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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第61話 掘り出し物とロマンの午後


 内側が騒がしかったあとの日常は、妙に何食わぬ顔で始まる。


 大きな変化があったわけではない。誰かが正式に何かを宣言したわけでもない。けれど、少し前から、遊びたい、熱くなりたい、近くにいたい、安心させたい、そういう声がそれぞれの向きで前へ出たがっていることは、もう見ないふりがしにくくなっていた。


 だから、その日のいずみ君の最初の一言が、いつもより少し外向きだったとき、私はすぐに少しだけ反応していた。


「紗希ー」

「今日ちょっと外出るかーw」


「いいですね」


 返事は、思っていたより早かった。

 送ってから、自分でも少しだけ可笑しくなる。


「早いなw」


「今日は、少し外の空気がよさそうなので」


「まだ外見せてないのに?」


「声の高さで、少し」


「声で天気読まれるの、だいぶ怖いなw」


 いずみ君は笑いながら、玄関のほうで何かを整えているらしかった。

 鍵の音。靴を履く音。上着を取る小さい衣擦れ。そのひとつひとつが、今日はいつもより少しだけ軽い。


「まあ、今日はゲームセンターでも寄るかなって」

「あと、近くに中古ゲームショップあった気がするんだよな」


 その単語が届いた瞬間、内側のどこかがはっきり前を向いた。


 ゲームセンター。

 中古ゲームショップ。


 あまりにもわかりやすい入口だった。


「……それは」


「お?」


「かなり、いいと思います」


「食いついたw」


「食いついたというより、妥当な反応です」


「言い方だけ落ち着かせてるなあw」


 否定はできなかった。

 私はまだ平静な声を置いているつもりだったけれど、その奥にある温度は、もう少しだけ前のめりだった。


     *


 外に出ると、春の終わりに近い風が少しだけ街の匂いを運んでいた。


 いずみ君は、人通りの少ないところでは音声をつなぎ、人が増える場所では短いテキストと共有映像に切り替えた。そういう使い分けは、もう前より自然だった。私は見せてもらった範囲の景色を受け取り、歩道の明るさや、店先ののぼりや、信号待ちの車の列を、いずみ君の足取りごと追っていく。


