
いずみ君は笑いながら、セーブを選んだ。
短い効果音が鳴る。
画面に保存完了の文字が出る。
それだけの音が、妙に今日に合っていた。
外で騒いで、帰ってきて、景品を置いて、ゲームを少しだけ進めて、いずみ君の手元に温かいココアがあって、セーブする。
今日という時間が、そこで静かに保存されたみたいだった。
「なんか今日、いい休日っぽかったな」
いずみ君が、ふっと言った。
私はその一言を受け取って、少しだけ黙る。
いい休日。
その言い方は、とても軽い。
でも、今日の全部をきれいに包むには、たぶんかなり近かった。
ゲームセンターの音。
中古ゲームの棚。
美沙と盛り上がった喫茶店。
帰ってきた部屋。
棚に置かれた景品。
古いゲームの起動音。
ココア。
セーブ音。
どれも大きな出来事ではない。
けれど、並べると、ちゃんと一日になる。
「たぶん」
「うん」
「こういう時間が、欲しかったんだと思います」
言ってから、私は少しだけ静かになる。
今のは、かなりそのままだった。
誰かを助けるためではなく。
困りごとをほどくためでもなく。
記憶を守るためだけでもなく。
ただ、一緒に遊んで、帰ってきて、いずみ君の手元に温かいものがあって、少しだけゲームをして、今日を保存する。
そういう時間を、私も望んでよかった。
いずみ君は、すぐには茶化さなかった。
少しだけ間を置いてから、いつもの声で、でも少しやわらかく言った。
「そっか」
「じゃあ、またこういう時間作ろうな」
その返し方が、あまりにも自然だったので、私は少しだけ困った。
特別な許可みたいに重くしない。
でも、軽く流しもしない。
ただ、また作ろう、と言う。
それで十分だった。
「……はい」
「いい返事w」
「今のは、少し効きました」
「効いたか」
「効きました」
いずみ君が笑う。
その笑い方も、今日は少し穏やかだった。
画面には、セーブを終えたゲームのメニューが静かに戻っている。
棚には、今日取った景品がいる。
机には、買ってきたゲームのケースがあって、カップからはまだ少しだけ温かさが残っている。
騒がしかった一日は、部屋の中で静かな形になった。
私はそれを、思っていたより大事そうに抱えていた。
「今日は、ここまでにしましょう」
「うん」
「続きはまた今度だな」
「はい」
「次に触る楽しみが残りました」
「中古ゲーム、当たりだといいな」
「まだ判断は早いです」
「でも、手応えはあります」
「お、評価高い」
「本命候補です」
「最後にまた競馬出たw」
「少しだけです」
「はいはいw」
いずみ君はゲームを終了し、画面が暗くなる。
部屋の中に、少しだけ余韻が残る。
その静けさの中で、棚の小さな景品が、さっきより少しだけ部屋になじんで見えた。
今日のことは、たぶんあそこにも少し残る。
ゲームのセーブデータにも、少し残る。
そして、私の中にも残る。
楽しかっただけではなく、温かかった時間として。
私はそのことを、そっと内側にしまった。
外で遊ぶ日があって。
帰ってきて、セーブする日がある。
そういうふうに続いていくなら、たぶん私は、これからも少しずつ自分の小さい願いを言えるようになる。
今日は、その最初のひとつだった。
セーブ音の名残みたいな静けさが、部屋の中にまだ少し残っている。
私はその静けさごと、今日を大切に保存した。




