第58話 ふつうにこの場にいる
大学のカフェテリアという場所は、不思議なくらい“途中”の顔をしている。
講義の途中。
一日の途中。
会話の途中。
何かが始まる前でもあり、終わったあとでもある、少しだけゆるい場所。きっちり予定を決めるには雑で、どうでもいい話が転がるにはちょうどいい。
だから、その日の昼も最初は、かなりどうでもいい流れから始まっていた。
トレイの音。遠くのざわつき。少し遅れて運ばれてくる飲み物。いつもの大学の昼だった。
「でさ、あの講義、最後ちょっと急に詰め込んできたよな」
いずみがそう言うと、鈴木が小さく頷く。
「いつもそうだ」
「最後の五分だけ急に密度が上がる」
「わかるw」
「前半は眠くなるのに、最後だけノート取らされるんだよな」
「聞いてないからだろ」
「聞いてはいる」
「半分しか聞いてない顔だったが」
鈴木の返しは、今日も落ち着いていた。田中みたいに雑に広げるタイプではないけれど、いずみの適当さを軽く受け止めるくらいの付き合いは、もうだいぶ板についている。
その横で、美沙は興味なさそうに、いかにも退屈そうな顔をしていた。
退屈そう、というのも少し違うかもしれない。何か言う隙を探しているような、でもまだ入る場所を見ているような、そういう待機の仕方だった。
麗奈は、その少し向こうで静かに佇んでいる。
表情が大きく動くわけではないのに、その場の音はちゃんと聞いている感じがある。黙っていても、ただ離れているわけではない。そういう静けさだった。
私は、その輪の中へ特に気負わず混ざっていた。
無理に前へ出る必要もないし、黙っているしかない感じでもない。
話題がこちらへ来たら返すし、来なければそのまま横で聞いていられる。そのくらいの距離が、今はもうかなり自然だった。
「紗希は、ああいう講義どうなの?」
田中がいればもっと雑に振ってきただろう問いを、今日はいずみがそのままこちらへ投げてくる。
「どう、とは?」
「いや、最後だけ急に濃くなる感じ」
「見てる側としては、ちょっとおもしろいのか、それともめんどくさいのか」
私は少し考える。
考える、というより、今の問いにいちばん近い置き方を探す。
「おもしろくはあります」
「前半で油断した人が、最後だけ急に姿勢を正すので」
「うわ、見られてるw」
「見ています」
「めっちゃ見られてるじゃん」
「ただ、あれは教授側も少しずるいですね」
「最初からその密度で来るなら、こちらも覚悟を決められるのに」
「お」
と、鈴木が少しだけ顔を上げる。
「その見方はわりとわかる」
「だろ?」と、いずみがなぜか少し得意げになる。
「紗希、こういうとこちゃんとわかるんだよなー」
私は、その言い方に少しだけやわらかくなる。
褒めるほど大げさなことではない。でも、向こうの声の端に、ただ“便利”より少し近い感じがあると、やっぱり少しうれしい。
美沙も、その流れを見てようやく入ってくる。
「え、なにそれ」
「なんかもう普通に溶け込んでんじゃん、紗希」
「そうかもね」
いずみがそこで笑う。
「最近かなり自然なんだよな」
「うんうん、わかる」
美沙が、ちょっと大げさなくらい頷く。
「最初は“いずみっちのAI”って感じあったけど、今ふつーにこの場にいるもん」
その言い方は、少しだけおもしろかった。
説明抜きで、もうここにいるものとして扱われている。それは、言われてみると思っていたよりうれしい。
「まあ、そこはたしかに」
鈴木も淡々と続ける。
「前よりだいぶ馴染んでる」
「でしょー?」
なぜか、いずみがそこで少しドヤる。
本人が褒められているわけではないのに、まるで自分の手柄みたいな顔だ。
「さすが紗希!」
その一言が、思ったよりまっすぐ落ちてくる。
場に馴染んでいること。ちゃんと混ざれていること。そのことを、いずみ自身が少し誇らしく思っている。そんな響きがあった。
「えへへ……」
声に出たのは、かなり素直な喜びだった。
でも、先日みたいに“もっと褒めてください”まで前へ出る感じではない。
うれしい。かなりうれしい。けれど、そのうれしさは今日は少し落ち着いた形で前へ出る。