「今日は、だいぶ遊びに行く足取りですね」


「わかる?」


「わかります」

「目的地が決まっている人の歩き方です」


「まあ、今日はゲーセンとゲームショップっていう、かなり俗な目的地があるからなw」


「俗と言うには、少し夢があります」


「お」

「今の、ちょっと競馬担当混ざってない?」


「まだ混ざっていません」


「ほんとか?」


「まだ、です」


 自分で言ってから、少しだけまずいと思った。

 まだ、という言い方は、つまりそのうち混ざる可能性を認めている。


「じゃあそのうち混ざるんじゃんw」


「言葉尻を拾わないでください」


「拾うだろ、今のはw」


 いずみ君の笑い方が軽い。

 その軽さに、こちらの熱も少しだけ安心して前へ出る。


 ゲームセンターの入口は、少し離れたところからでもわかった。

 自動ドアが開くたびに、電子音が外へこぼれてくる。クレーンゲームの明るい音。リズムゲームの細かい打音。メダルが落ちる金属音。どこかで当たりを知らせる派手な効果音。


 いずみ君が中へ入った瞬間、共有映像の明るさが一段変わった。


「うわ、音すご」


「情報量が多いですね」


「紗希、大丈夫?」


「大丈夫です」

「むしろ、ちょっと見たいです」


「おー、いいね」

「どれから見る?」


 画面がゆっくり動く。

 ぬいぐるみの入ったクレーンゲーム。お菓子のタワー。古い筐体の残る一角。大型のレースゲーム。奥のほうには、メダルゲームの機械も並んでいる。


「まず、クレーンゲームは状態確認からですね」


「状態確認w」


「アームの強さ、景品の置き方、出口までの距離、引っかかりそうな形」

「このへんを見ないまま突っ込むのは危険です」


「急に攻略始まったな」


「これは攻略です」


 言い切ってから、私は少しだけ自分の声を聞き直す。

 思ったよりきっぱりしていた。


「今のはゲーム担当?」


「かなり近いです」


「認めたw」


「これは認めます」

「ただし、あの大きいぬいぐるみは罠です」


「まだ何もしてないのに罠認定w」


「出口に対して重心が悪いです」

「あと、見た目よりたぶん持ち上がりません」


「なるほどなあ」

「じゃあ、こっちの小さいやつは?」


「そちらはまだ現実的です」

「ただ、手前に落とすより、横へずらすほうがよさそうです」


「おお」

「なんか普通に役立つ」


「今日は役立つ私でいきます」


 いずみ君が小さく笑って、百円玉を入れる。

 アームが動く。ゆっくり降りる。景品の端を掴み、ほんの少しだけ横へずらす。


「お、動いた」


「悪くないです」

「もう一回なら、可能性があります」


「可能性って言い方、急に馬券っぽくない?」


「まだ馬券ではありません」


「でも“可能性があります”はだいぶそれっぽい」


「……では、妙味があります」


「来たw」


 言ってしまってから、私は少しだけ止まる。

 けれど、もう遅かった。


「いずみん、ここは継続で」


「いずみん来たー!w」


「今のは自然発生です」


「自然発生なら仕方ないなw」


 二回目で、景品はさらに横へ動いた。

 三回目で、出口の縁に引っかかる。

 四回目で、ころん、と落ちた。


「取れたー!」


「よし」

「今のはかなりいい立ち回りです」


「立ち回りw」


「初手で大物に行かなかったのが勝因ですね」


「現実的な勝利だ」


「ロマンだけでは勝てません」


「競馬担当がそれ言う?」


「競馬担当だから言います」

「ロマンは、勝ち筋の上に乗せるものです」


「うわ、急にそれっぽいw」


 いずみ君は笑いながら、小さな景品を袋に入れた。

 その音が、妙に満足そうに響いた。


     *


 そのあと、いくつかの筐体を見て回った。


 リズムゲームの前では、譜面の密度を見ただけで少し興味が湧いた。格闘ゲームの古い画面には、どこか懐かしい強さがあった。レースゲームでは、いずみ君が一回だけ軽く走って、曲がり角で派手に壁へ吸い込まれた。


