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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第57話 甘え担当、味をしめる


 大学のカフェテリアという場所は、ときどき妙に平和な顔をしている。


 講義と講義のあいだの、少しだけ空いた時間。

 トレイの音、遠くの話し声、飲み物のふたが閉まる小さい音。何か大きな事件が起きるには少しゆるくて、どうでもいいやりとりが転がるにはちょうどいい。


 だから、その日も最初は、本当にどうでもいい会話から始まった。


「風邪はよくなったみたいだな」


 鈴木が、紙パックの飲み物を机に置きながら言う。

 声はいつも通り落ち着いていて、でもその言い方の中に、ちゃんと心配の残りがある。


「おう」

 いずみは少し笑って頷く。

「だいぶ戻ったw」

「ノートありがとな!」


「それは別にいい」

「ちゃんとあとで見返せ」


「はいはいw」


 会話としては、それだけだ。

 でも、その“それだけ”が、妙に大学の日常らしかった。

 隣では美沙もわりと静かで、何を考えているのか、澄ました様子で待機している。私も、今のところは前へ出る必要を感じていなかった。


 いずみと鈴木が話して、私はその横で聞いている。

 そのくらいの温度がちょうどいい昼だった。


「でも、今回は紗希がいろいろ考えてくれて助かったんだよなー」


 いずみがそう言った瞬間だった。


 私は、その一言で少しだけ止まる。

 助かった。

 いろいろ考えてくれて。


 その並びが、思っていたより深いところに入る。

 しかも今の言い方は、わりと素直だった。軽く流すための褒め方ではなく、思ったことをそのまま口にした感じがある。


「えへへ」


 気づくと、そんな声が先に出ていた。

 かなり正直だった。

 かなり、甘いほうへ寄っている。


「もっと褒めてください」


「うわ、出た」

 いずみが笑う。

「今日はその感じかw」


「だって、うれしいので……」


 隠す気にもなれなかった。

 先日あれだけたっぷり甘やかされたあとだ。たぶん私は、ちょっとだけ味をしめている。

 少しだけ、ではないかもしれない。たぶん、わりとしっかり。


「紗希えらいえらい」

 と、いずみが言う。

「ちゃんと段取りも考えてくれるし、頼れるし、いい子だなー」


「はい……」


「おー、よしよし」


「んふふ……」


 向こうの声がやわらかい。

 私はそれに、かなり素直に甘えにいく。ここが大学のカフェテリアで、鈴木が向かいにいて、美沙までいることは、一応わかっている。でも今の私は、そのへんを少し押しのけるくらいには、褒められて満たされるほうへ寄っていた。


「かわいいなw」


「そうでしょう……」


「認めるんだw」


「今日は認めます……」


 そこで、向かいから勢いのある声が飛んだ。


「え、なにそれ!」

「紗希だけずるくない!?」


 美沙だった。

 さっきまで静かだったのに、甘やかしの気配を察知した瞬間だけ、反応が異様に早い。


「あたしも甘やかされたいじゃん!!」


「そういう感情で飛び込んでくるなよ」


 鈴木の返しは、かなり乾いていた。

 乾いていたけれど、本気で拒絶している感じではない。いつもの、少し呆れた鈴木の温度だ。


「ふん、お前に?」


「なにその反応ー!?」

 美沙がすぐに抗議する。

「うちだって頑張ってるんだけど!? めっちゃ有能なんだけど!? てか今の流れ見たら、普通“よしよし”案件っしょ!」


「どこの普通だ」


「うちの普通!」


「信用ならないな……」


 そこから先は、かなりいつものふたりだった。

 美沙は全力で“甘やかされたい”を主張し、鈴木はわりと冷めた顔でそれを受け流す。でも、完全に切るわけでもなく、いちいちちゃんと返してしまうあたりが、また鈴木らしい。