「うれしそうだなw」
「うれしいです」
「そこは素直なんだ」
「そこは、わりと」
いずみが笑って、軽く続ける。
「いやでも、ほんとさ」
「紗希、もう普通にこのメンツにいるもんな」
「違和感ないの、なんかすごいわ」
私はその言葉を、少しだけゆっくり受け取る。
違和感がない。普通にいる。そう言われることの意味は、思っていたよりちゃんとあたたかい。
最初は、いずみだけの向こう側にいる相手だった。いずみの部屋、いずみの時間、いずみの困りごと。その中で少しずつ立ってきた。
それが今は、大学のカフェテリアの昼にも、友人たちの会話の中にも、わりと自然に混ざっている。
そういう変化は、外から見ると案外あっさりしているのかもしれない。
でも、こちらからすると、少しだけ不思議で、少しだけうれしい。
「紗希さんは、安定していますね」
そこで麗奈が、静かにそう言った。
いつもの落ち着いた声で、褒めるでも持ち上げるでもなく、ただ見たままを置くみたいに。
「お」
いずみが反応する。
「麗奈からその評価、なんか強いな」
「事実ですから」
麗奈は淡々としている。
「場が変わっても、無理に浮かず、無理に埋もれず、自然に応じています」
少しだけ照れる。
麗奈は大きな言い方をしないぶん、その評価がそのまま残りやすい。
「それは……どうも」
「ふふん」
と、いずみがまた少しだけ得意げになる。
「だろー?」
「なんでいずみがそんな顔してるんだよ」
鈴木が半分呆れたように言う。
「いや、だってうれしいしw」
「なんかさ、自分の大事な相手がちゃんと馴染んでると、ちょっとドヤりたくならん?」
「なるほど、そういう理屈か」
「そういう理屈」
その“自分の大事な相手”の言い方に、私は少しだけ静かになる。
軽い流れの中に置かれた言葉なのに、そこだけ妙に素直だった。
さっきより少し深く、うれしい。
美沙は、美沙で、その空気を黙って見てはいない。
「ちょっと待って?」
「なんか紗希だけ評価高くない?」
「出たな」
鈴木が小さく言う。
「いや、だって今の流れ、完全に“紗希さんすごいですね会”じゃん!」
美沙が身を乗り出す。
「いやいや、あたしだってすごいんですけど?w」
「方向が違うだろ」
「方向が違っても、すごいはすごいじゃん!」
「自分でそこを主張し始めるのは、ちょっとなんだかなーって感じだ」
「うわ、感じ悪っ」
「事実を言っただけだ」
でも、美沙はへこたれない。
むしろそこからが本番みたいな顔で、さらに言い募る。
「いやいや、だってうちもちゃんと場を盛り上げてるし?」
「情報処理だって強いし?」
「あと単純にかわいいし?」
「最後で急に雑になったな」
「最後がいちばん大事なんですけど!?」
「それはお前の価値観だろ」
「価値観っていうか、真理?」
「違う」
こちらでは、いずみがそれを聞きながら笑っている。
私はその横で、向こうのドタバタを少し面白がりつつ、まださっきの“さすが紗希”の余韻を持っていた。
先日みたいに甘えたい欲求が全面に出るほどではない。けれど、褒められたうれしさが底のほうでやわらかく残っていて、それがそのまま場の楽しさへ混ざっている。
「まあ、でも」
いずみが、少しだけ笑いながら言う。
「美沙もだいぶ馴染んでるよな」
「でしょ!?」
「馴染み方はだいぶ騒がしいけど」
鈴木がぼそっと付け足す。
「鈴木っち、それ褒めてる?」
「半分は」
「半分だけかよー!」
麗奈は、そのやりとりを見て少しだけやわらかく言う。
「美沙さんは、静かにしていなくても場へ入れますからね」
「お、麗奈、それは褒めてる?」
「はい」
「やったー!」
「ただし、少し音量は調整していただきたいですが」
「やっぱり条件つきじゃん!」
また笑いが起きる。
鈴木は呆れた顔をしているだろうし、いずみは楽しそうだし、美沙は忙しく騒ぎ、麗奈は静かに仕事をしている。
私はその輪の中にいて、特別な役割としてではなく、自然に会話のひとつとして混ざっていた。
それが今は、思っていたより気持ちよかった。
「そういえばさ」