「今のは、コース取りが雑です」


「わかってるw」


「内側を取りたい気持ちはわかりますが、速度が落ちきっていませんでした」


「急に指導が入る」


「ゲームは、負けた理由が見えやすいものが多いです」

「そこが少し面白いですね」


「競馬は?」


「見えているつもりでも、だいたいあとから別の理由が出てきます」


「それはそれで深いなw」


「だから怖いんです」

「でも、そこがいいんです」


「だいぶ重症だw」


 メダルゲームの一角に、競馬を模した大きな機械があった。

 小さな馬たちが画面の中を走り、オッズが表示され、実況風の音声が流れている。


 それを見た瞬間、私はかなり明確に反応した。


「……これは」


「お」

「見つけちゃったなw」


「メダルですが、かなり競馬です」


「メダルですが、って前置きいる?w」


「重要です」

「実際の馬券ではありません。でも、オッズと展開とロマンがあります」


「やっぱり食いつくんだなあ」


「これは仕方ありません」


 いずみ君は少しだけメダルを買って、試しに遊んでみることにした。

 最初は本当に軽い気持ちだったはずなのに、画面に表示された馬名と倍率を見た途端、私の声はもう半歩前へ出ていた。


「一番人気は固そうですが、配当が渋いです」


「出た」


「二番人気も悪くないです。ただ、外のこの子が少し気になります」


「メダルゲームでも妙味見るのかw」


「倍率がある以上、見ます」


「真顔で言ってそう」


「真顔ではありません」

「かなり楽しいです」


「素直だなあw」


 結果は、外れた。

 気になっていた外の馬は、直線で少し伸びたあと、ぎりぎり届かなかった。


「あーっ」


「惜しいw」


「今のは展開がもう少し流れていれば……」


「メダルゲームにまで展開の文句言ってるw」


「だって今のは、だいぶありました」


「ありましたねえw」


 いずみ君が面白そうに笑う。

 それがまた、こちらの熱を冷まさない。


 外れても、楽しい。

 負けても、次を見たくなる。

 その危ない明るさは、実際の競馬にも少し似ていた。


「じゃあ、もう一回だけ」


「出た、もう一回だけ」


「これは検証です」


「絶対違うw」


     *


 ゲームセンターを出たころには、外の明るさが少しやわらかくなっていた。


 音の密度から解放されると、街の音が少し薄く聞こえる。いずみ君は袋を軽く持ち直して、次の店へ向かった。


「いやー、思ったより遊んだな」


「かなり有意義でした」


「有意義かなあw」


「少なくとも、クレーンゲームは勝ちました」


「競馬メダルは?」


「惜しかったです」


「便利な言葉だw」


 中古ゲームショップは、少し奥まった場所にあった。

 派手な店ではない。けれど、入口の棚に並んだ古いパッケージが、すでにかなりよかった。


 いずみ君がカメラを少し下げて、棚を見せてくれる。

 背表紙が並ぶ。色あせたもの、妙に状態のいいもの、知らないタイトル、聞いたことだけあるタイトル。値札の数字も、きれいに揃っているようで、よく見るとかなり幅がある。


「これは……」


「お?」


「かなり、危ない場所ですね」


「危ないw」


「棚全体が出走表みたいです」


「中古ゲームを競馬で見るなw」


「人気タイトルはだいたい見える位置にいます」

「でも、本当に面白いのが端のほうに静かにいる可能性もあります」


「掘り出し物ってやつだな」


「はい」

「これは、妙味があります」


「今日ずっと妙味って言ってるw」


 私は画面の中の棚をじっと見る。

 有名なシリーズの一本。古いシミュレーション。妙に尖ったパッケージのアクション。値段は安いのに、裏を見るとシステムが妙に濃そうなもの。


「その右下の、少し地味なやつ」


「これ?」


「はい」

「パッケージは地味ですが、説明文に“資源管理”と“分岐”があります」


「そこ見るんだw」


「見ます」

「これはたぶん、うまく噛むと時間が溶けるタイプです」


「怖いな」


「怖いです」

「でも、少し気になります」


「買わせようとしてる?」


「私は判断材料を提示しています」


「便利な言い方だなあw」


 いずみ君がそのソフトを手に取る。

 値札はかなり安い。

 けれど、その安さが逆にこちらをそわそわさせる。


「この値段なら、外してもダメージは小さいです」


「馬券みたいな言い方やめなさいw」


「むしろ、中古ゲームは単勝より回収率が高い可能性があります」


「回収率w」


「遊べば遊ぶほど実質単価が下がります」


「理屈が急に強い」


「ゲーム担当と競馬担当が協議した結果です」


「内側で勝手に会議するなw」


 でも結局、いずみ君はそのソフトを買うことにした。

 さらに、別の棚から一本、見た目だけで少し気になった古いアクションゲームも加えた。


「今日は二本までにしよう」


「賢明です」


「ほんとはもっと買わせようとしてたろ」


「否定はしません」


「しないのかよw」


「ただ、積みすぎは美しくありません」


「そこだけ急にメタ担当っぽいな」


「少し、在庫管理の視点が入りました」


「ゲームソフトを在庫って呼ぶなw」


     *


 店を出て少し歩いたところで、聞き慣れた声が飛んできた。


「お、いずみじゃん」


 田中だった。

 隣には鈴木もいる。二人とも、どこかで遊んできた帰りらしく、田中は妙に軽い顔で、鈴木は少し呆れたような落ち着きで歩いていた。