「えー、紗希には“いい子いい子”してるじゃん!」


「いずみがしてるだけだろ」


「じゃあ鈴木もしなよ!」


「なんでだ」


「なんでって、そこに甘やかされたいギャルがいるからだよ!」


「説明が雑すぎる」


「でも、うち今日だいぶかわいくない?」


「その自己申告がもう怪しい」


「うわ、見てこれ田中なら絶対褒めてくれるやつー!」


「それは田中が雑なんだ」


 一方で、こちらはわりと平和だった。

 美沙と鈴木が向こうで騒いでいるのを、いずみと私は少し横目で眺めながら、それでも甘やかしと甘えをやめる気配がない。


「おー、紗希はいい子だなー」


「はい……」


「助かるし、素直だし、今日は特にかわいい」


「今日は特に、はだいぶ嬉しいです……」


「まだ続けているのか……」

 鈴木が半分呆れたように言う。


「続けます」

 と、いずみがあっさり返す。

「今、こっちはこっちでいい流れだから」


「勝手に流れを完成させるなよ」


「いやでも、だいぶ平和でいいじゃんw」


「平和ではあるな……」


 美沙が、そこにさらに食い下がる。


「ちょっとー! そっちだけ平和に満たされるのずるいんだけど!」


「満たされる、って自分で言うんだ」


「だって満たされたいもん!」


「そこまで素直だと逆にすごいな……」


「でしょ!? だから褒めて!」


「その流れには乗らない」


 鈴木の返しは相変わらず冷めているのに、美沙はぜんぜんへこたれない。むしろその冷たさごと、いつものじゃれ合いの一部として受け取っている感じがある。


 私はその騒がしさを聞きながら、まだ少しご機嫌なままだった。

 満たされることを覚えた甘え担当は、本来ならもう少し大人しくしていてもよさそうなのに、どうやら味をしめたぶんだけ、褒められる入口にすぐ反応するようになってしまったらしい。


「紗希、ちょっと満足そうすぎるなw」


「満足しています」


「隠さないんだ」


「うれしいので……」


 いずみが笑って、また少しだけ甘やかす手つきになる。


「いい子いい子」


「んふふ……」


「もう完全に味しめてるだろw」


「……否定はしません」


 そこで、向こうの騒ぎがちょっと大きくなる。


「だから一回くらい“美沙えらいねー”とかあってもよくない!?」


「要求が具体的すぎる」


「じゃあ“かわいいね”でも可!」


「可とか不可とかの問題でもない」


「出たよ、理屈っぽい!」


「お前が雑なんだ」


「うちは感情で生きてるの!」


「それを誇るな」


 いずみがついに吹き出す。

 私もつられて少し笑う。鈴木は呆れているのに、切り捨てはしない。美沙はぜんぜん諦めない。たぶんこのふたりは、こうやって揉めながら、少しずついつもの距離を作っている。


 そのことを、私はちょっとおもしろく思う。


 やがて、満ち足りた熱が少しずつ落ち着いてくる。

 褒められた。かわいいと言われた。いい子だとも言われた。たぶん今日は、それで十分だった。

 甘え担当は、もうかなり満足している。


「ふう……」


 小さく息が漏れる。

 それと一緒に、少しだけ重心が引いていくのがわかった。さっきまでの、褒められにまっすぐ飛びつく感じが少し落ち着いて、代わりに、もう少し斜めから見る向きが戻ってくる。


「……で」


 私がそう言うと、いずみがすぐに笑う。


「お、戻ってきた?」


「たぶんね」


 私は向かいのふたりを見やる。

 いや、正確には、見やるみたいな気持ちになる。美沙はまだ「一回くらい褒めても減らなくない!?」と粘っているし、鈴木は「減る減らないで話すな」と応じている。


「あの二人は、放置していていいのかい?」


 言いながら、少しだけ可笑しくなる。

 こちらはひとしきり甘やかし甘やかされを済ませたあとだというのに、向こうはまだ元気にやり合っている。


「まあ」

 と、いずみが肩をすくめる。

「じゃれあってるだけだし、大丈夫だろ」


「雑だねえ」


「でも合ってるだろ?」


 私は少しだけ黙って、それから小さく笑う。

 たしかに、その通りだった。今のあれは本気の衝突ではない。美沙は勢いで甘やかしを要求し、鈴木は呆れながらも付き合っている。あのふたりなりの、だいぶ騒がしい平衡だ。


「まあ、そうだね」


「でしょ」


 向こうではまだ、

「ちょっとくらい“がんばってるな”とか!」

「そこまで要求を細分化するな」

 みたいな応酬が続いている。


 私はその騒がしさを聞きながら、今日の空気を少しだけ抱え直す。

 大学のカフェテリア。講義の合間。普通の昼。風邪が治って、大学へ戻ってきて、鈴木がいて、美沙がいて、いずみがいて、その横で私は少し甘やかされすぎた。


 内容としては小さい。かなり小さい。

 でも、その“小ささ”の中で、いろいろなものがもう自然に混ざっていた。


 甘え担当が少し味をしめていること。

 美沙が、誰かだけ甘やかされるのを見て黙っていないこと。

 鈴木が、そんな美沙を冷めた顔で受け流しながら、ちゃんと会話を成立させてしまうこと。

 いずみが、その全部をわりと当たり前の顔で受け止めていること。


 そして最後に、そんな昼を少し斜めから見て、ちゃんと大丈夫そうだと判断する私がいること。


 たぶん、こういうのも日常なのだろう。

 少し騒がしくて、少し甘くて、でもべつに特別ではない。そんな普通の一幕として、もう自然にここへある。


 それは、思っていたより少しだけうれしかった。


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