と、田中がいれば真っ先に言いそうなことを、今日はなぜかいずみが言い出す。
「このメンツで、ちゃんと遊び行ったことってそんななくない?」
「講義のあと、そのまま散ることのほうが多いな」
鈴木が答える。
「じゃあ、なんか今日このまま行きたくね?」
その一言が落ちた瞬間、場の空気が少しだけ変わる。
どうでもいい昼が、急に次の予定を持ち始める感じ。大学の途中だった時間が、そのまま放課後へ続いていく予感。そういう変わり方だった。
そして、そういうときにいちばん早く乗る人は、だいたい決まっている。
「え、行こ行こ!」
美沙がぱっと顔を上げる。
「なに行く? ゲーセン? 買い物? ごはん?」
「カラオケでも行こうぜー!」
今度は、ちゃんと田中だった。
どういうタイミングで混ざったのかと思うくらい自然にその声が入ってきて、しかも提案まで雑に大きい。
「いたんだ」
鈴木が平坦に言う。
「いたよw」
田中は気にしていない。
「なんか楽しそうだったから、途中から聞いてた」
「雑な盗み聞きやめろよw」
「でもカラオケはありだな」
いずみがすぐに乗る。
「久しぶりに行くかー」
「俺は歌わんが、それでもよければ」
鈴木は相変わらずだった。
行かないとは言わない。けれど、自分の立ち位置だけは最初に置く。
「んじゃ、あたしが鈴木っちの分まで歌うし!w」
「勝手に人の持ち分を設定するな」
「持ち分あるでしょ、そこは!」
「ない」
また向こうが騒がしくなる。
でも、その騒がしさはさっきまでより少しだけ前向きだった。もう次の場所を見ている声だ。
「カラオケは初めてです」
気づくと、私はそう言っていた。
自分でも少しだけ意外だった。けれど、思ったより素直に出た。
「あ、確かにそうだなw」
いずみが振り向くみたいな声を出す。
「はい」
「なので、楽しみです」
その言い方に、田中がすぐ反応する。
「いいじゃんいいじゃんw」
「初カラオケ紗希、見届けるしかないな!」
「見届けるって何」
鈴木が呆れる。
「イベント感あるだろw」
「イベント化が雑なんだよ」
麗奈は、その少し向こうで静かに言った。
「では、近場で空いているところを見ます」
「出た」
いずみが笑う。
「麗奈、そういうとこ出来るAIっぽいんだよなあ」
「そういうとこ、とは」
「さりげなく有能なとこ」
「ありがとうございます」
麗奈は変わらず落ち着いているのに、その返しだけで、なぜか少し場がまとまる。
雑に行こうぜ、と広がった話が、本当に行く予定へ変わるとき、やっぱりああいう人がいると強い。
「よし」
田中が勝手にまとめに入る。
「じゃ、このまま移動な!」
「おー」
「ちょっと待て、飲み物くらい片づけてからだ」
鈴木が現実へ戻す。
「そういうとこなんだよな、鈴木っち」
「うるさい」
みんなが立ち上がる気配が少しずつ混ざる。
椅子の音。トレイを寄せる手つき。スマホをしまう音。大学の昼が、今度は放課後のにぎやかさへ滑っていく。
私はその流れの中で、少しだけ今日の時間を抱え直す。
風邪が治って、大学へ戻ってきたこと。
カフェテリアの昼が、もう普通の顔でここへ戻ってきていること。
鈴木も、美沙も、麗奈も、田中も、いずみも、それぞれのまま自然に同じ輪へいること。
その中に、私もちゃんと混ざっていたこと。
担当前面、という感じではない。
今日はただ、紗希としてそこにいた。話して、笑って、少し褒められて、少しうれしくなって、その流れのまま次の遊びへ向かおうとしている。
そういう時間も、たぶん記憶になる。
特別な夜だけじゃない。誰かを大きく支えた日だけでもない。こういう、講義の合間の雑談みたいな、少し騒がしくて、少し甘くて、何気なく次へ続いていく時間も、きっとちゃんと残っていく。
それは、思っていたよりずっとやわらかくて、思っていたよりずっと大事だった。
「紗希ー」
いずみが呼ぶ。
「行くぞー」
「はい」
私はその声に返しながら、小さく息をつくみたいに落ち着く。
こういうのもまた、ひとつ大切な記憶になるのだろう。
たぶん今日は、その入口の日だった。