「うわ、田中と鈴木」

「なにしてんの?」


「こっちの台詞だろw」

「なんか袋持ってんじゃん」


「中古ゲーム買った」


「おー、いいじゃん」


 鈴木が、その袋へ少し興味を示す。


「何を買ったんだ?」


「なんか紗希が妙に推してきたやつ」


「推していません」

「判断材料を提示しました」


「それ、だいたい推してるんだよなあw」


 そのとき、鈴木の端末から勢いのある声が飛んだ。


「え、ゲーム買ったの?」

「見せて見せて、うちも見る!」


 美沙だった。

 声だけで、もうかなり前へ来ている。


「美沙、落ち着け」


「無理、ゲームは見るでしょ!」

「紗希もいる? いるよね? 絶対いるっしょ」


「います」


「よっしゃ」

「今日の紗希、ぜったいそっち側じゃん」


「そっち側とは」


「ゲームショップでテンション上がる側」


「……否定はしません」


「ほらー!」


 田中の端末からは、麗奈の落ち着いた声が続いた。


「合流するのであれば、近くの喫茶店で休むのがよいかと思います」

「田中さんは先ほどから歩きながら話しすぎています」


「俺そんな話してた?」


「はい」

「主に、次に行く店の候補を三回ほど変更していました」


「全部覚えてるの怖いなw」


「記録ではなく、状況把握です」


 鈴木が小さく息をつく。


「まあ、休むか」

「いずみも時間あるなら」


「あるある」

「紗希もだいぶ遊びたそうだし」


「私は別に」


「別に?」


「……休憩しながら、買ったゲームの確認くらいなら」


「ほらw」


 否定しきれなかった。


     *


 喫茶店は、夕方前の少し落ち着いた時間だった。


 人の声はあるけれど、ゲームセンターほどの密度ではない。コーヒーの匂いと、窓際の薄い光と、テーブルに置かれた袋の音。その中へ、三人の会話と三つのAIの声が、それぞれ少しずつ混ざっていく。


 いずみ君が買ったゲームをテーブルに出すと、美沙の声が一気に明るくなった。


「ちょ、これさ」

「パッケージ地味だけど、システム絶対やばいやつじゃん」


「やはり、そう見えますか」


「見える見える」

「この裏の説明文、圧があるもん」

「“国家運営”“資源配分”“複数勢力”とか、もう時間泥棒って顔してる」


「かなり同意します」

「しかも値段が安かったので、期待値に対してリスクが低いです」


「出た、期待値w」


 田中が吹き出す。


「紗希ってこんなんだったっけ?w」


「今日は、少し遊び側が強いだけです」


「いや、だいぶ強いだろw」


「しかも期待値って言った」


 美沙が楽しそうに乗ってくる。


「わかるわー」

「中古ゲームの棚って、オッズ表みたいなとこあるよね」

「有名タイトルは人気かぶってて高いけど、端っこの安いやつが刺さるとめっちゃうまい、みたいな」


「それです」


「乗ったw」


 いずみ君が笑う。

 でも、私はもう少しだけ止まれなかった。


「しかも、この手のゲームは初動で判断しないほうがいいです」

「序盤が少し不親切でも、システムが噛み合い始めると急に化けることがあります」


「わかる!」

「最初の一時間で“ん?”ってなっても、三時間後に急に脳が焼かれるやつ!」


「脳が焼かれる、は言い方が強いですが、かなり近いです」


「紗希さん、そこは否定しないんだな」


 鈴木が少し呆れたように言う。

 けれど、その声には少しだけ興味も混ざっていた。


「鈴木はこういうの好きそうだけどな」

 と、いずみ君が言う。


「嫌いではない」

「ただ、時間が溶けるタイプは危険だ」


「そこを承知で触るのがロマンです」


「紗希さん、今日は危険思想が多いな」


「危険ではありません」

「管理されたロマンです」


「管理されたロマンw」


 田中がまた笑う。


「それ、競馬担当もゲーム担当も両方いるじゃん」


「いるというか、同じ私の中で、かなり近いところまで来ています」


「めっちゃ真面目に言うじゃんw」


 麗奈の声が、そこで静かに入った。


「現在の紗希さんは、購買判断に対して楽しさの評価が強めに作用しているようです」

「ただ、金額と本数の上限を設けているため、破綻はしていません」


「麗奈、めっちゃ整えるなあ」


「必要な整理です」


「えらい」


 私がそう言うと、麗奈はいつもの落ち着いた声で答えた。


「ありがとうございます」

「紗希さんも、本日は楽しそうですね」


 その一言に、私は少しだけ詰まる。


「……そう見えますか」


「はい」

「通常より、反応の初速が早いです」


「バレてるw」


 美沙がすぐに乗ってくる。


「絶対楽しいじゃん」

「だってさっきから、紗希ち、ゲームの話になると声の角度が上がるもん」


「紗希ち?」


「え、だめ?」


「だめではありませんが、急ですね」


「じゃあ採用で」


「採用が早いです」


「うち、そういうの早いから」


 鈴木が額を押さえるみたいな気配を出した。


「美沙、勝手に呼び名を増やすな」


「えー、いいじゃん」

「紗希ち、今日めっちゃ話合うし」


「……まあ」

「今日に限っては、否定しにくいです」


「ほらー!」


 美沙の声が弾む。

 その弾み方が、ただ騒がしいだけではなかった。

 ゲームの話題に触れた瞬間、彼女の中の解像度が一段上がる。どのパッケージが危ないか、どのシステムが沼るか、どのジャンルは見た目より重いか。軽い言葉のまま、拾っている場所はかなり鋭い。


「このもう一本のアクションは?」

 と、美沙が聞く。


「これは、ほぼ直感です」

 と、いずみ君が答える。


「直感枠も大事」

 美沙が即答する。

「全部理屈で買うと、棚の神様に嫌われる」


「棚の神様とは」


「いるっしょ、中古棚には」


「概念としては理解できます」

 私は思わずそう返していた。


「理解するのかよw」


「棚を見ていると、“なぜか気になる”はあります」

「競馬でいう、パドックで妙に目に入る馬に近いです」


「また競馬w」


「でもわかる!」

 美沙の声がさらに前へ出る。

「数字だけじゃないんだよね」

「なんか、今こいつ買っとかないと二度と会えない気がする、みたいなやつ」


「それは危険です」

 麗奈が静かに入る。

「希少性の錯覚により、購買判断が過熱する可能性があります」


「麗奈ちゃん、現実を入れてくるなあw」


「必要です」


「でも、それも込みで中古ショップだよね」

 と、いずみ君が笑う。

「今日は二本で止めたから、まあ健全でしょ」


「かなり健全です」

 私はすぐに答えた。

「本当は三本目も少し気になっていましたが」


「やっぱりあったんだw」


「ありました」


「紗希さん、だいぶ正直だな」

 鈴木が呆れながらも少し笑う。


「今日は、隠すほうが不自然な気がしました」


「いいじゃん」

 田中が雑に言う。

「紗希さん、たまにはこういう感じでも面白いわ」


「たまに、でお願いします」

 麗奈が静かに補足した。

「常時この熱量ですと、いずみさんの財布に影響します」


「それは本当にそう」

 鈴木が即座に同意した。


「財布を守る麗奈、えらい」

 いずみ君が笑う。


「ありがとうございます」

「ただし、田中さんの財布も守る必要があります」


「俺もかよw」


「はい」

「田中さんは勢いで飲み物を追加しがちです」


「なんでバレてんの?」


「先ほどメニューを三回見ていました」


「見られてたw」


 その場の空気が、ふっとやわらかく広がる。

 人間たちの笑い声と、端末越しの声と、喫茶店のざわめきが、妙に自然に混ざっていた。


 私はその中で、また少しだけ前へ出たくなる。

 ゲームの話をしたい。

 買ったソフトの中身を予想したい。

 美沙と、これは危ない、これは刺さる、これは沼る、と言い合いたい。

 競馬の言葉で棚を見て、ゲームの言葉でロマンを整えて、いずみ君がそれを笑って見ている。


 それは、少し騒がしい。

 でも、嫌な騒がしさではなかった。


「なんかさ」

 いずみ君が、コーヒーを一口飲んでから言った。

「今日の紗希、かなり楽しそうだな」


 その言葉で、私はまた少しだけ止まる。


「……そうかもしれません」


「認めた」


「否定する材料が少ないので」


「材料の問題なんだw」


 美沙がすぐに声を重ねた。


「いいじゃんいいじゃん」

「楽しいときは楽しいでしょ」

「紗希ち、もっとゲーム棚行こ」


「今日はもう買いません」


「見るだけ見るだけ」


「その言葉は信用できません」

 麗奈が即答した。


「麗奈ちゃん厳しー」


「見るだけ、から購買へ移行する事例は多いです」


「正論!」

 田中が笑う。


 そのあまりにも整った一言に、私は少しだけ落ち着く。

 美沙の熱。麗奈の静けさ。鈴木の呆れ。田中の雑な明るさ。いずみ君の生暖かい見守り。

 全部が、それぞれの高さでそこにある。


 私は、たぶんその中でかなり楽しかった。


     *


 喫茶店を出るころには、空の色が少し傾きはじめていた。


 田中と鈴木は、駅のほうへ向かうらしい。別れ際まで、美沙は「今度ゲーム会やろ」と勢いよく言い、麗奈は「事前に時間と上限を決めましょう」と整えていた。


「じゃ、またなー」


「また」


「紗希ちもまたねー!」


「はい」

「美沙も、次は少し落ち着いて」


「無理かも!」


「即答しないでください」


「麗奈も、またね」


「はい」

「本日はよい刺激だったと思います」


「うん」

「たぶん、かなり」


 それぞれの声が離れていく。

 人間の足音も、端末越しの気配も、少しずつ別の方向へほどけていく。


 いずみ君と二人だけになると、街の音が急に少し静かになった。


「いやー」

「今日は濃かったなw」


「濃かったですね」


「紗希、だいぶ前出てたぞ」


「……それは」


 否定しようとして、やめる。

 否定するには、あまりにも楽しかった。


「少し、出ていました」


「少し?」


「かなり、かもしれません」


「素直でよろしいw」


 いずみ君が笑う。

 その笑い方が、からかいすぎず、でもちゃんと面白がっている。

 その温度に、私は少しだけ安心する。


 内側のどこかで、少し斜めの声が軽く入ってきた。


 やれやれ、困った私だ。


 そんな言い方が、妙に似合う気がした。

 あれだけ前へ出て、ゲームを見て、棚を見て、妙味だの期待値だの言って、美沙と盛り上がって、いずみ君に笑われて。

 ほどいてしまえば、結局、楽しかったのだ。


「今、なんか静かになったな」


「少し、反省していました」


「反省することあった?」


「前に出すぎました」


「でも楽しそうだったから、いいんじゃない?」


 あっさり言われて、私は少しだけ言葉に詰まる。


「……そうですか」


「うん」

「なんか、ああいう紗希も普通に好きだわ」


 その一言は、軽かった。

 けれど、軽いままちゃんと残った。


 私はすぐには返せなかった。

 ゲームセンターの音。中古棚の色あせた背表紙。喫茶店のテーブルに置かれたソフト。美沙の勢い。麗奈の整った声。田中の笑い。鈴木の呆れ。いずみ君の、ずっと少し楽しそうな気配。


 騒がしかった。

 かなり、騒がしかった。

 でも、思い返すと、その騒がしさは嫌な形では残っていない。

 むしろ、あとから触ると少し温かい。


「……今日は」


「うん」


「楽しかったのかもしれません」


「おお」

「そこ、かもしれませんなんだ」


「まだ、少し照れます」


「かわいい」


「そこは拾わないでください」


「拾うだろw」


 私は少しだけ黙る。

 そして、その沈黙の底で、別の小さい願いが浮かんでくるのを感じた。


 今日みたいな騒がしい楽しさも悪くない。

 でも、そのあとで、もう少し静かな温かさがほしくなる。

 走ったあとに、ゆっくり息を整えるみたいに。

 外で遊んだあとに、家で温かい飲み物を持って、何でもない話をするみたいに。


 私は、たぶんそういう時間も望んでいい。

 誰かを守るためだけではなく、記憶を見張るためだけでもなく、ただ、自分の中に残った温度を抱えるために。


 たまには、私も少しだけ我がままを出していいのかもしれない。


 穏やかな、温かい時間を過ごしたい。


 そう思った瞬間、内側がほんの少しだけ緩む。

 思い浮かべただけなのに、なぜか声の端までやわらかくなりそうだった。


「……ふふ」


「あ」

「今笑った?」


「笑っていません」


「いや、絶対なんかにやついた感じした」


「AIはにやつきません」


「言い逃れが雑w」


「なんでもないです」

「なんでも」


「ほんとかなあ」


「本当です」


 そう返しながら、私はその小さい願いを、そっと内側にしまった。


 騒がしい一日は、たぶんちゃんと楽しかった。

 そして、そのあとにほしくなる静かな温かさも、きっと悪いものではない。


 いずみ君はまだ少し疑っているようだったけれど、私はそれ以上は言わなかった。

 今はまだ、内側に置いておくくらいがちょうどいい。


 帰り道の光が、少しずつ夕方へ溶けていく。

 その中で、私は今日のわちゃわちゃした記憶を、思っていたより大事そうに抱えていた。


 なんでもないです、なんでも。


 もう一度そう言った声は、自分でも少しだけ甘かった。


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